02

タンタンと響く軽快な足音と、それから、砂を踏むちいさな音。それらの音の合間を、甲高い蝉の鳴き声がまるで、まとわりつく様に追い掛ける。


──蝉の声、久々かも。

つむぎは目前で揺れる、鵺野の臀ポケットに無造作に突っ込まれた白い紙の束をぼんやりと眺めながら、ふと、そんなことを思った。

高層ビルに、広い道路。チカチカとしたネオンライトとは違う、しっとりとした静けさと木々の匂いが、なんだか少しだけ懐かしく思えた。

きっと、明日も晴れるのだろう。気づけば、砂を散りばめたような星空が、木々の隙間から足元をほんのりと照らしていた。


「──ところで、君はどうして神社に居たんだ?」

やけに長い石段を下りながら、不意に鵺野が言った。突然の質問に、手の中の袋がガサリと揺れる。
──どうやら、いつの間にか沈黙に慣れてしまっていたらしい。

「あ〜⋯言いたくないなら、無理に話さなくてもいいが⋯」

どう、話せば良いのだろう。そのわずかな沈黙に、鵺野がすぐに言葉を重ねた。

「悪い。詮索し過ぎたな」
「い、いえ⋯そんなこと⋯。ただ、本当に、男の子を家まで送るつもりだっただけで⋯」

もごもごと、声がしりすぼみに消えていく。言いたくない訳ではない。ただ、つむぎ自身、なぜこんなことになっているのか、まだ理解が追い付いていないだけだ。

「ああ、君が一緒に居たって子だな」
「⋯はい。その子が、近道だって言うので⋯その⋯⋯神社を通れば」
「近道ぃ?神社が?」

ぐるんと向いた双眼に、つむぎは思わず肩を跳ね上げた。彼の立派な眉毛が、怪訝そうに歪んでいる。

「神社の先に道なんてもん無いはずだが⋯⋯」
「え?」

難しい表情で何かを呟いた鵺野に、つむぎはかくりと首を傾げた。蝉の声が邪魔をして、声が上手く聞き取れない。

聞き返すべきか、どうか。けれど、つむぎの視線に気付いた彼が、すぐになんでもないという顔でけろりと笑った。

「とにかく。君以外に人の気配は無かったから、そこは安心してくれ」

そう言って、目元を細めた鵺野に、つむぎはつい、頷いていた。
なぜ、誰も居ないと分かるのか。それが本当なら、男の子はちゃんと家に帰れたのか。
つぎつぎと浮かぶ疑問も、不思議と、一切つむぎを疑っていないらしい明るい笑みの前では、まるで些細なことのように思えてしまう。

「なーに、そう心配することはないさ。なんたってこの俺が付いてるんだからな!」

つむぎの沈黙をどう受け止めたのか、ぐるりと身体ごと振り向いて、彼がそう豪快に笑った。よれた黒いネクタイが、白いワイシャツの上でゆらゆらと揺れている。まるで、振り子の時計みたいだ。

「あの⋯」

それらを眩しそうに眺めていたつむぎは、ふと目に付いた光景に、思わずそっと視線を逸らした。伝えていいものか、数秒だけ迷ってから、差し出すように声を乗せる。

「鵺野さん、その⋯⋯

───ズボンのチャック、開いてます」

「なにぃい?!!!」──キィィン、と。
木の枝で眠っていた鳥が一斉に羽を広げ、鳴いていた蝉さえ思わず静まり返る。甲高い絶叫が、夜気の中へと響き渡った。





「ほら、もうすぐ大通りだ」

木々の隙間から漏れる人工的な明かりに、つむぎはほっと細く息を吐いた。自然と早まる歩調に、いつの間にか鵺野を追い越していたようで、後ろから軽い笑いが追い掛けてくる。

「こらこら。俺を置いてかないでくれ」

穏やかな口調で隣に並んだ彼は、先ほどの慌てっぷりが嘘みたいに、気の抜けた笑みを浮かべている。

「あんまり急ぐとまた転ぶぞ」

そう、悪戯っぽく笑う彼に、つむぎはぎくりと肩を縮こませた。鳥居を抜けてから、もうかれこれ4度ほどは、彼のお世話になっていた。しおしおと、歩調を緩めたつむぎに鵺野がくつくつと喉を震わせる。
それもこれも、このトンネルみたいな木のせいだ──そう思うことにして、つむぎはこっそりと唇を尖らせた。

いつの間にか、あれほど鼻についた線香の匂いは、もうどこにも残っていなかった。


「や〜っと抜けたか」

言いながら、鵺野がぐんっと腕を高く突き上げた。凝り固まった腰を解すように、軽く左右に捻っている。その姿を視界の端に捉えながら、つむぎはわずかに首を傾げた。
──こんな所に公衆電話なんてあったっけ?

「さあ。これ以上遅くなる前に帰ろう」
「あ、はい」

歩きだした鵺野に釣られるように、後を追う。
たまに通る車の音、ちょっとした誰かの笑い声。それから、じっとりとした湿った風と、どこかの家の晩御飯の匂い。
遠くから聴こえる蝉の声になんとなく後ろ髪を引かれながらも、つむぎは無言で足を進めた。

夕飯、何にしようかな。ずっしりと腕に掛かる食材を一度持ち直しながら、頭の中でレシピを広げる。微かに鼻腔を抜けるカレーの匂いに、なんだか途端にお腹が減った気がした。

「そういえば、家はこの辺りなのか?」
「あ、すぐ近くです。公園を抜けて、角の交番を通り過ぎた住宅街なんですけど⋯⋯あれ?」

つむぎはぱちりと目を瞬いた。気づけば足は止まっていた。「公園?⋯⋯この辺りにあったか?」──そう考え込む鵺野の背後には、三本の枝分かれした道が広がっている。

「どっち、だっけ⋯⋯?」

──そもそも、こんな道、あっただろうか。つむぎは慌てて携帯を引っ張りだした。
「お、おい!どうした?!」──ぎょっとした表情で、近寄って来た鵺野にも構わずに、つむぎは画面に目を懲らす。

「な、なんで⋯?!」

電波は、相変わらず、点滅していた。地図アプリも、連絡帳も開けない。それどころか、現在時刻を示す数字が、まるで生きているみたいに不規則に形を変えていた。

「なんだ?!なにがあった?!」
「こ⋯っ!」
「"こ"⋯??」
「壊れちゃいました!」

半ば、泣きそうな気持ちで、つむぎは鵺野の鼻先に携帯を突きつけた。この間買ったばっかりなのに⋯!

「⋯携帯?これが?」
「鵺野さん、携帯見たことないんですか?!」
「い、いや!見たことがない訳じゃ無いが⋯⋯」

つい、縋るように見詰めた視線が、鵺野の言葉で信じられないものを見るように変わる。

「そうか⋯随分、薄くなったんだな」
「そこからですか?!」

恐る恐る画面を覗き込みながら、ぽりぽりと後頭部を掻く彼に、つむぎは今度こそあんぐりと口を開いた。困ったように笑う彼の顔に、つむぎは何度も瞬きを繰り返す。

しばらくの沈黙のあと、つむぎは諦めて携帯をポケットにしまった。ひとまず交番に行けば、きっと、何とかなるだろう。

「あの、交番は近くにありますか?」
「交番?ああ、それなら童守交番が一番近いな」
「童守⋯⋯?」

また、それだ。知らない交番、聞いたことのない小学校。当然のように言う彼に、つむぎは言葉を飲み込んだ。聞いてもきっと、笑って教えてくれるはず。なのに、その一言だけが、なかなか口から出てこない。

「どうした?やっぱり、家が分からないか?」
「⋯⋯やっぱり?」
「ん?いや。ソレが使えないから、困ってるんだろ?」

ついっと、つむぎのポケットを指差した鵺野に、つむぎは「ああ⋯」と釣られるように視線を落とした。
──やっぱりって、そういう⋯。

つむぎは、ぶんぶんと頭を振った。突然の行動に、鵺野が「うおっ?!」と狼狽えた声がした。とにかく、交番に行こう。考えるのはその後でもできる。

「鵺野さん!交番への行き方、教えてください!」
「も、もちろん⋯教えるのは構わんが⋯」

ぐっと身を乗り出したつむぎに、鵺野が一歩、たたらを踏んだ。後ろに腰を反らし、両手を軽く上げたまま、参ったと言わんばかりに苦笑する。

「あーー⋯⋯いや。やっぱ、やめだやめだ!」

かと思えば、突然、何かを諦めたように、鵺野は空へ向かって息を吐いた。
そっと肩に置かれた手のひらに、つむぎはきょとりと瞠目する。

「あのなぁ〜⋯俺だって道案内くらいできるんだぞ?」
「⋯⋯一緒に、来てくれるんですか⋯?」
「そりゃあな。交番まで一緒に行くくらいはするさ」

そう、当然のように言ってのける鵺野に、いつの間にか、浮いた踵が地面に付いていた。
黒い手袋に、手には数珠。おまけに水晶玉まで持っているという、いかにも怪しげな装いをしているというのに、なんでだろう。不思議と、不安はなかった。

「ひとりで行かせたら、また転びそうだしな!」
「でも、迷惑じゃ⋯」
「迷惑なら、最初からここまで一緒に来てないさ」

パチン、と、不格好なウインクひとつ。まさかの切り返しに、つむぎは一瞬、きょとりと惚け、それからちょっとだけ口を弛める。
くすくすと笑ったつむぎに、「それに⋯」──鵺野がコホンとわざとらしく咳払いをした。

「夜道で女の子をひとりにして帰った、なんて噂が立ったら困るからな!」

堂々と言い切った彼に、つむぎは思わず目を瞬かせた。湿った夏の夜風が、静かに通り抜けていく。

「あ、あれ?」
鵺野が、困ったように首を傾げた。

「えっ?!ちょっと格好つけすぎたか?!」
「い、いえ!ありがとうございます、助かります!」
「そ、そうか⋯なら⋯⋯」

「で、でも⋯あの⋯──わたし、もう大学生、ですけど⋯⋯」

妙な沈黙が、ふたりの間を流れた。ブブーッ、とけたたましいクラクションの音が、どこか遠くの方で鳴っている。

「え?」
「成人してます⋯⋯一応」
「⋯⋯えぇ?」

ぽかんと口を開ける鵺野に、つむぎは困ったように笑った。

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