はやくはやく。飛び込むように乗り込んだタクシーの中でじりじりとした焦燥に、俺はギリッと掌を握った。一人暮らしのちいさな一室で連載中の彼の小説を拡げ、ようやくすべてのキーワードが揃った時にはすっかり外は暗くなっていて、逸る気持ちを嘲笑うように時間だけが過ぎていく現状に、じわりとした汗が顎を伝ってぽたりと太腿に流れ落ちる。俺の推測が正しければ、彼にはもう時間がなかった。

───


2407号室と表記されたドアの前。彼に残された時間がないことは分かっている筈なのに、俺は扉を叩くのを躊躇っていた。持ち上げた拳をゆるりと下ろして瞳を伏せる。衝動的に此処まで来てしまったがなにを伝えたらいいのか纏まらないし、彼の望みを叶えるのが俺でいいのか自信もなかった。どくどくと高鳴っていた心音はすっかり也を潜め、ひっそりとした静寂に取り込まれたような気分だった。

「あら···貴方は···?」
「こんばんは。夜分にすいません」

靴先に視線を落として暫く、ギィッと音を立ててドアが開いた。ビクリと肩を震わせて顔を上げれば、優しそうな年配の女性が扉の隙間から顔を覗かせていた。驚いたように目を見張った女性に、ぺこりと頭を下げる。彼女は俺が手にしている本に気が付いたのか、頭上で息を呑んだ気配がした。さぁ、どうぞ。たおやかに入室を促す彼女に従って、ギュッと本を握り締めた俺はゆっくりと室内に足を踏み入れる。

中央のベッドには新名任太朗が仰向けにその身を預けていた。新名先生は、来訪者に気づくと瞠目して身体を起こそうとしたので傍にいた主治医が慌てて制した。その様子を見詰めながら、緩慢に彼の傍に近づいていく。

「"全国の名探偵諸君に告ぐ!私の頭脳を凌駕したくば、この事件の真の謎を解明してみたまえ"───真の謎、解けましたよ新名任太朗先生」

覚悟はできていなかった。けれど、横たわる彼を見たら、すらりと自然に言葉が飛びだしていた。片手に本を掲げ、ニヤリと口角を上げて得意気に笑ってみせた俺に、彼は僅かに瞳を見開いた。それから「そうか、君が···」そう静かに呟くと、彼はたおやかに瞼を閉じる。身体の力を抜いたのかギジリとベッドの軋む音が室内に柔らかく響いた。その、ひとつひとつの細やかな動作すら目に焼き付けようとじっと見据えていた俺は、ゆっくりと瞼を持ち上げた彼の穏やかな優しい瞳にまるで心臓を掴まれた様な感覚がしてちいさく息を呑む。目元に皺を寄せた彼の、泣きそうなほどの柔らかな頬笑みに溢れそうになる様々な言葉をぐっと堪えて、震えそうになる唇をゆっくりと開いた。

「──まず、違和感を感じたのは作中で登場する新名先生を模したキャラクターでした。そして、そのキャラのセリフだけ漢数字とアラビア数字が入り乱れていたりと表記のおかしい箇所があったので暗号が隠されていることにはすぐ気付きました」

声は、震えていなかった。その事に安堵しながら、脳内で言葉を組み立てて彼に届くようにしっかりと舌を動かしていく。彼はただ黙って俺の話しをにこやかに聞いていた。その優しげな表情は、そっと背中を押してくれているようだった。

「注目すべき点はふたつ。タイトルの"1/2の頂点"と先生のキャラがフランス在住ということです。タイトルに準えて、セリフの一番上の文字を"二つで一つとして読む"ということと、フランス語には"h"を発音しない"無音のhアッシュと呼ばれるルールがあるので"ハ行の文字は除く"こと。この二つの法則さえ分かれば、解読するのは簡単でした。"助けてくれ。私が居るところは杯戸シティホテル2407号室"───この場所が表記されていたという訳です」

口角を上げて言い切った俺の鼓膜を、パチパチと乾いた音が揺らがした。音の発信源に顔を向ければ、先ほど部屋に通してくれた女性──新名先生の奥さんだろう人が彼とよく似た朗笑を浮かべて、胸の前で手を叩いていた。無性に気恥ずかしくなって、視線を伏せる。

「いやぁ、素晴らしい。良くぞ辿り着いてくれたね、名探偵くん」
「いえ、俺は貴方の作品が好きな、ただの一読者ですよ」

柔らかな声にそっと視線を戻した俺は、ゆるりと首を振って口許に弧を描いた。「それに──」やんわりと連ねた俺に、穏やかな微笑を浮かべていた彼がきょとりと瞬く。

「これは真の謎じゃない。そうですよね?」
「ほぅ、どうしてそう思うのかね?」

不敵に笑った俺に、彼は片方の眉を上げた。その表情には愉しそうな笑みが浮かんでおり、まるで新しい玩具を貰った子供のようだと思った。

「1話から5話までの先生のサインは直筆でした。だけど、6話と7話はまったく一緒のサインでした。この事から、貴方が筆を握れない状況にあるというのが伺える。誘拐の線も考えましたが、余っ程信頼できる人でなきゃこの複雑な原稿は任せられないですし、監視されている可能性も低い。誘拐でないのなら、身体も動かせないほど体調が悪いとしか考えられないんです。つまり───」

落ち着けるように、ひとつ息をつく。喉はカラカラに干上がっていたし、じっとりと嫌な汗が背中を伝う感覚がした。この先を言ってしまったら、目の前で穏やかに笑っている彼が遠くに行ってしまうような気がして、唇がやけに重く感じる。それでも、笑顔だけは絶やしたくなかった。

「つまり、この暗号は犯行を装った新名先生の自作自演。そしてその動機は、最期に読者の顔が見たかったから。それも、得意満面な顔を。──ですよね?」
「ほっほっほっ、そこまで解いてしまうとは。いやぁ、私の負けだよ」

ニッと満面の笑みで言い放った俺に、彼は豪快に笑った。興奮しているのか、蒼白い頬にわずかな赤味が差している。しかし、すぐに咳き込んでしまい、慌てて背中を擦る主治医を片手で制すると不調を感じさせないほどの頬笑みを浮かべて俺を見詰めた。

「ああ、そうだ。君の推理に間違いはないよ。ありがとう、私の謎を解いてくれて」

こんなに幸福な気持ちになったのははじめてだよ。そう言って、ピクリと指先を動かした彼の意図を汲み取った俺は、そうっと指を伸ばして彼に触れた。柔らかな彼の手を大切に両手で包み込んだ俺は、その暖かさに息が詰まるような感覚がした。震える唇をなんとかこじ開けて、やんわりと目元を緩める。

「···俺も、生涯で最高の作家に出逢えて嬉しいです」






それから暫くして、新名先生は眠るように息を引き取った。白い布が顔に掛けられた彼の姿にそっと瞼を伏せる。ハンカチで目尻を抑えて泣く彼女の、静かな嗚咽が室内に虚しく響いていた。

突如、重々しい空気を割くようなバタバタと荒々しい足音がピタリと扉の前で止まった。彼女がゆるりと動く気配がして扉を開けたのだろう、それから雪崩込むようにいくつもの足音がカーペットを踏み荒らす。「お父さんっ!」その内のひとりが香保里さんだったようで、ベッドに横たわる新名先生に気が付いた彼女が悲鳴を上げた。

「あんたが新名氏を誘拐した犯人か?」
「いや、儂は···!」

ベッドの傍らに膝を付いて泣きじゃくる彼女に反して、低い、落ち着いた声が耳に入った。「じゃあお前か!」狼狽えて頭を振る主治医から、矛先を俺に変えた男性にがしりと両肩を掴まれてがくがくと揺さぶられる。その間も俺はずっと俯いているだけだった。

「その方々は主人の主治医の先生と、主人の願いを叶えてくれた大切なお客様です」

否定も肯定もせず、ただされるがままになっていた俺はそこでやっと視線を上げた。じゃあ犯人は一体···。ピタリと動きを止めて戸惑う男性に、奥さんがゆるりと首を振る。

「犯人なんていませんよ。いるとしたらそこに横たわっている、新名本人ですわ」

そう切なげに微笑む彼女にざわりと空気が揺れた。ゆっくりと真相を吐露する彼女の声を耳に、俺は誰にも気づかれないように静かに部屋を後にする。パタンと扉の閉まる音が、閑散した廊下に重く響いた。

重い足を引き摺って階段を下りた俺は、踊り場の壁に背中を預けるとそのままずるずると滑るようにしゃがみ込んだ。顔を埋めた腕は今更になって震えていて、情けなさに自嘲の笑みをうっすらと浮かべる。

「···泣いてるの?」

暫く、そうしていた俺の耳にコツコツと階段を下りる足音が届いた。真横に立ち止まった気配にも、頭上から掛けられた幼い声にも気付いていたが俺はなにも応えなかった。すずっと鼻をすする音で分かっているだろう彼は、それからなにも言わずにただ黙ってそこにいた。

「···あの人の、」

ぽつりとか細く呟いた俺に、此方を見たのだろう僅かに空気が動いた気がした。はっと洩れた吐息は揺れていて、ギリッと腕に爪を立てる。

「···あの人の、最期に見るのが、本当に俺でよかったんだろうか···。···俺は、上手く、やれたんだろうか。あの人の望みを、叶えてあげることがっ···ちゃんと、···っ」

どうしようもなく不安だった。二ヶ月という長い時間を掛けて、病魔に苦しみながらも切望した彼の最期の願いをちゃんと叶えることができたのか、上手く笑えてたのか、そもそも俺なんかでよかったのか。ひとつを吐けば、堰を切ったように溢れだす不安を押し留めるのは難しかった。じんじんと熱を生む目頭と、不甲斐なさにぐっと堪えるように腕を掴んでいた俺の手の平に温かな体温がそうっと触れた。

「新名先生、穏やかな表情で眠ってたよ。それに、暗記するほど自分の作品が好きな奴に最期に逢えたんだ、嬉しくないわけねーよ」

優しく紡がれた言葉に、喉の奥がひくりと震える。そうだろうか。もう二度と彼と言葉を交わすことは叶わないけれど、もし、そうだったら───。嗚咽を堪えて、静かに腕を濡らす俺の手の平に乗せられた小さな温もりと、優しい言葉にすこしだけ救われた気がした。



それから数日後、香保里さんが新名先生のあとを引き継いで探偵左文字シリーズの連載をはじめたことを毛利から聞いた。新名家族から改めてお礼がしたいと毛利を通して連絡が来たが、大したことはできなかったし執筆に集中してほしいと断っていたのにも関わらず、後日、左文字シリーズの複製原稿が自宅に届いたのでこれには驚きを隠せなかった。どこから住所が漏れたのかはわからないが、宝物として大切に保管している。






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