じっとりと空気が湿っているのは午後から雨が降る予報だからだろうか。せっかく朝から意気込んで身支度したというのに、先程からぐるぐると同じ場所を歩いているようで熱の篭った身体からじわりとした汗が服に染みていく感覚がする。山荘というだけあって、辺り一面を囲う深々とした森に園子から貰った地図も役には立たなさそうだった。 「ねぇ、もしかしてボクたち道に迷ったの?」 「えっ!そ、そんな事ないわよ!ちょっと寄り道してるだけ」 地図を片手に悩んでいたら、コナンくんが伺うように聞いてきた。その怪訝な眼差しに焦りの交じった笑顔で取り繕えば、そ、そう?とどこか困ったような苦い笑みが返ってくる。 「ちょっと見せて」 「あっ、う、うん」 突然、地図を覗き込んできたなまえに思わずどきりと心臓が跳ねた。先程まで眠そうな表情で気だるげに歩いていたというのに、地図に落ちる伏せられた瞳も凪ぐような声もひどく落ち着いていて、私の上擦った返事にも反応をくれず細くしなやかな指先でゆっくりと地図を辿っていく。肩先が触れ合うほどぐんと近づいた距離にどぎまぎと呼吸を細く吐いていた私は「大体わかった」そう言ってやっと離れていった精巧な横顔にこっそりと息をついた。 なまえの先導で暫く歩いていると、森の開けた場所に佇む大きな洋館が見えた。その間には別荘とこちら側を繋ぐ吊り橋が架けられていて、辿り着いた安心感にコナンくんとふたりで笑みを交わし合う。 「どうしたの?なまえ兄ちゃん」 「いや、誰かいるなって」 静かに吊り橋を見つめていたなまえにコナンくんが首を傾げて聞いた。やけに落ち着き払った声につられて顔を持ち上げれば、たしかに誰かが吊り橋を渡っているところだった。「あの人も別荘に行くのかな?」なんて真っ黒なマントに身を包んだその人を眺めていたら、視線に気づいたのか突然ぐるりと振り返ったその顔に思わず息を呑む。ぐるぐると顔に巻かれた包帯と、ギロリと睨む血走った瞳にひっと短い悲鳴が喉から零れた。 「鈴木って、随分変わったヤツと知り合いなんだな」 「いや、園子姉ちゃんの知り合いじゃないと思うよ···」 一瞬にして顔を青ざめた私たちに反して、颯爽と立ち去るその怪しげな人物をなまえは平然と見送っていた。のんびりとした口調で言ったなまえにコナンくんがひくりと口端をあげて頭を振るう。園子の交友関係をぜんぶ把握しているわけじゃないけど、あの人が園子の知り合いだとは思いたくなかったし、ナイフのような鋭い目付きが瞼に張り付いていて、この先に進むのがすこしだけ怖かった。 「行かねーの?」 「あ、い、行くわよ。行くからちょっとだけ待って」 「蘭姉ちゃん、もしかして怖いの?」 「こ、怖くなんてないわよ!」 躊躇して一向に歩きださない私を、不審に思ったのか吊り橋に足を掛けたなまえとコナンくんが揃って振り向いた。目尻を細めたコナンくんの問いかけに、声を荒らげて反論したけれどギクリと強ばった身体に、怖がっているのはバレているようだった。 叱咤するように呼吸を深く吐いていた私の手に突然、冷たい体温が触れた。えっ。驚愕に、口から漏れ出た声がコナンくんの声と重なる。目を見開いて、人形のような整った顔を見上げればその形のいい唇がゆっくりと動いた。 「怖いんだったら目、瞑っとけば」 「え、え!ちょっと···!」 さらりとそう言ったなまえは、困惑する私の手を引いてゆっくりと吊り橋を渡りはじめた。べつに、吊り橋を渡るのが怖かったわけじゃないのに。そう思いながらも握るというよりは指先を掬うような気の使った触れ方に私は開いた唇をゆっくりと噤む。「蘭姉ちゃんには優しいんだね?」「あそこで突っ立っててもしょうがないじゃん」なまえに駆け寄ってそう言ったコナンくんとの会話と、ゆらゆらと前方で風に踊る毛先に、徐々に気持ちが凪ぐ感覚がして私はそっと瞼を閉じた。 「ちょっと、蘭!遅いじゃない!何やってたのよー!」 「ごめんごめん、園子」 「んもー!せっかく私ん家の別荘に招待してあげたって言うのに遅れてくるなんて···!」 ガチャリと開いた扉から出てきた園子に、手の平を顔の前で合わせて眉を下げる。吊り橋を渡り終えた途端、離れていったなまえは園子の剣幕に巻き込まれないようにか、一歩後ろに下がっているようだった。 「へぇー、ちゃんと来たのね」 「どうも」 「なまえってば、時間より早く来たのよ」 なまえに気づいた園子が、わずかに瞳を瞬いた。一方的に取り付けた約束だったし、きっと来るとは思っていなかったのだろう。私も、集合時間より前に事務所を叩いたなまえにすこしびっくりしたのを思い出して、ふふっとちいさく笑みを浮かべる。ふーん、意外と律儀なのね。関心したようにそう言った園子の視線がついっと下に向けられた。 「ていうか、やーっぱ連れてきたんだ。コナンくんもすこしは気を利かせてよぉ」 じとっとした視線でコナンくんを見下ろす園子に、首を傾げる。ハハハと軽く笑うコナンくんをチラリと一瞥して「どうして?連れてきちゃいけなかった?」と問いかければ、園子の不満そうな顔が私に向いた。 「そりゃそうよ!こーんなコブ付きじゃ、恋愛どころじゃなくなっちゃうわよー?」 「恋愛?」 「そうよ!私たちは素敵な男性に巡り会う為にここに来たんだから!」 うっとりと両手を組んで宙を仰ぎだした園子を、あんぐりと見つめる。園子のお姉さんの大学時代の友人たちが集まると聞いていたのに、そこで素敵な男性でも見つけるつもりだろうか。大自然の中で羽を伸ばそうと誘われたのに、不純な目的に空笑いが口から零れる。それに、恋愛をするつもりならコナンくんだけじゃなくなまえも誘わないほうが良かったんじゃないのか。そう思ったのが顔にでていたのか、突然ぐんと近づいてきた園子が私の耳許に顔を寄せた。 「いつまで経っても帰ってこない新一くんなんかほっといてさ、これを機になまえに乗り換えちゃえばいいのよ」 「えっ!?」 「ほら、アヤツって頭も良いみたいだし顔もイケメンだし、案外新一くんより優良物件かもよぉ?」 「も、もう園子!何言ってんのよ!」 にししと悪戯に笑う園子に、顔が赤くなるのが分かった。たしかになまえは、見惚れるくらい綺麗な顔立ちをしているし学年でも上位の位置にいるほど頭もいいし、あまり表情が変わらないから無愛想にみえるけど優しいことも知っている。身体能力が高く、新聞にも乗るほど有名な新一に負けず劣らず、本人は気づいていないけれどなまえも校内でひっそりと注目されている存在だった。チラリと横目でなまえを伺えば、園子と私のやり取りには興味がないのかぼんやりと森を眺めていた。先程まで指先に触れていた温度に、浅ましくもなまえとのその先を想像しそうになって慌ててぶんぶんと頭を振る。そもそも私と新一はそういう関係じゃないってば!そう言い放つと、にんまりと弓なりに目を撓らせた園子の背をぐいぐいと押して玄関の扉を潜った。 ← → back / top |