噛み切れなかった欠伸を溢し、ざあざあと泣いている空を頬杖を付いてぼんやりと眺める。室内に響くのは、駄々をこねた子供の様にはげしさを増す雨の音とカリカリと筆を走らせる音。コツコツと床を鳴らす教師の数周回目の足音が通り過ぎて行ったのに、既に埋め切った答案用紙を下敷きにしてとうとう机に突っ伏した。

何が悲しくて高校生活をやり直さなくちゃいけないんだろう。前日の席替えでいちばん後ろの窓際の特等席を引き当てたというのに、先日からでるのはため息ばかり。そもそも前世の記憶をもって産まれおちるというのも稀なのに、ましてや漫画の世界だなんて誰が予想できるというのか。米花町なんて聞き覚えのない地名と、死んだ前世とおんなじ西暦だという情報だけでどこかの誰かさんみたいに導きだせるわけないのだ。

幸か不幸か、住む世界が違うというだけで、なぜだか容姿も名前も前世とまったく変わらないため違和感なく過ごせてはいるけど。それならそうでできれば血なまぐさい舞台じゃなく、せめて汗水ながす爽やかなスポーツ漫画であって欲しかったとは思う。

「···ついてないな」
「ん?どうした?」
「いや、お天気お姉さんに騙されたなって」

チャイムの音を皮切りに、ざわざわと騒々しさが波紋のように広がっていく教室でぽつりと静かに落とした呟きは耳敏く反応した前席の山田に拾われた。ぐるりと身体ごと振り向いた人懐っこい笑顔を適当にあしらうも、彼はそのまま人の机に腕を組むと口角をニヤリに吊り上げる。

「なんだ、傘忘れたのかよ。女にでも入れてもらえばいーんじゃねぇの?」
「お前じゃないんだから」

にやにやと悪戯な笑みを浮かべて冗談を言う山田に向けてジト目を向ける。それでもにやついた笑みが崩れない彼の額をノートで小突けば、すぐに非難がましい文句が飛んできた。「俺がお前だったら喜んで女子に声掛けるけどな。もったいねぇ」叩かれた患部を撫でながらそう言った山田は唇こそ尖らせているものの、表情は変わらずからかうような笑みのまま。ゆるりと細められた目尻に真意は隠れ、本気か嘘か判断がつかないから反応に困る。

「あーあ、彼女いる奴はいいよなー。相合傘できんだもんなー」
「作ればいいじゃん」
「わかった、この際お前でもいいよ」
「俺がやだよ」

山田は決してモテないわけじゃない。むしろ顔のつくりも良い部類に入る上に気さくな性格も相俟って顔も広く、友人も多いし告白だってよくされている。向けられる好意の視線にも気づいてるくせに、たびたび彼女が欲しいと嘆いている山田こそ、その気になれば傘の一本や二本、喜んで貸してくれる女の子も同じ傘を使って帰ってくれる子もいるはずなのだ。

山田の冗談を交わしながら、机に散らばった筆記用具を片付ける。彼の口からでるのはほとんどが俺をからかう言葉や冗談で塗り固められていて、1年ほどの付き合いにはなるが未だに心根をよめたことはない。財布と携帯、筆記用具を無造作に突っ込んだ薄っぺらい学生鞄を片手に席を立てばきょとりと山田が瞬いた。

「え、もう帰んの?」
「バイト」

じゃなきゃ食えていけないんで。こちらを見上げている山田に向けてひらひらと後ろ手に手を振りながら机の間を縫うようにあるく。「傘、貸してやろうかー?」まだちらほらと残る生徒の談笑に被せて届いた山田の声に「ばか、それじゃあお前が濡れるだろ」ドアの前で振り向いてちいさく笑う。「気ぃつけて帰れよー」まるで担任のような言葉と、にこにこと緩む好感的な笑顔に見送られ静かに扉を閉めたのだった。

すれ違う知った顔に軽く挨拶を交わしながら、じめじめと湿気の籠るほんのりと薄暗い廊下を緩慢に歩く。一向に止む気配のない雨粒が窓を叩きつける音と鼻腔をかすめる雨の匂いが、気分をゆるやかに降下させ、下駄箱までの道のりがひどく遠く感じてしまう。

べつに、雨は嫌いじゃない。むしろ肌に触れるじめっとしたぬるい風も、独特な匂いも、跳ねる音も、傘を差せば生まれる距離感にも心地良さを感じるほどには好きで、なのに、肌を滑る、濡れる感触だけが昔から苦手だった。

せめてバイトの時間までには止んでくれないかな、なんて雨足が強くなるばかりの空をぼんやりと眺めながら歩く。だからだろう、目前に迫る人気に気付くのが遅れてしまった。慌てて身体を逸らしたが、避けきれず互いの肩が接触する。

「ぁ···、」息を呑むか細い悲鳴が、すぐ近くで聴こえた。謝ろうと口を開いたが、けれど、音を成すことはなかった。ふわりと靡く青いスカートと傾いていく身体がやけにゆっくりと視界に写り込む。階段から宙に投げだされた身体がゆっくりと落ちていくその瞬間、時が止まったような気さえした。

「蘭っ···!」

女性の甲高い叫びが、耳を通り抜けていく。重力に逆らって舞い上がる長い髪の隙間からこぼれそうなほど見開かれた双眸と視線が交わって、気づけば身体が動いていた。縋るものを求めるように伸ばされた手首に、手を伸ばす。手摺を掴んで乗りだすように伸ばした掌が、宙に浮いた彼女の手首を掴んだと同時に、勢いよく引き上げた。

勢いを殺しきれず胸元に飛び込んできた相手とそのまま、重なるように床に倒れ込んだ。頭突きを食らった胸骨としたたかに打ちつけた腰がじわりじわりと痛みを孕む。が、どくどくと逸る心音とじんわりと伝う温かさに安堵して、ゆっくりと息を吐きだした。

「ごめん、大丈夫か?」
「う、うん···」

無意識に抱えていた相手の腰と、掴んだままだった手首から手を離し、上体を起こす。ゆるりと持ち上がった表情はいまだ状況を上手く飲み込めていないのか、どこか茫然としていた。

「でも、びっくりした···」そう言ってぱちぱちと瞬きを繰り返す端正な顔立ちに、びっくりしたのはこっちの方だと思ったが言葉を飲み込む。まさかあんな軽い衝撃でバランスを崩すとは思わなかったのだが、ぼんやりとしてた俺が悪い。

見た限り、目立った外傷は無さそうでほっと胸を撫で下ろす。そうして再度、謝罪をこぼそうとしたところで横から飛びついてきた人物に思わず嚥下したのだった。






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