「それでね、優作ったら私の言葉も生返事でそのまま書斎に篭っちゃったのよ?!ひどいと思わない?!」 「そうですね⋯」 「でしょう?!だから私、頭にきて家飛び出してきたの!」 「⋯それは、」 旦那さんも不憫というか。そう喉からでかかった言葉を嚥下して、「⋯大変でしたね」と無難な言葉で取り繕う。というか。そもそも誰なんだこの美人さん。 それで優作が⋯!っと一向に冷めない彼女の愚痴を適当に受け流しながら、ずずっと冷めてしまった紅茶を一口。窓の外はもうすっかり夕暮れ時だ。 「新ちゃんに電話しても、「またかよ。はやく仲直りしろよ。じゃあ、オレ、忙しいから」って言って切られちゃうし!」 「へぇ⋯新ちゃん⋯」 「ひどいでしょう?!」 「そうですね⋯」 シリーズ物の新刊を購入した帰り道。途中、立ち寄ったコンビニの前で軽薄な身なりの男性に絡まれている彼女につい声を掛けてしまってからかれこれ2時間弱。「お礼に、お茶でもご馳走させてくれないかしら?」「いえ、大したことはしてないですし気にしないでく」「あそこの喫茶店、紅茶が美味しいって評判でね!実は一度行ってみたかったのよね〜」断る隙もなく、あれよこれよと近くの喫茶店に押し込められてから結局、分かったのは旦那さんと喧嘩して家出したということと、"優作"と"新ちゃん"という名前だけだった。 頬まで隠れる大きなサングラスと、紅を引いた唇から紡がれる鬱憤に小ぶりの小鼻はずっと膨らんではいるが、それでも随分と整った容姿をしていることは見て取れる。元々、気さくな人柄なのかなんなのか。その親しげな口調に一瞬、知り合いだろうかと記憶を掘り起こして俺は早々に匙を投げた。いくら顔を覚えるのが苦手といっても強烈なインパクトのあるこの人をすこしも思い出せないということは、つまりそういうことなんだろう。 なんでこんなことに。そう思考を飛ばしている俺に構わず、「此処、ショートケーキも美味しいって有名なのよ」毒気も抜かれるようなあどけない笑みを向けられれば帰りたいとも切り出せず、形の良い唇から紡がれる怒涛の会話にただ相槌を打つしかなかった。 たぶん、悪い人ではないのだろう。ころころと変わる表情も、さり気ない気遣いも、気まずいという空気を感じさせない寛容な空気感が彼女にはあった。ちょっとくらいなら、と思わせるのが上手い人だとおもう。とはいえ、だ。 「どうせ優作のことだから私が居なくなったことなんてこれっぽっちも気が付いていないんでしょうけどね!」 「はぁ⋯」 さて、どう帰宅を促すか。憤りを孕んだ口調とは裏腹、上品に指の腹で摘んだカップに口をつけた彼女からそう思考を巡らせて、俺は静かに視線を剥がした。大きな窓の向こうでは、パンパンに張った買い物袋を両腕いっぱいにぶら下げて足早に帰路につく主婦や、仕事終わりなのだろうスーツ姿のサラリーマンがちらほらと歩いている。 「あら、もうこんな時間!」 さっさと帰って新刊が読みたい。そんな俺の願いが届いたのか、華奢な腕に嵌めた腕時計を見下ろして彼女がようやっと声をあげた。「あんまりにも真面目に聞いてくれるもんだからつい、話し込んじゃったわ」悪戯っぽくそう言って、颯爽とレジへと向かう彼女に俺は慌てて残りの紅茶を流し込む。あ、お金。反射的に財布を出そうとした俺を、彼女が制した。 「お礼って言ったでしょう?それに、付き合わせた上に、お金まで受け取ったって知られたら新ちゃんに怒られちゃう」 新ちゃん?俺は無言で首を傾げた。なぜここでその名前があがるのか。疑問には思ったものの、どうせもう会うこともないのだ。わざわざやぶ蛇をつつく必要もないだろうと代わりにお礼を伝えれば綺麗な笑みが返される。 ちりんちりん。扉に備えつけられた軽快な鈴の音を合図に「それじゃあ、ありがとうございました」俺はさっさと身を翻した。無駄な、とは思わないが結構な時間をくってしまった。しかし、ずっしりとそれなりの重さを感じる紙袋を抱え直した俺の腕を、ネイルの入った指が掴む。 「それじゃあ行きましょうか!」 「⋯え?」 まだ連れ回す気かこのひと。思わず眉を顰めた俺のことなど眼中にも無いのか、そもそも聞く気もないのか。ちょっ、。ズルズルとわりと強い力で手引かれて、たたらを踏みそうになった足を、慌てて正面へと向ける。 「あの、俺、もう帰らないと⋯」 「ごめんねぇ。ここで会ったのもなにかの縁ってことで、悪いんだけど、もう少しだけお姉さんに付き合ってくれない?」 ずり下げたサングラスの奥で、パチリと愛嬌たっぷりに片目を瞑ってみせた彼女に俺は潔く腕の力を抜いた。家出を強行した彼女とここで押し問答するよりも、さくっと用事を済ませて満足して貰ったほうが遥かにマシだろうことはこの二時間で学習済みだった。ただでさえ疲れているのにこれ以上無駄な労力は使いたくない。 などと、のんきに考えていたのが間違いだったのだろう。行先がここだと知っていたら、確実に天秤は別の方へ傾いていた。店前だろうが人前だろうがなりふり構わず振り切って、逃げ出していたに違いない。「工藤」と書かれた表札を見下ろして、俺は思わず遠い目をした。うわぁ、すんごい嫌な予感。 「⋯知り合いの方の家、とか?」 「もちろん、わたしの家よ」 ですよね。一抹の望みをかけた問いはあっさりと切り捨てられた。正門を開き、勝手知ったるとばかりにずかずかと玄関口へと向かう彼女とは裏腹、脚は一歩も進まない。立派なお宅ですね、なんてそんな感想をいえる余裕もないのでできれば帰らせて頂きたい。早急に。そう思っているとは露知らず、「さあ、どうぞ!遠慮しなくてもいいのよ」彼女は笑顔で俺を手招くのだった。 ← → back / top |