01

街灯の下でうずくまる、低学年くらいだろう小さな少年の姿につむぎははた、と歩行を止めた。湿り気の帯びた熱っぽい風が、するりと首筋を撫でていく。

───なんで、こんなところに。

スクールゾーンから外れた商店街の裏通り。小学生が通るには、少々、心許ない道だった。道幅は狭く、古い建物の影が落ちるせいか、昼間でもどこか薄暗い。

具合でも悪いのだろうか、それとも迷子⋯──?

休日だというのに、なぜか黒いランドセルを背負った背中からは、生憎、その表情までは窺えなかった。
小首を傾げながら、つむぎはゆっくりと爪先を向ける。

ガサガサと、安売りで購入した一週間分の食材が詰め込まれた袋が、指の先で不規則に揺れていた。映画でも観ながら食べようと思っていたアイスはきっと、帰り着く前には溶けてしまうだろう。

仕方ない、ちょっとだけ残念に思いながら、つむぎはひと昔前のCMで流行った曲が流れているイヤホンを耳殻から外した。

「⋯⋯こんにちは。」

つむぎは、背後からそっと声を掛けた。しかし、少年は顔を伏せたまま、ぴくりともしなかった。
聴こえなかったんだろうか──つむぎは、もう一歩、少年に近づいた。

「えっと。キミ、こんな所で何してるの?」
「⋯⋯帰り道を、忘れちゃって」

それは囁くような声に反して、まるで明日の天気をはなすような、やけにあっさりとした口振りだった。

「⋯そっか。」

ひとまず、反応が返ってきたことに、つむぎは軽く息を吐いた。少年は未だ膝を抱えたままだったが、泣いていた、というわけではないらしい。
こっそりと少年の足元を覗けば、蟻の行列が電柱の根元に群がっていた。ぐったりとしたカマキリが、ちいさな巣穴に消えていく。
その様子をぼんやりと眺めながら、つむぎはゆっくりと口を開いた。

「あーー⋯良かったら、お家まで送ろうか?ほら、暗くなったら危ないし⋯⋯」
「⋯いいの?」
「うん。お家の住所がわかるような物あるかな?それか、目印になるような建物とか公園とか⋯」

ことごとく首を振る少年に、つむぎはちいさく唸った。このまま闇雲に歩くよりも、交番に連れて行った方がいいかもしれない。
そうこうしている間にも辺りはだんだんと薄暗くなり、ぽつぽつと街灯が灯りはじめていた。初夏とはいえ、このままではあっという間に夜になってしまうだろう。頭上にある電球がチカチカと不気味に点滅をしながら、少年とつむぎを照らしている。

「⋯とりあえず、大きな通りに行こっか。此処はちょっと⋯──狭いから」
「うん」

怖がられないように言葉を考えあぐねながら言ったつむぎに、少年はとくに抵抗も見せずに頷いた。
そのあっさりとした態度に安堵すればいいのか、それとも心配すればいいのか──つむぎは複雑な気持ちのまま、小さく笑って少年に手を差し伸べた。

「⋯歩ける?」
「うん、だいじょうぶ」

少年の小さな手のひらが、触れる。「あ⋯⋯、」ちょこんと乗った手のひらの、そのあまりの冷たさにつむぎは思わず声をこぼしていた。
氷に触れているみたいだ───。いったいどれ程の時間、この場所に座り込んで居たのだろう。夜はまだすこし肌寒いとはいえ、それにしても異常なくらい体温が冷え切っている。

「さ、寒くない?」
「ううん、全然」
「そう⋯」

それっきり、大通りに出るまで少年はひと言も話さなかった。つむぎも、無理に口を開くことは無かった。右手に持つビニール袋がガサガサと鳴く、かさついた音だけが沈黙に溶けていく。
その沈黙の中でも、つむぎは自分の体温を分け与えるように少年の手をずっと握っていた。


「この通り、見覚えある?」
「ううん」
「そっか⋯。んー、もうちょっと歩いてみようか」

ようやく人通りのある道に出て、つむぎは少しだけ息を吐き出した。気が重い、という程でも無かったが、それでもふたりっきりという空間は、たとえちいさな子供とであっても些か緊張してしまう。元より人付き合いというものが得意ではないのもあって、尚更、顔も見えない少年との距離感を掴み兼ねていた。

「えーっと、普段、お友達と何処で遊んだりするの?」
「公園とか、僕の家とか」
「公園かぁ⋯。じゃあ、近くの公園に行ってみよう」

軽く手を引くと、少年はすんなりとつむぎについて歩いた。少年の歩幅に合わせて歩きながら、つむぎは靴先を見て歩く少年をじっと見下ろした。

ハーフパンツから覗く真っ白な肌と、細い項に掛かる黒い毛先。深く被った帽子のせいで、未だ少年と視線を交わせてはいないが、それでもひんやりとした体温と相俟って、つむぎはひどく儚い印象をうけた。たとえ目を離した隙に消えてたって、可笑しくはないとさえ思う。

もしかしたら顔を見られたくないのかもしれないと、つむぎは詮索する代わりに少年の手をぎゅっと握りなおした。
「⋯お姉さん?」不思議そうに首を傾げた少年に、「はぐれないように、ね」つむぎはなんでもないという風に軽く笑う。


大通りから、公園はそう遠くはなかった。近くには交番もあるので、見覚えがなければやっぱりお巡りさんに頼もう──そうひっそりと思考していたら、「──⋯がっこう。」少年の足が、不意に止まった。

───「そういえばキミ、学校は?どこの学校に通ってるの?」

それは、つむぎが聞いた他愛ない会話の続きだった。

ぽつりと呟いた少年に、つむぎは首を傾けた。公園まではあと数メートル、といった所だ。
少年に釣られて、つむぎの足も自然と止まる。

「⋯僕、学校なら分かるよ」
「えっ⋯?」
「こっち!」

今度は、つむぎが少年に手を引かれる番だった。「わっ!?」瞠目し、困惑するつむぎを置いて、少年はぐいぐいと引っ張って歩きだした。思ったよりも力が強い──半ば引き摺られるような形で脚を動かす。

「こ、公園は?!」
「こっちだよ!」

聞いてない⋯!!愕然とするつむぎの横を、奇妙なものを見るような顔をしてサラリーマンが横切っていく。交番、そしてお目当ての公園までもを通過した時にはつむぎはもう抵抗を諦めていた。

知った場所が見付かって、余程嬉しいのだろう。上機嫌で手を引く姿は年相応に見え、微笑ましくもある───小走りで着いていかなくてはいけなかったので、体力の無いつむぎは全くそれどころではなかったが。

「つ、⋯着い、た⋯??」

暫くして少年はようやく足を止めた。少年と手を繋いだまま、腰を折り、げほげほと咳き込むつむぎに「ねぇ、ちょっと、大丈夫?」少年が呆れたような口調で言った。

はぁーー⋯と深く息を吐き、ようやく落ち着いた肺を抑えながら顔を上げたつむぎは、そして、再び瞠目した。

「えっ⋯、じ、神、社⋯??」
「うん、近道なんだ」
「ち、近道⋯⋯」

にこやかに言う少年の声も、つむぎの頭にはあまり入ってこなかった。
よりにもよって、あの曰く付きの神社とは───つむぎの口がひくりと引き攣る。

鳥居で写真を撮ると事故に遭うとか、深夜に行くと帰って来れなくなる、とか。───どれもこれも信憑性の無いものばかりだが、一応、この辺りでは知らない人はいないくらいには有名な神社だった。
昔はよくテレビの取材やら噂を聞き付けた若い人たちやらで溢れていたが、それもどこかのタイミングでぴたりと止まり、いまでは近所の人たちも滅多に近寄らない、無人の神社となっている。

「え⋯?此処を通るの⋯?本当に⋯?」

立派な鳥居は老朽が進み、苔や蔦で覆われていた。奥にあるちいさな祠も、屋根が剥がれ、建っているのが不思議なくらいに傾いている。

「うん。ここを抜けた方がずっと早いんだ」

唖然と鳥居を見上げるつむぎの手を、少年が軽く引く。「うっ⋯。」つむぎは、さぁーっと血の気が引く音が聞こえたような気がした。

「と、遠回りしてもいいから、此処を通るのはやめよう⋯?」

噂は、所詮、噂だ。とはいえ、此処を突っ切るような肝っ玉は生憎持ち合わせていなかった。かといって少年を見放す訳にもいかず、恐る恐ると尋ねたつむぎに、少年は不思議そうに首を傾げた。

「なんで?此処を通らなきゃ、帰れないよ?」
「が、学校の名前を教えてくれたら、わたし、調べるよ」

そう言っている間にも、脚はズルズルと前に進む。うっそりとした生い茂った木々に囲まれているせいか、がくんと気温が下がった気がして、つむぎは思わず身を震わせた。
まだ日が落ちる時間帯では無いはずなのに、明かりをも遮り、辛うじて足元と、そして真っ白な少年の肌だけがつむぎの視界に映っている。

「まあまあ。着けばわかるよ」
「着く前に教えて欲しいなぁ⋯!!」

切実な悲鳴も、少年には届いていないようだった。
踏ん張っているはずなのに、土を踏む脚が、なんだか後ろから押されている感覚がする。

互いに譲らないまま、気付けば、鳥居が目の前にあった。蔦と苔だけでなく、古びたお札がびっしりと柱を埋めている。
その異様な光景に、ぎょっと瞼を見開いたつむぎの手から、突然、少年の指がするりとほどけた。

「大丈夫、こわくないよ」
「──え?」

すとん、と耳に流れた言葉に、つむぎはゆっくりと後ろを振り返った。いつの間にか、少年はそこに居た。深く被った帽子の下で、口許だけを楽しそうに持ち上げている。

「いつもはね、来た人をなんとなく連れていくんだけど。そういえば、連れてくるのははじめてかも」
「え?⋯えっと⋯?」

どういうこと?──つむぎは、ぱちりと目を瞬いた。少年の言葉が、ぐるぐると頭の中で回っている。連れていく?連れてきた?何処に?ここに──?

「お姉ちゃん、変な人ってよく言われない?」
「え?⋯⋯い、言われない⋯」
「そっか。そういう人もいるかもね」

軽い笑い声が、木々の隙間を抜けていく。無邪気なはずなのに、その愉しそうな声色に、背筋がぞわりと粟立った。つむぎの足が無意識に土を滑る。

「あ、まって。そっちは危ないよ」
「は?え?」
「大丈夫だよ、ちゃんと送るから」
「え⋯、送るのはわたしじゃ⋯?」
「ううん。⋯うん。まあ、どっちでもいいや」

少年の、白い指先がゆっくりと伸びてくる。身体に触れる瞬間まで、つむぎはそれをただ眺めることしか出来なかった。
トン、と軽く肩が押される───「ま、まって!」その前に、つむぎは慌てて口を開いた。

「ねぇ!お、送らなくていいの?!キミ、ひとりで大丈夫?!」
「⋯⋯はは。やっぱりお姉ちゃんって変わってるね」
「そ、そういう事じゃなくて⋯!!」

トンッと押された肩に、今度こそ、身体が、傾いた。崩れた重心に、つむぎは慌てて足を後方にずらした。ジャリッ、と小石が鳴る。

「ち、ちょっと⋯ねぇ?!⋯⋯──あれ。」

踏みとどまったことにホッとして、顔を上げたつむぎはぱちりと目を丸めた。───少年が、いない。

「⋯⋯えっ?」

つむぎは慌てて周囲を見渡した。いつの間にか、爪先が鳥居を越えていた。靴裏に触れる感触が、土から硬い石へ変わっている。

目の前には、ちいさな祠だけがあった。 遠目からは傾いている様にも見えたが、思ったより、しっかりと腰を据えてる。近くにお墓でもあるのか、仄かなお香の臭いが辺りに漂っていた。

───「今度は、僕を見つけてね」

不意に、そんな声が耳に響いた。笑いを含んだ、無邪気な声。じめっとした生温い空気が、耳元を擽っていく。

つむぎは反射的に振り返った。けれど、そこには鮮やかな赤い鳥居が、ぼんやりと暗闇に浮かんでいるだけ──。

ガサリッ、と鳴ったビニールの音に、つむぎはハッとして意識を擡げた。袋の持ち手が、手汗でじんわりと湿っている。

「⋯と、とりあえず、明かり⋯」

つむぎはごそごそとポケットを漁った。少年を探すにしろ、こうも暗くては歩くこともままならない。

「あれ⋯⋯?」

引っ張りだした携帯の画面に浮かぶ、日付と現在の時刻。だが、その上部に表示されるはずのアンテナが、なぜか正常に機能していなかった。

「け、圏外?」

山の中じゃあるまいし──。首を傾げて、電源を入れ直してみても、増えたり減ったり───頻りに点滅を繰り返すだけだった。

「え、うそ。壊れたっ?」

ああ、もう、仕方ない──数秒の逡巡のあと、ひとまず電波のことは後で考えることにして、つむぎはライトを起動した。問題なく付いたことに安堵して、ぐるりと境内を見渡す。が、やはり少年らしき人影はない。

「⋯か、帰った、のかな?」

木々の向こうに広がる暗闇に、つむぎはごくりと唾を呑んだ。さすがに、あの木々の中を探すほどの勇気は無い。すこしばかり後ろ髪を引かれる気持ちで、つむぎは鳥居に足を向けた。──その時だった。

「──誰か居るのか?」

不意に、背後から声が落ちた。ガサガサと葉が揺れる音がしたと思えば、祠の向こうからぬっと人影が現れる。

つむぎは、反射的に出かかった悲鳴を押し込んだ。驚いたように固まる男性と、息を呑んだまま動けないつむぎ。互いの視線が、数秒の間、静かに重なる。

「なんで、こんな所に⋯。いや、此処だから、か。う〜ん⋯参ったな」

先に動いたのは男性だった。ぽりぽりと後頭部を掻きながら、こちらへとゆっくり歩いてくる。

皺の入った白いシャツと、よれたネクタイ。右手には透明な水晶玉のような物を握り、左手には黒い手袋を嵌めている。
葬式帰りのような黒い装いにしては、なんだか不思議な組み合わせだった。

「あー⋯⋯君、大丈夫か?」
「あっ、はい⋯」

つむぎは咄嗟にそう答えていた。けれどすぐに、この薄暗い場所で、やけにあっさりと話し掛けてきた男性にちいさく首を傾げる。

「そうか。ひとまず、ここは少々危険だから──」

男性はホッとしたように肩の力を抜き、穏やかな足取りで近づいてくる。が、つむぎの持つビニール袋に視線を向けた途端、その動きが不自然に止まった。

一拍の後、静まり返った境内に、ぐぅうぅ、と腹の虫が響き渡る──。

「と、とにかく、だ!此処は危ないから、明るい所に出よう!」

男性が、慌てたようにゴホンっとひとつ咳を払った。それを耳に、つむぎは意識を手元へと落とした。男性のお腹の音に、たった今、袋の中身を思い出したのだ。

アイス、完全に溶けちゃってるだろうなぁ⋯⋯──と。そんな、どうでもいい事が頭に浮かぶ。

なんだか、忙しない様子で辺りを気にしてる男性には悪いが、つむぎの意識はすっかり特売でまとめ買いしたお肉に向いていた。
せめて、お肉だけでも死守したいな──無意識に、持ち手に力がこもる。

「──すぐ向こうに大きな通りがある。さあ、行こうか」

さっと背を向けた男性に、はっと思考が引き戻された。顔を持ち上げ、慌てて追い掛けようとして──「あ、あの⋯!」なぜか、声が飛んでいた。

つむぎは思わず開いた口を閉じた。咄嗟に呼び止めたものの、続く言葉が見当たらない。

「ん?」

つむぎの沈黙に気づいたのか、男性が立ち止まって首を傾げた。その仕草があまりにも自然で、つむぎは戸惑いを隠すように視線を逸らす。

そもそも、この人は一体誰なんだろう──。

正直、大人が近くに居るのは心強い。けれど、あの少年のように手放しで甘えられるはずもなかった。
べつに、つむぎはちいさな子供ではない。通りにさえ出れば帰り道は分かるはずだし、携帯だって、電波が入れば地図は動く。
わざわざ、よく知らない男性に着いていく必要があるのか、つむぎには判断がつかなかった。

──それに、少年のことが、まだ引っ掛かっている。

「どうした?」
「い、いえ、その⋯⋯」

戻ってきた男性に、つむぎはなんて言えばいいのか、言葉がわずかにもつれた。じっと言葉を待つ男性に、しばらく視線を彷徨わせた後でつむぎは意を決して口を開いた。

「あの、少年を、見てませんか⋯?黒いランドセルを背負った、低学年くらいの、男の子なんですけど⋯⋯」
「男の子?」

男性は、つむぎの言葉にぱちりと目を丸めた。

「はい。道に迷ってたみたいで⋯さっきまで一緒に居たんですけど⋯」
「いや⋯見ていないが⋯。本当に、一緒に来たのか?その子と、二人で?」
「?⋯⋯はい」

頷いたつむぎに、男性は眉間を軽く抑えた。困ったような、あるいは何かを深く考え込んでいるような表情だったが、彼はすぐに「……ああ、いや」と独りごちて首を振る。

「……とにかく、今は君のほうが心配だ。その"男の子"にまた会える保証はないし⋯第一、今の君はかなり……」

言いかけて、男性は言葉を切った。それから、ひどく気まずそうに鼻の頭を掻く。

「……かなり、危うい場所に立ってる。⋯⋯あー、違う。君のせいって言ってる訳じゃないぞ?」

つむぎは無意識に、自分が立っている地面に視線を落とした。少々年季は入っているが、至って普通の石畳のはずだ。

「そういう意味じゃないんだが⋯⋯いや、いいんだ。忘れてくれ。」

視線を下げたつむぎに、男性はなんでもないと言うように、軽く手を振った。
つい、その手の中で揺れる水晶玉へと視線を向けたつむぎに、男性は慌てた様子で背中へと隠す。

「あー……とにかく、とりあえずこの場所から離れよう。日が暮れると、ここはもっと暗くなるからな」

男性はそう言って、歩き出そうと踵を返した。その後ろ姿を眺めながらも、つむぎはすぐには動けなかった。行動の端々に、説明できない違和感がじんわりと滲んでいた。

「……あの」
「ん? 今度はどうした?」

男性は再度、足を止め、振り返った。その表情は、嫌悪もなにもない、柔らかなものだった。ボサボサの髪を少し気にしながら、ただ穏やかに笑っている。

「すみません、やっぱり……わたし、自分で大通りまで行ってみます。電波さえ入れば、帰り道も分かりますし⋯。お騒がせしてすみませんでした」

つむぎはそう言って、小さく頭を下げた。悪い人では無さそうだが、知らない人に着いていくにはこの場所はちょっと──暗すぎる。少年のことも見ていないのなら、わざわざ男性に着いていく必要はないだろう。

そう思っての事だったのに、予想に反して、男性は困ったように頬を掻いた。

「いや、それがだな……“大通り”って言っても、もしかしたら君の知ってる場所とは少々違うかもしれなくてな」
「え……?」
「あー……言い方が悪いな。いやほんと、俺が怪しいやつみたいになるんだが」

男性はそう言って、苦く笑う。その目元には、ただ疲労と少しの苦労が滲んでいた。

「俺は鵺野 鳴介。近くの童守小学校で教師をやってる。ほら、これが一番手っ取り早いか」

男性――鵺野は、くたびれたシャツの胸ポケットを探ると、プラスチック製のカードを差し出してきた。そこには確かに『童守小学校 教諭 鵺野鳴介』の文字と、彼の少し抜けたような、あどけない笑顔の写真が収められている。

「童守小⋯⋯」

つむぎは、書かれた文字をじっくりと目でなぞった。

「ああ。だから、怪しい者じゃない。少なくとも、君を拐おうなんて、そんな大それた度胸はないさ」

教職員証を見詰めるつむぎに、鵺野がハハッと軽く笑う。

教師、という響きに、つむぎはわずかに肩の力を抜いた。彼の妙に距離感の近い親しみやすさも、なるほど、子供を相手にしている職業なら納得がいく。

とはいえ、「童守小学校」なんて学校が、この辺りにあっただろうか。
つむぎはわずかに首を傾げた。が、鵺野が手際よくカードを仕舞うのを見て、ひとまずその疑問を心の隅に追いやった。

「あの……でも、アイスとか、お肉とか⋯ダメになっちゃうんで、早く帰らないと」
「お肉?⋯⋯ああ、その袋か」

鵺野はつむぎの掲げる袋の中身へ目をやるなり、口元を拭った。
そのあまりにも素直な反応に、つむぎは「えっと⋯」と言葉を濁す。

「ち、違うぞ?!これは別に腹が減ったとか、そういうんじゃなくてだな⋯!!」
「⋯⋯はい」
「⋯う〜ん。その間はすこし傷つくなぁ⋯」

鵺野はすとんと肩を落とした。けれど、その表情はどこか柔らかい。
困ったように頭を掻くその姿に、つむぎは小さく笑った。初対面のはずなのに、なんだか憎めない人だな、と思ってしまう。

「……まあ、とにかく、その食材を無駄にするわけにはいかないな」

軽く咳払いをしてから、彼はすっと背筋を伸ばした。

「よし。じゃあ、まずはここを出るとするか。大通りまで行けば、人もいるし、タクシーも捕まるはずだ」
「⋯⋯それじゃあ⋯⋯お願い、します」

つむぎは少しだけ悩んだ後、ぎこちなく頷いた。まさか迷子を送り届けるつもりのはずが、自分が誰かのお世話になるなんて、ちっとも思っていなかった。
わずかに眉を垂れ下げたつむぎに、彼が安心したようにひとつ、頷く。

「ああ、任せてくれ」

そのカラリとした笑顔は、なぜか不思議なほど、心強く感じた。

prev   back   next