03
「おぉっと⋯⋯──大丈夫か?」
──ぐらり、と。
労るような声に、縺れた足が踏みとどまる。
行き場をなくした彼の両手が、ゆっくりと元の位置に戻っていく。その動きを、つむぎはただ、ぼんやりと眺めていた。
す、すいません⋯。そう口にしながらも、なぜか、首が上がらない。
伸びる影、歪んだ足元。手元の袋と、しわくちゃな彼のワイシャツだけが、たえず視界にちらついていた。
──どのくらい、歩いたのか。
不意に、耳を掠めた蝉の声に、つむぎはふと、顔を上げた。
ジジッ、と。湿った風に乗って届いたその音に、つむぎは緩慢に辺りを見渡す。
「ん?どうした?」
「いえ⋯⋯」
鵺野はただ、手の届く距離で立ち止まっていた。その姿を視界の端に、つむぎはじっと、アスファルトに目を凝らす。
「セミ⋯」
「蝉?」
石造りの外壁の下。ようやく見付けたちいさな蝉に、つむぎはそっと腰を落とした。背後から、覗き込むような影が掛かる。
見上げれば、ぼさぼさの髪の向こうから、木の枝が見えた。低い外壁を乗り越えて、長く枝を伸ばしている。
「⋯⋯落ちたのかもな」
釣られるように顎を上げて、鵺野がぽつりと声を落とした。それに答えるように蝉がジジッ、とひとつ鳴いた。つむぎはただ、その光景を静かに眺める。
「可哀想だが⋯⋯まあ、自然界ではよくある事だ」
「⋯⋯そう、ですね」
重なった影が、ゆっくりと引いていく。少しだけ明るくなった視界には、ひっくり返った蝉の影だけが忽然と残っていた。
「それでも⋯⋯──」
つむぎは、おもむろに指を伸ばした。そっと、蝉の身体を持ち上げて、それからゆっくりと地面に起こしてあげる。
「ひっくり返ったままじゃ、可哀想です」
覚束無い足取りで歩行をはじめた蝉の背に、つむぎはようやく腰を上げた。振り返れば、街灯のほのかな明かりが、瞳を丸めた鵺野の顔を淡く照らしていた。
「⋯すいません」当然のように居る彼に、気づいてつむぎは眉毛を下げた。
「いや…──」
ひとつ目を瞬いて、緩やかに首を振った鵺野の横を、蝉が羽を広げて飛び立っていく。
それを静かに見送ったあと、再びつむぎに視線を向けた鵺野の顔はひどく柔らかいものだった。
「⋯⋯そうだな」
鵺野が、くしゃりと笑う。
それがなんに対するものなのか、つむぎにはまだ分からなかった。
・
・
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「あの、もう此処までで大丈夫です」
遠くで揺れるブランコに、つむぎは静かに足を止めた。ちいさな公園の入口。規則的に並んだ街灯が、無人のジャングルジムを照らしている。
「⋯⋯此処で?」
鵺野の視線が、閑散とした公園をゆっくりと巡った。ぎゅっと寄った眉根にすこしだけ萎縮しながらも、「はい。」──つむぎはしっかりと首肯した。
「⋯⋯そうか」
何処かでコオロギが鳴いている───。その音と、変わらないくらいの声量で、ぽつりと言った鵺野に、なまえは少しだけ肩の力を解いた。
きっと、疲れているだろう。もしかしたら、テストの採点や事務作業が残っているかもしれないし、明日もきっと早いはず。
どうせ、このまま歩き続けたって帰る宛てなど何処にもないのだ。それなら、これ以上、彼を付き合わせる訳にはいかない。
「送って頂いて、ありがとうございました」
───『そんな地名、聞いた事もないが⋯。君、本当にここら辺の子かい?』
胡乱げな表情で、そう言ったお巡りさんを思い返して、つむぎはぎこちなく笑みを浮かべた。彼だって、知ればそんな顔をするかもしれない。
「いや、そんな大したことはしてないさ」
鵺野は、困ったように苦笑した。ぽりぽりと頬を掻くその姿は、どこか戸惑っているようにも見えた。
「それじゃあ⋯⋯気をつけて帰るんだぞ」
どこか言葉を探すように詰まらせながらも、彼は優しげな笑みを浮かべてゆっくりと背を向けた。ポケットに突っ込まれた紙の束が、変わらず彼のお尻で揺れている。
しばらく、その背中をぼんやりと見送っていたが、腕の重みにはたと気付いた。
──まって。食材、どうしよう⋯。
「ぬ、鵺野さん!!」
つむぎは慌てて声を張り上げた。電柱の下で、鵺野が怪訝そうに振り向いた。届いたことにホッとして、ぱたぱたと小走りで駆け寄る。
「こ、これ、良かったら貰ってください!」
言いながら、ずいっと袋を差し出せば、鵺野がきょとりと瞬いた。つむぎと袋とを交互に見て、それから素っ頓狂な声をあげる。
「えっ?!いいのか?!」
「あ。でも、アイスは溶けちゃってるかも⋯」
「あぁ、そりゃあこの暑さだしなぁ⋯⋯じゃなあぁああい!!!」
急に声を荒らげた鵺野に、今度はつむぎがきょとりと瞬く。
「え?」
「いやいやいや!!君が買った物だろ?!」
「?はい。」
「だから⋯!!!」
くぅぅぅ〜っと鼻の頭をしわくちゃにして、鵺野が天を仰いだ。ぷるぷると震えてる拳を見つめながら、つむぎはひとまず腕を下ろした。
受け取って貰わないと困るんだけどな──そんなことを思いながら、袋から飛び出したネギを見下ろす。
「君の夕飯じゃないのか?!」
「そう、ですけど⋯」
「なら、俺が貰う訳にはいかん!!」
断固拒否!──そう言わんばかりに突き出された腕に、つむぎはおろおろと視線を彷徨わせた。そ、そう言われても⋯⋯。
「それに、俺は礼が欲しくて君を送ったわけじゃない」
きっぱりと言い切った鵺野に、つむぎはゆるゆると視線を落とした。
「お、お礼じゃないです⋯」
「⋯違うのか?」
「ただ⋯腐らせるのは勿体なくて⋯」
もごもごと尻すぼみに消えていく言葉に、鵺野の眉がぴくりと動いた。
「⋯⋯腐らせる?」
低くなった声色に、つむぎの肩がますます縮こまる。
「帰って冷やせば⋯⋯いや──」
鵺野はそこで、言葉を切った。
袋を見下ろしていた視線が、静かにあがる。
「⋯⋯やっぱり、帰る家がないんだな?」
その言葉に、つむぎは勢いよく顔を上げた。
「そっ⋯!」
──そんなこと、ない。
そう言うつもりだったのに、なぜか喉につかえたみたいに言葉が出なかった。ぱくぱくと口を開閉するだけのつむぎに、鵺野がくしゃりと前髪を掻いた。
バレた。どうしよう⋯──その言葉だけがぐるぐると頭をまわる。
「それで?君はどうするつもりだったんだ?」
「ええっと⋯⋯。」
ちらり、と視線をあげれば、少しだけ困ったような、けれど真剣な眼差しと目が合った。
アスファルトに、ふたり分の長い影が薄く伸びている。それを視界の端に留めながら、つむぎはもごりと口を動かした。
「ホ、ホテルに⋯⋯」
「ほんとにぃぃぃ?」
じぃぃぃ、と覗き込む視線に、つむぎは思わず首を竦めた。
まだ、誤魔化されてくれるかも。そう思ったのに、思ったよりも簡単にはいかなさそうだ。
「あ。じゃあ、友達の家に⋯」
「いやいやじゃあって!!じゃあって、君ねぇ〜⋯」
はぁぁぁと頭上に落ちた溜息に、つむぎはおもむろに口を閉ざした。ひどく疲れた様子で額を抑える鵺野に、つむぎそっと苦笑を零す。
さっき、一週間分の食材を買い込んだばかりだ。ホテルになんて、泊まる余裕はきっとない。
「⋯ん?ちょっと待てよ⋯⋯ていうことは⋯⋯?いやいやいや⋯⋯それはダメだろ⋯⋯。かと言ってこのままって訳にも⋯⋯⋯」
うろうろと。顎を押えながら、なにやら考え込んでいる彼に、つむぎはなんて言えばいいのか、すこしだけ迷った。
警察も頼れない。友人もきっと此処にはいない。
だからといって、知り合ったばかりの彼を頼るわけにはいかない。
「⋯仕方ない。ここは一旦ホテルに⋯⋯」
言いながら、ポケットから財布を取り出して──「⋯⋯⋯。」中身を見た瞬間、彼が、ガックリと項垂れた。
その様子を見詰めながら、つむぎはそうっと口を開いた。
「あの⋯本当に、わたしは大丈夫なので⋯」
「大丈夫って⋯⋯帰る宛が無いんだろ?」
「その、一晩くらいなら、外でも⋯⋯」
「駄目だ!!!」
夏だし、暑いし。一晩くらいなら、きっと大丈夫。そう続くはずだった言葉は、鵺野によって遮られた。思いのほか大きな声に、つむぎはびくりと肩を揺らした。
「⋯⋯すまん。君を、恐がらせるつもりはなかったんだ」
鵺野が、ぽりぽりと後頭部をかく。 つむぎは小さく首を振った。それでも、視線は上がらない。
「それで⋯⋯」
こほん、とひとつ。乾いた音が頭上に落ちた。ゆるゆると上げた視界の先では、くたびれたネクタイが微かに揺れている。
「⋯何度も聞くようだけど、本当に、帰る家がないんだな?」
「──⋯はい」
しっかりと耳に届いたその声に、つむぎは今度こそはっきりと頷いた。
街灯の明かりを反射して、水晶玉がきらりと光る。その表面に、なんとなくあのお巡りさんの顔が、ぼんやりと浮かび上がってくるような気がして、つむぎはそっと横を向いた。
彼はいま、どんな顔をしているのだろう。
「あ〜〜〜⋯⋯」
わしゃわしゃと、髪を掻き毟るような音がした。少しだけ遠ざかった影が、あちらこちらに身体を捻りながら、全身で頭を抱えている。
それから突然、ガンガンっとなにか硬いものにぶつかるような物音。電柱か外壁だろうか。つむぎはただ、静かに立ち竦むことしかできない。不意に、ぴたりと音が止む。
しばらくして戻ってきた影に、つむぎは恐る恐る顔を持ち上げた。
「ぐぬぬぬ⋯⋯⋯はぁあぁ⋯⋯。やむを得ん⋯⋯。」
どっぷりとしたため息と、低い声。視界に入ったその顔に、つむぎはぎょっと目を見開いた。
わしゃりと掴むように額を抑えた鵺野の右手には、べったりと赤いものが付着している。
「えっ?!どうしたんですか?!」
つむぎはつい、叫んでいた。もはや彼の表情を気にしている場合ではない。
怪我の具合を確かめるように、じっと額を見詰めるつむぎに、鵺野はひらりと黒い手袋を振った。
「⋯ん?ああ。このくらい、怪我のうちにも入らんさ」
そうけろりと言った鵺野に、つむぎはすとんと肩の力が抜けた。痛がっていないところを見ると、見た目の割にそんなに深くはないのかもしれない。
「⋯ぶつけたんですか?」
「あ〜⋯いやぁ〜⋯⋯まあ、そんなところだ」
ハハハッ、と後頭部に手を当てながら笑い飛ばす彼の顔は、残念ながら嘘か本音かわからない。本来なら、このまま病院に引っ張っていきたいところだ。髪に付いた血にうげっ!と飛び跳ねる彼を眺めながら、つむぎは無言でポケットからハンカチを取り出した。
「⋯あぁ。悪いな。」
「いえ⋯。捨てて貰っても大丈夫です」
「いや。ちゃんと返すよ」
黒い手袋と、白いハンカチ。そして流れる赤い色。夜気の道にはあまりにも不釣り合いなそのコントラストに、つむぎはひとつ瞬く。
明日になれば、なにか変わっているだろうか。ふわふわと地に足のつかない状況が、なんだか急に、少しだけ怖くなった。
「あ〜⋯それで、だが。その〜⋯⋯」
風に流れてしまいそうなその声に、ぼやけていた輪郭が音もなく浮かぶ。どこか言いづらそうに頬を掻きながら、けれど、一向に言葉は続かない。
それから暫くして、迷うように動いていた視線が、ようやくつむぎと合わさった。
「君さえ良ければ、だが⋯⋯一晩だけ、家に来るか?」
「え⋯⋯⋯?」
ぽかんと、思わず気の抜けたように口が開いた。その反応に、彼が焦ったように両手を振る。
「いや!!とくに深い意味はなくてだな!!もちろん無理にとは言わんが⋯⋯!!」
ぐわん、と。大きな声が夜気に響いた。ぱちぱちと瞬くだけのつむぎを前に、やっと声の大きさに気付いたのだろう。ぎょっと辺りを見渡して、それからコホン、とひとつ咳を打つ。
「⋯⋯こんな、怪しい男の家に泊まるなんて不安だろうが⋯⋯しかし、このまま見過ごすのは、どうも寝覚めが悪くてな」
「それに食材も、勿体ないだろう?」──そう言って目尻を下げて笑う鵺野に、つむぎはここに来てはじめて、ようやくこの状況を少しだけ受け入れられた気がした。
──やっぱり、ちょっと変な人。彼からすれば、つむぎの方がずっと怪しく映るだろう。家もない、帰り方もわからない。それなのに、何度も立ち止まっては、笑って手を差し伸べてくれる。どうしてそこまでしてくれるのか、つむぎにはまるで分からなかったが、それでもいまは、この手に掴まるしか選択肢が無いのもまた確かだった。
それに⋯⋯うん。やっぱりお風呂には、入りたい。
「⋯⋯⋯いいんですか?」
「いや、たぶん良くない⋯⋯良くないんだが⋯⋯」
「⋯⋯良くないんですか?」
「良くないに決まってるだろう!!だが、背に腹はかえられん!!!」
ぐしゃり、と。手にしたハンカチを握り潰してくぅと顔を顰める鵺野につむぎはつい、仰け反った。まるで、断腸の思いと言わんばかりの表情だ。
「あの、それならやっぱり外ででも⋯」
「それだけは駄目だ!!ダメったらダメ!!!」
「えぇ⋯⋯」
目を吊り上げたまま、ぐわりと勢いよく振り向いた鵺野に、つむぎもう眉を下げるしか無かった。つまり、どうしたらいいんだろう。それに答えるように、ぐぅぅう、と鵺野の腹が鳴る。
「⋯⋯ひとまず、一晩だけだ。一晩だけ。その後の事は⋯⋯飯を食いながら、ゆっくり話そう」
ハンカチを胸ポケットに仕舞いながら、穏やかに笑うその顔に、「──はい。」つむぎは静かに頷いていた。