よろしい。ならば、決闘だ 2/2


水が跳ねる音と、額に掛かる前髪をさらりと流す指先の感覚にキルアは意識をゆっくりと浮上させた。そうっと額に置かれた冷たさに徐に腕を伸ばそうとして、思ったよりもダメージを受けているらしい身体の重さに仕方なく瞼を持ち上げる。

「キルア様、目が覚めたのですね」

労るような静かな声色に首を向ければ、ナマエがぺたりと床に座り込んでいた。⋯よかった。濡れた両手を胸元で結んで、ちいさく呟いたナマエの眉尻が泣く直前のように垂れ下がる。よかった、じゃねーよ。意識が途切れるまでの記憶をしっかりと思い出したキルアは、ぐっと眉間に皺を寄せた。

「試合は⋯不戦敗ということで、自動的にキルア様の負けになりました。せっかく、対策を立てていたのに、残念ですが⋯」
「そんなのどうでもいい。それより、あれからどうなった?」

言いづらそうに声を落したナマエを一蹴して、キルアは視線をぐるりと巡らす。どうやら、割り当てられた自室のようだ。ナマエが居るということは最悪の結果にはならなかった事はわかるが、非力なナマエが此処まで運んだとは思えない。時計を見れば、とっくに深夜を超えていた。相当眠り込んでいたことを把握して、ナマエに視線を戻せば、試合の結果を一蹴したのが意外だったのか、きょとりと瞬いた後慌てて唇を動かした。

「あ、はい。キルア様が意識を失った後、騒ぎを聞きつけた他の参加者や、スタッフの方が駆け付けて下さり、倒れていた男の人達を回収していきました」
「それで?オレを運んだのもスタッフ?」
「──はい」

一度の瞬きの後、やんわりと首肯したナマエに嘘だなと瞬時に悟った。発言の前、僅かな感覚だがいつもより長く瞼を閉じるのは嘘や誤魔化すときのナマエの癖だった。完璧に仕立てられた執事たちと違い、本来嘘が苦手なのだろう、厳しい調教を受けた過程で癖としてナマエに残ってしまっていた。しかし、キルアにはそれを指摘するつもりはなかった。元々、人との関わりが薄いナマエの癖を気づいてる人はキルア以外にはいないし、完璧に偽られるのもなんだか癪だった。

「あの方達は恐らく、失格になると思います。参加権利の剥奪まではならないと思いますが、また登録からやり直しかと」

黙したキルアに、ナマエが静かに続けた。それこそどうでもいいと思ったが、ふーん。と鼻から息を吐く。

「あの、なにか召し上がれますか?お薬を頂いたので、食欲がございましたら召し上がったほうが良いかと。キルア様には効き目が無いかもしれませんが⋯」

数分の沈黙を割くようにナマエがそうっと声を落とした。仰向けに顔の位置を変えたキルアを覗き込んで尋ねたナマエは、額に置かれたタオルを手に取り、水桶で絞った後、またキルアの額に乗せた。いつの間にか雨は上がっているようで、カーテンの隙間から漏れる月明かりにナマエの表情がはっきりと照らされる。その赤い目元に、キルアは僅かに瞠目した。身を引いて、立ち上がったナマエの手首をパシリと掴む。

「なぁ。なんで、逃げなかった」

ぐっと眉間に刻まれた皺をそのままに、揺れるナマエの瞳をじっと見詰めながらキルアは低く唸った。此処に居る誰よりも弱いくせに、歯向かい、守るように庇ったナマエにキルアはずっとむかついていた。放って、逃げて、隠れてくれたほうがずっと良かった。

「逃げろっつたじゃん。弱いくせに、庇うとか馬鹿だろ」

抱き竦められた時、ナマエの身体が震えていたのには気が付いていた。こうして泣くくらい怖かったのならあそこで逃げたってキルアも責めはしない。主人を置いて逃げれるわけがなかったと理解しているが、それでもナマエがもし、殴られてでもいたらと思えばふつふつとした怒りがキルアの熱を上げていく。

「言っとくけど、あんな雑魚、熱あったってよゆーだったから。お前が邪魔したせいで殺り損なったんだぜ。つーか、泣くくらい怖かったんなら、オレなんかほっといて」
「怖かったです⋯!」

キルアの言葉を遮って、絞るように声を荒らげたナマエにキルアはピタリと口を噤んだ。ぽたぽたと白磁のように滑らかな頬を通って床に落ちる雫にキルアは目を奪われる。ふるふると震える下唇を噛み締めて、かくんと膝を落としたナマエは手首を掴むキルアの手を、そっともう片方の掌で包むように握り込んだ。

「怖かった、です。とても。キルア様が、倒れた時、心臓が止まるかと、思いました。身体が熱くて、息が荒くて、辛そうなキルア様になにも、なにもできないのが悔しくて、情けなくて。このまま、キルア様が、いなくなるんじゃないかと思ったら、すごく、すごく、怖かったです⋯!」

はらはらと顎を伝い落ちる涙が、キルアの手の甲にも降り掛かる。胸元に抱え込むように腕を寄せたナマエの身体全体がカタカタと小刻みに震えていた。
嗚咽を交え、呼吸の切れ間に必死に紡ぐナマエにキルアの口がぽかりと開いていく。身体の怠さも、頭痛も、熱さも、今だけはなにも感じない。ただ、ナマエの言葉だけを処理する為に脳がぐるぐると循環していた。

「⋯オレが、いなくなったら⋯?」

ぽつりと零した声は意図しないものだった。囁きよりも細い声はそれでもナマエに届いていたようで、キルアの熱を確かめるようにぎゅっと握りしめた指先に力を込めたのがわかった。
いなくなると思って怖かった、とナマエは確かにそう言った。てっきり男達が怖かったのだと思っていたが、キルアが傷つくのを恐れ、いなくなる事に恐怖したという。全くの予想を遥かに超えるナマエの言葉に瞬きも忘れて見入っていたキルアだったが、一言一言噛み砕けば、カッと上る体温に勢いよく上半身を持ち上げた。額に乗っていたタオルがポトリと布団の上に落ちたのにも、気にするほど余裕はなかった。

「〜〜っばっかじゃねーの?!んな余計な心配するより自分の心配しろっつーの!だいたい、男に囲まれたら逃げるだろふつー!!弱いくせに煽るし歯向かうし逃げねーし!あーいうのを無謀っつーんだよ!む・ぼ・うって!!たまたまオレがいたからいいけど!じゃなきゃどうなってたかわかってんのかよ!っンの、バカナマエ!!」

じわじわと足下を這い上がるむず痒さを叩き退けるように、息をつく暇もなくキルアは言葉を吐き続けた。ぐるぐると纏まらない思考で、それでも言いたかった文句を吐き出せば、幾分かスッキリしたような気にはなった。が、はぁはぁと荒んだ呼吸は熱く、確実に熱が上がったことを感覚する。

ふらりと傾きそうな身体を気力で留め、ナマエの反応を確認すればぽかんとキルアを見上げていた。潤んではいるが涙は落ちず、キルアの突然の怒声にあんぐりと口を大きく開いている。それから、ぱちぱちと何度か瞬いたナマエは赤らんだ目元をへにゃりと下げた。それは泣くのを我慢するような、下手くそな笑みだった。

「ンなっ!⋯っなに笑ってんだよ!オレの言ってることちゃんとわかってんのか!」
「は、はい!すみません!」

突然の笑みに狼狽え、噛み付くキルアにナマエはこくこくと何度も首を上下に倒す。「ただ⋯」その勢いで瞳に溜まっていた一雫がぽとりと落ちたのを追うように、視線を下げたナマエはキルアの手をぎゅっと握った。

「ただ、キルア様がいると思うと嬉しくて⋯」

そう零し、ゆるゆると口許を緩めたナマエにキルアはぐらりと脳が揺れたような感覚がした。抗う気力も湧かず、そのままバタンとベッドに倒れる。「キ、キルア様⋯?!」おろおろと呼び掛けるナマエを遮断するようにキルアは片腕を目に宛がった。

「もーいい!」
「えっ?えっ?」
「さっさと飯食って寝る!」
「あ、はい!じゃあご用意いたしますね!」

嬉しそうに声を弾ませて、ナマエはパッとキルアの手を離した。キルアもナマエの手首から手を外せば、先程の涙はなんだったのかと思うほど呆気なく寝室を出ていった。すんなりと離れた体温に、無性に苛立ちを感じながらキルアはごろりと寝返りを打つ。
ったく、恥ずいことばっか言いやがって。ごろりごろりと寝返って、最終的に仰向けになると両腕をばたんとベッドに広げる。歯に衣着せず、思ったままを口にするナマエにイライラとさせられるせいで火照った身体は一向に収まりそうもない。だいたい、こんな風邪、一晩寝れば収まるっつーのに、これで治んなかったらナマエのせいだ。ぐるぐると脳内を掻き乱す、安心しきった嬉しそうな笑みにキルアは眉間に皺を深めながらぐしゃりと前髪を手で握り潰した。



「あの、今夜は、キルア様のお傍に居てもいいですか⋯?」
「はぁ?!」

おずおずと伺うようにナマエがそう尋ねたのは、キルアがスープを飲み終えた頃。手渡したカップを受け取り、上目に見詰めてくる眉を垂したその表情にキルアは思わず、素っ頓狂な声を上げた。

「いえ、その⋯、キルア様が、心配で⋯」

あまりの声の大きさにビクリと肩を揺らすも、尚ももごもごと言い淀むナマエから差し出された錠剤と水の入ったグラスを奪うように受け取り、口腔に放り込み、ごくりごくりと嚥下したキルアは「ぜってー無理!!」とグラスと一緒に突き返す。

そう、ですか⋯。勢いよく突き出されたグラスを丁寧に受け取ったナマエは瞼を床に伏せ、肩を下げた。萎んだ風船のようにあからさまに落ち込んだナマエにキルアはぐっと口を絞る。
ここでキルアが迷惑だといえばナマエが簡単に身を引くのはわかっていた。しかし、そもそも普段はすこしも自分の意見を主張しないナマエが進言するほど不安がっているのは、目の前で倒れてしまったせいもあるだろうとキルアは意味もなく視線をさ迷わせる。

しょんぼりと肩を落として退室しようと立ち上がったナマエに、キルアはがしがしと耳の後ろを荒く搔いた。「う、移っても知らねーからな!」それだけ言うと、ベッドに倒れ込み、肩まで布団を被ったキルアはナマエに背を向けて横になる。「は、はい!丈夫なので大丈夫です!」ナマエの弾んだ声が背中に掛かった。ナマエの大丈夫ほど宛にならないものはないとキルアは思いながら、目元を和らげて破顔しているだろうナマエの表情を追い払うように固く瞼を閉じるのだった。