
よろしい。ならば、決闘だ 1/2
この日は朝から雨だった。ぱらぱらと窓を打つ雨の音と、どんよりとした湿っぽい空気にキルアはゆっくりとベッドから身を起こす。雨音に交じって、リビングから微かな物音とソーセージの焼けるいい匂いが寝室まで届き、ぼんやりとする頭でナマエが来ているのだろうと思った。
素足を床に付けてベッドから降りれば、くらりと世界が揺れた気がした。すぐに治まったので、気の所為だろうと特に気にもせず扉へとむかう。
扉を開けば、ナマエが朝食を運んでいるところだった。パンの乗ったお皿を二枚、両手に持ったナマエはキルアに気づくと柔らかく目尻を下げて微笑んだ。
「キルア様、おはようございます」
「ん。おはよ」
「朝食のご用意は出来ておりますが、すぐにお召し上がりになりますか?」
「あー···食べる」
「かしこまりました。ご準備いたしますね」
キルアの返事に嬉しそうに頷いて、ナマエはパンのお皿をテーブルへと置くといそいそとキッチンへ戻っていく。ふわあっと欠伸を洩らしながら、キルアは洗面台へと向かった。
リビングに戻ると、卓上に暖かなスープとロールパン、スクランブルエッグにソーセージ、おまけにサラダが青いランチョンマットに綺麗に並べられていた。向かいには同じ料理が淡いピンクのランチョンマットに並べられている。キルアが青いランチョンマットの前に座ると、ナマエがランチョンマットの端にコトリとオレンジジュースを置いて向かい側に座った。キルアがパンにかぶりついたのを見届けてからナマエがスープに口付けた。
「本日の試合は12時からでしたね」
「うん」
「ご昼食は試合の後でよろしいですか?」
「うん。言っとくけど、」
「はい。見に行きません」
サラダをつつきながら、ナマエを一瞥すればたおやかに首肯した。にこにこと朗笑を浮かべているナマエにならいいけど。と呟いて、ドレッシングのたっぷり掛かったサラダを口に放り込む。キルアの栄養面を気にしているらしいナマエのおかげで、苦手な野菜を口にすることが多くなった。相変わらず、不味いし苦いしこんなん食べなくても死にはしないしと思わなくもないけど、食べやすいようにと細やかに刻んで料理に練りこんだりキルア好みのドレッシングを一から調合したりと、工夫してくれているようなので最近は言うほど苦でもなかった。
「それでは、一度宿に戻りますね」
皿を洗い終えたナマエが、キルアの背中に声を掛けた。今日の対戦相手の録画テープを観ていたキルアは、控えめな声音につっと視線を向けた。「試合が終わる頃には戻ります」そう会釈をして背中を向けたナマエにキルアも腰を上げればくらりと目の前が揺れた。今度は気の所為じゃなかった。「···キルア様?」頭を振るキルアに、ナマエがパタパタと近寄るのが分かった。腰を屈めたナマエが、眉尻を下げてキルアに腕を伸ばした。ほっそりとした指先が頬に触れる直前、パシリと手首を掴んだ。ナマエが僅かに強ばった感覚がした。
「送る」
一言、そう呟いたキルアにナマエがゆるりと首を振った。どこか戸惑ったような、けれど意志の強そうな眼差しがキルアをじっと捕らえている。
「顔色が優れないようです」
「なんでもない」
「ですが···」
「なんでもないっつてんじゃん!」
声を荒らげたキルアに、ナマエの肩がビクリと跳ねた。しまった、と思った時には遅かった。長い睫毛に縁取られた瞳はゆらゆらと揺れていて、キルアにはそれが怯えているように映った。無意識に張っていた力を緩めれば、ナマエの手首にくっきりと痣が残っていた。
「あっ、いや···」
「キルア様のせいではございません」
謝ろうと口を開いた。けれど、たったの一言も言葉がでなかった。瞳を伏せたキルアにナマエが目尻を下げてほほ笑んだ。「差し出がましいことをして、申し訳ございませんでした」腕を後ろに隠して謝罪をこぼすナマエに、キルアはなにも言えなかった。
「あの、試合、無理なさらないでくださいね」遠慮がちにそう言って、ナマエは部屋を後にした。結局、送ることもしなかったし不機嫌なキルアを気遣っておそるおそる掛けた声にもキルアは返事をしなかった。視線は録画ビデオに映る対戦相手の動きを追っているのに、ナマエの怯えた表情ばかり脳裏に過ってすこしも頭に入ってこなかった。
怯えられるのなんて慣れっこだった。暗殺一家に仕えているくせにびくびくと人の顔色ばかり伺って、すこし怒気を滲ませるだけで近付こうとしない者もいる。ひとつのミスが自分の死期を早めるのだから当然といえば当然で、腫れ物のように扱われるのが当たり前の存在なのだ。今更、一人の執事に怯えられたところでなんの不自由もないし、物心ついた時から傍にいるとはいえナマエだって内心ではずっと畏怖していたのかもしれない。ナマエの見せた優しさも、笑顔も、言葉もすべてキルアに気に入られる為の演技だったのかもしれないと思えば、それが自然のように思えた。
「くそ···っ」
むかむかとする気持ちに、乱暴にテレビの電源を切ってキルアは腰を上げた。ふらつく足元にも、いつもより重い身体にもますます苛立ちが募った。甘い物でも食べればすこしはマシになるかと重い足取りで段ボールを覗けば、中身は空っぽだった。「あ〜もう!」むしゃくしゃとやり場の無い気持ちに段ボールを蹴れば、ぐわんと額が痛んだ。思わず額を抑えれば、ほんのりと熱を持っているような気がした。無性に苛つくのも、ナマエの表情にもやもやするのもぜんぶぱらぱらと室内に響く、煩わしい雨のせいだと思った。
普段より随分と遅い歩調だったが、平然とした面持ちでキルアは売店へと向かっていた。身体がやけに重い理由は分からないが、それを他人に悟られたくなかった。次の角を曲がれば売店だというところで、複数の男の低い罵声が耳に届いた。気配を殺して覗けば、4人の男が誰かに絡んでいるようだった。男達の体格に隠れて絡まれているのが誰かはキルアからは見えないが、男達はキルアが圧勝した対戦相手ばかりだった。
「あのガキ、どうせ薬でもしてんだろ?」
「じゃなきゃ俺達があんなチビに負けるわけねぇんだよ」
「恥じ掻かせてくれた礼はお前がとってくれんだろうなぁ?」
キルアの事を言っているのだと直ぐにピンと来た。ゴキゴキと拳の関節を鳴らして威嚇する姿に、キルアは思いっきり顔を顰めた。あほらし。とんだ言い掛かりにため息を付いて、キルアが一歩、足を踏み出した時だった。
「あなた方の実力不足ではないですか?こうしている暇があるのでしたら、修行に費やしたほうが懸命だと思いますよ」
まるで幼子に言い聞かせるような、諭すような声色だった。屈強な男に囲まれているというのに顔色ひとつ変えず、やんわりと目元を細めて真っ直ぐに男達を見据えているナマエの姿にキルアは唖然と立ち尽くした。「それに、キルア様が勝ったのは紛れもなく実力です。訂正して頂けますか?」口調はひどく穏やかなのに対して、常にふんわりと柔らかな雰囲気を纏うナマエが、ピリピリとした敵意を醸し出しているのを見るのはこれがはじめてだった。
「っんだとこのアマ···!!」
「キルア様ぁ?おいおい、あのガキいい所の坊ちゃんかよ」
「あんなガキに奉仕するより、俺達に奉仕したほうが余っ程いい気分味わせてあげるけどなぁ、嬢ちゃん?」
「よく見れば上玉じゃねぇか」
青筋を浮かべた男を制してゲラゲラと嗤笑する男達に、キルアは目を吊り上げた。ナマエに汚い言葉を投げるのも、ナマエをそういう目で見るのも、吐きそうな程の嫌悪がキルアの胸にせり上がって目の前がチカチカする感覚がした。ぜってぇ殺す。ビキビキと爪を鋭く延ばして、キルアはゆっくりと男達に近づいた。
「生憎ですが」
ピリッとした凍てつく空気がぶわりと周囲に広がった。それまで下品な笑い声をあげていた男達も一様に口を噤み、キルアも足をピタリと止めた。
「キルア様以外の方に仕えるつもりは一ミリもございませんし、私の生きる理由はキルア様のお傍にあることです」
ひどく静かな声色だった。まるで、痛みさえ慈しむような優しげな表情で微笑むナマエにキルアは息を飲んだ。黙ったままの男達を澄んだ瞳にうつして、ナマエはたおやかに睫毛を伏せた。
「もし、これ以上キルア様を愚弄するなら、許しませんよ」
ゆっくりと顔を上げたナマエの瞳にはたしかな怒気が滲んでいた。笑みを消したナマエの威圧に男達は飲まれているようだった。「っんの···!!」暫くして、我に返った男のひとりがナマエに腕を振りかぶった。ハッとして、男の背中に素早く蹴りを入れる。急な展開に、うまく加減ができなかった。まあ、急所は外してるし大丈夫だろと壁に沈む姿を冷めた目で見送って、残りの男達についっと視線を向ける。
「邪魔だよ、オッサン」
男達が瞠目してキルアを見下ろした。その向こうでは、ナマエが大きな瞳を見開いてポカンと口を開けている。ま、ぬ、け、づ、ら。ゆっくりと口唇で象るとナマエがパチンと両手で口を抑えた。うっすらと口角を持ち上げてキルアは再度、男達を見上げた。
「オレに負けたこと、気に食わないんだったら再戦してあげてもいいよ。180階まで来れたらね」
まあオッサン達じゃ当分、ムリだと思うけど。そう口角を吊り上げれば、男達が顔を真っ赤に染めた。
「ガキがっ!調子乗ってんじゃねーぞ···!!」
男が青筋を浮かべて拳を振り上げた。結局、こうなるんだよな。ひとつ溜め息をついて、がら空きの脇腹を蹴りあげる。後ろから掴み掛かろうとしてきた男には、背後に一瞬で回って手刀を入れた。
「弱すぎじゃね?」
呆気なく床に沈んだ男達を見下ろして、キルアは心底あきれた口調で言った。すこしも張合いは無かったが、どこかすっきりとした気持ちで両手をポケットに突っ込んだ。「キルア様···!」ほっと安堵を滲ませてナマエがキルアに駆け寄った。どこにも怪我の無い姿に、キルアも胸を撫で下ろす。
「どこもお怪我はないですか?」
「いや、それこっちのセリ···、フ···」
「キルア様!!」
眉尻を下げるナマエに、言いたいことはいろいろあった。そもそも絡まれてたのはお前だろなに人の心配してんだよとか、弱いくせになんで逃げなかったんだとか文句のひとつでも言ってやろうと身体を向けたのに、くらりと視界が揺れて気づいたらナマエに持たれ掛かっていた。
離れようとして、うまく動かせない身体にキルアは驚いた。咄嗟に受け止めたナマエは、キルアの体重を支えきれずそのままズルズルと膝をついた。
「キルア様···っ!」
泣きそうなナマエの呼声が後頭部に響き、身体を包む体温は暖かいはずなのにやけに寒かった。そこでキルアは漸く、自分の体調がおかしいことに気がついた。うっすらと視界を空ければ、大きな瞳に涙を溜めたナマエの顔が鼻先にあり、その背後でゆらりと立ち上がる男の影がみえた。どうやら、踏み込みが甘かったらしい。
必死な表情でキルアを伺うナマエは気づいていないようだった。どうにかキルアを運ぼうとしているのか、背中に添えられた腕を力んだナマエの肩を軽く押す。おい、ばか、さっさと逃げろ。ズキズキと芯まで響く頭の中、必死に口を動かしている筈なのに音になっているかは怪しかった。その間にも段々と詰めてくる男に、体調のせいだけではない汗がつぅっとキルアの額を滑る。
「⋯どうか、それ以上、近づかないで下さい」
まるで懇願するようなナマエの声が耳元を掠めたと同時、急に視界が黒く染まった。ついに照明が遮られる程近くまで男が来たのかと、キルアは焦燥に身を固くする。指先に力は入らないが、動けないほどではなかった。おい、邪魔。退けよ。頭の中で何度も唱えながらナマエの身体を退かそうと肩を押すが、ぴくりともしないどころか覆い被さるように上半身を丸め、ぎゅっと腕に力を込められる。まるで、守られるような体制にキルアは突き飛ばしてやりたいと本気で思った。ナマエを退かして、男の足を粉々に折って二度と歩けないようにしてやりたいと思うのに、思うように身体が動かず、もどかしさと苛立ちだけが募っていく。
「今は、加減、できるかわかりません」
ナマエが囁くようにそう言った。キルアにはナマエの言っている意味がわからなかった。男に背を向けているナマエの発言は、あまりにも状況に適していない。
ふと、ナマエの髪の隙間から触手のように延びた影が複数、ゆらゆらと蠢いているのを捉えた。なんだ、あれ。目を凝らそうと思ったが、ブレる視界に、見間違いかどうかすら判断が付かず、徐々に遠ざかる思考にくそっと内心で悪態づく。必死に繋ぎ止めようとする意思に反して、引きずり込まれる感覚に、とうとうキルアの意識はプツリと途切れた。