オリバンダーの杖 4/
ハリーに合う杖が見つかったのは、積み上げられた箱の高さがシンシアの身長をゆうに越えた頃だった。「滅多に無い組み合わせじゃが、柊と不死鳥の羽、二十八センチ。良質でしなやか」その杖が、「わぁ!きれい!」くるくると踊りながら壁に反射した火の玉に、そわそわとしていたシンシアは弾けたように歓声を上げた。「オーッ!」ぴょんぴょんと床の上を飛び跳ねるシンシアの背後では、ハグリッドが床につけていた臀を持ち上げ分厚い手を盛大に打ち鳴らしたが、しかし、ハリーにはそのどちらの声も聴こえていないようだった。ぽっかりと口を開けた間の抜けた表情で、光の渦が衝突した壁を瞠目していた。
「素晴らしい。いや、よかった。さてさて⋯不思議なこともあるものよ⋯全くもって不思議な⋯」
オリバンダーはハリーの手から丁重に杖を抜き取って箱に戻すと、茶色の紙で包みながらぶつぶつとしきりに唱えはじめた。「なにがそんなに不思議なの?」嬉しいのか哀しいのか、複雑な顔をしているオリバンダーにシンシアが聞けば、オリバンダーは一度シンシアを見ると、それからハリーへと緩やかに視線をうつした。
「わしは自分が売った杖は全部覚えておる。全部じゃ。貴方の杖に入っている不死鳥の羽根はな、同じ不死鳥の尾羽根をもう一枚だけ提供した⋯たった一枚だけじゃが。貴方がこの杖を持つ運命にあったとは、不思議なことじゃ。兄弟羽が⋯なんと、兄弟羽がその傷を負わせたというのに⋯」
どこからかひゅっと息を呑むような音が、シンシアの耳朶に届いた。シンシアもあんぐりと目を見開いてカサついた唇が動くのを見つめていた。それは、つまり。シンシアが思考を巡らすより先に、オリバンダーが淡い色の瞳でハリーの傷跡をじっと見据えたまま続けた。
「三十四センチのイチイの木じゃった。こういうことが起こるとは、不思議なものじゃ。杖は持ち主の魔法使いを選ぶ。ポッターさん、貴方はきっと偉大なことをなさるにちがいない⋯。『
重苦しい空気が店内を一層、暗くしたようだった。お代を支払い、よろよろと覚束無い足取りで戻ってきたハリーは釈然としない複雑な表情を浮かべていた。その片手にはしっかりと長方形の包みが握られている。呆然と、包みを見下ろすハリーにシンシアはそっと近付いた。
「偉大なこと?あの人を倒したこと以上の偉大なことって?」
「さぁね」
ハリーが首を竦めたと同時に、ゴホンッ。小さな咳払いが店内に広く響いた。「⋯スノウベルさん、此方へ」その穏やかな声色に、ギクリと肩を強ばらせてシンシアは恐る恐る首を捻った。薄暗い棚の前で、オリバンダーがまん丸い満月の様な瞳を緩く細めてシンシアを見据えていた。ぼんやりと浮かび上がる姿がシンシアにはひどく不気味にうつり、口角がひくりと痙攣する。声を潜めたつもりだったのに、しっかりと聞かれていたようだ。「⋯記憶力だけじゃなく耳もいいのね」シンシアががっくりと肩を落として言えば、ハリーがふはっと噴き出した。
くつくつと顔を俯けて笑いを堪えるハリーを恨めしく思いながら、シンシアは足早にオリバンダーに歩み寄った。オリバンダーはハリーの時と同様、巻尺でシンシアの肩から指先、手首から肘と念入りに測ると早々に一本の杖を差し出した。
「スノウベル家の杖は代々決まっておりましてな」
ギンヨウボダイジュの木にドラゴンの心臓の琴線。良質だが頑固。オリバンダーに差し出された杖を、シンシアはそうっと受け取った。白銀の美しい見た目と反して手首を引くような重量がある事に驚きながらも握り込めば、ぴくりと杖が動いたような気がした。
「もちろん、一本として同じ杖はない。じゃが、不思議なことにお母さんも、そしてお祖母さんも皆、ギンヨウボダイジュを使用した杖に好まれた」
さあ、振ってごらんなさい。オリバンダーに促され、シンシアは杖を振り下ろした。しかし、なんの変化もなかった。それどころか強く振り下ろした訳でもないのに、逃げるようにシンシアの手から転がり落ちてしまった。
「ごめんなさい!」カラカラと床を転がる杖にシンシアは慌てて叫んだ。しかし、すこしも気にした様子もなくオリバンダーは背を向けて棚を物色していた。
「稀に、逃げだす事もあるのじゃ。さて、ギンヨウボダイジュの木、一角獣の毛。二十四センチ。忠実でしなりやすい」
拾った杖と交換して、シンシアは新たな杖を受け取った。見た目はそう変わらないが、先程の杖よりもずっと軽い気がした。シンシアは慎重に振り下ろした。が、大人しく掌に収まっているだけで、杖はうんともすんともいわなかった。「ふむ⋯」オリバンダーは直ぐに杖を取り上げて、次の杖をシンシアに差し出した。
「いやはや、難しい⋯」
いつの間にか椅子の上には、長方形の箱が高々と積み上げられていた。これが全てギンヨウボダイジュの杖だというのだから、オリバンダー店の品数の豊富さには驚かされる。すっかり興奮の冷めきっていたシンシアは、途中から作業のように杖腕を降ろしていた。
「不死鳥の羽、二十八センチ。しなりにくい。」
また、ギンヨウボダイジュだ。少々うんざりしながら受け取ったシンシアが機械的に振り下ろすや否や、オリバンダーがさっと奪い取る。そうして直ぐに棚を漁り始めたオリバンダーの背をじっと眺めていたシンシアの口からついに溜息がこぼれた。
「きっと、私にはお母さんのような才能は無いのよ」
ぽつり、と零した言葉は思ったよりも深くシンシアの胸に浸透した。代々好まれるとはいえ、これ程の数を振り続けても未だシンシアに合う杖は見付からないのだ。シンシアとしても杖が反応を示してくれるとは思えず、それが答えのような気がして胃のあたりにずっしりと鉛が沈んだ気分だった。
「わしは持ち主が杖を選ぶのではなく、杖が持ち主を選ぶと考えておる。その為、わしとて正確な事は言えんのじゃが⋯」
オリバンダーは唸るようにそう言うと、コトリ、と静かに箱を置く。だらりと杖腕を垂れさげたまま、オリバンダーが箱の上に被っていた埃を払い、丁重に蓋を開けるまでをどこか遠くの出来事のように静観していたシンシアは、杖を差し出されてからやっと満月のようにまんまるい瞳が柔らかく細まっている事に気付いた。
「スノウベルさん、貴方はお祖母さんによく似ておる」
「お祖母さん?」
かくり、とシンシアの首が斜めに傾いた。残念ながら、シンシアには祖母の記憶は少しもなかった。「ええ、そうですとも」ぱしぱしと睫毛を揺らすシンシアの手に杖を握らせて、オリバンダーはひとつ頷いた。
「開心術に優れた、実に優秀な魔女じゃった。そして、本質を見抜く素晴らしい瞳も──」
そこでちいさく息を付くと、オリバンダーはシンシアの瞳をじっと見据えたまま続けた。
「決して、全てが受け継がれる訳では無い。しかし、受け継がれていないという事もない──。お祖母さんも、貴方と同じ、深い海の底のような、星の散る美しい清夜のような⋯そんな不思議な色をしておりましたよ」
暖かな口調とは反して、その眼差しはどこか険しい。シンシアにはそれが、何かを見極めているようにも、シンシアを通して何かを見ているようにも感じ取れた。「さぁ──」訝しむシンシアを置いて、オリバンダーが杖を振るよう視線で促す。
シンシアは、釈然としないまま杖腕を振り下ろした。うっとりするほど美しい白銀では無く、くすんだ茶色い杖だ。その杖が散々振り下ろしたギンヨウボダイジュでは無いことに漸く気付いたシンシアの口から「あっ──!」と短い悲鳴が漏れる。小さな動作で振り下ろした杖の先端に、ぼんやりとした光が灯ったのだ。
「ハリー!見て!光ったわ!」
シンシアは弾かれたようにぐるりと身体を反転させた。が、しかし、杖腕を掲げる前にするりと杖が引っこ抜かれた。
「やはり⋯なるほど⋯いやはや、実に⋯」
信じられない気持ちで杖を追ったシンシアが首を捻った時にはもう、オリバンダーは忙しなく棚を漁っていた。漸く見られた反応も、オリバンダーにとって納得のいくものではなかったらしい。
舞い上がった感情が一瞬で地に沈んだ感覚に、シンシアはむっつりと唇を尖らせた。なんだか、おもちゃを取り上げられた子供のような気分だった。
ぶつぶつと仕切りに呟きながら棚の奥に腕を突っ込むその背中を、シンシアはじっとりとした眼差しで眺めていた。手前から次々と取り出しては乱雑に積み上げられていく箱は、未だ絶妙なバランスを保って椅子の上で沈黙している。
オリバンダーがまたひとつ箱を取り出した。途端、奥からほんのりと漏れ出る灯りにシンシアはぱちぱちと目を瞬いた。並べられた箱の隙間を縫うように淡い光が漏れ出ている。
「ねぇ、オリバンダーさん。奥でなにか光ってるわ」
シンシアが言うと、オリバンダーはぴたりと動きを止めて俊敏な動作で振り向いた。まんまるとした瞳を皿のように広げたその表情に、シンシアのほうがずっと驚愕させられた。
「光っている?それはどの辺りですかな?」
「その棚の奥よ。いいえ、それじゃないわ。それも違う⋯。もっと右に⋯もう少し奥⋯その辺り⋯そう、それ!」
オリバンダーが引きずり出した箱は、随分と奥に眠っていたのか所々が色褪せていた。オリバンダーが積もっていた埃を払ってシンシアの前に静かに置くと、発していた光が箱の中に吸い込まれるようにゆっくりと消えていく。
「これですな?」
「ええ、それよ。けど⋯」
丁重に差し出された杖は、淡い色味の杖だった。しかし、杖の半分から先端に掛けて徐々に深い焦茶色に移り変わっている。
「貴方に見付けて貰えたことで、光を発する必要がなくなったのじゃよ」
シンシアの困惑を察したオリバンダーが柔らかく微笑みながら杖をシンシアに握らせた。指先からじんわりとした温もりが徐々に拡がっていく感覚に驚き、そして、しっとりとした感触はお気に入りの羽根ペンよりもずっとシンシアの手によく馴染んだ。シンシアはごくりと唾を飲み込んで、ゆっくりと杖を振り下ろす───
──まるで、星空の中に飛び込んだようだとシンシアは思った。自分の意思とは関係なく、線を描いた杖先から、シャワーの様に無数の星々が一斉に流れだしては薄暗い天井を白く染めていく。
「──氷だ⋯」
ぽつりと落ちた、ハリーの呟きがシンシアの耳に届いた。ハリーの言うように星かと思ったそれ等は、よく見ると氷の結晶だった。天井をくるくると舞踊り、きらきらと薄明かりを反射した粒子がまるで雨のように降り注ぐ。不思議と寒さは感じなかった。ぽっかりと間抜けに口を開いたまま、シンシアは声も忘れて目を奪われていた。
ぱらぱらと最後の結晶が名残惜しむように落ち、やがて店内に暗闇が戻る。すっかり静けさを取り戻した店内で、それでもシンシアは惚けたように天井を見上げていた。
「ブラボー!見事じゃ!」
突如、静けさを割いた手拍子にシンシアは激しく肩を揺らして驚いた。ハッとして振り向けば、オリバンダーが満足気な表情で深く頷いてみせた。
「杖はその人の本質を見抜き、見定め、そして忠誠する。杖が持ち主を選ぶのじゃ。スノウベルさん、貴方はその杖に選ばれた。いやはや、実に美しい光景じゃった」
言いながら、オリバンダーが掌を差し向けた。シンシアが杖を渡すと、丁寧な手付きで箱に戻しながら続けた。
「この杖はセコイアの木にドラゴンの心臓の琴線、二十七センチ。先端はヒノキで出来ておる」
「セコイアとヒノキ?」
「滅多に無い組み合わせじゃ。選ばれる者が居らず、ずっと奥で眠っておった。スノウベルさん、この杖がきっと貴方を守ってくれるでしょう」
差し出された箱を、シンシアはおずおずと受け取った。やっと自分に合う杖が見付かった事に、肩の荷が下りた安堵とどっとした疲れとが綯い交ぜになった複雑な気分だった。
お代を支払い、のろのろとした足取りで戻ればキラキラと光沢の帯びたエメラルドグリーンがにこやかに迎えてくれた。「シンシアの魔法、とっても綺麗だったよ」そう言って笑うハリーに、自然とシンシアの口からも気の抜けた笑みが零れる。ハリーとハグリッドの染み込むような暖かな笑みに、杖を手に入れた嬉しさをシンシアは漸く感覚していた。
「ありがとう。ハリーの魔法も素敵だったわ」
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