「ここが私の家よ」 見覚えのある建物にひくりと口端が引き攣った。まさかこうも近日で訪れる事になるとは思ってもみなかったし、彼女があの「毛利蘭」だなんて予想だにしていなかった。私のお父さん探偵なの。得意気に笑って、タクシーから降りる毛利に差し伸べた手は情けないことに微かに震えている。 「足元、滑るから気をつけて」 「うん、大丈夫」 動揺を悟られないようにちいさく息を吐いて、二度と登ることはないと思っていた階段を毛利に肩を貸しながら慎重に上がる。朝方まで雨が降る予報だと山田は言っていたが、雨上がりのひんやりと冷たい風が毛先を揺らすだけだった。 「飲み物持ってくるから座って待ってて」 「いや、お構いなく。てか、動きまわるなって」 毛利は世話焼きな性質なのか、事務所の扉を開けると早々に給湯室だろう方向に歩きだした。元々、長居をするつもりはなかったので引き止めて来客用のソファに座るように促す。彼女の父親は不在のようだった。窓際の机の上には、こんもりと山のように積み重なったたばこの吸殻とビールの空き缶がいくつも転がっていて彼女の苦労が垣間見えた気がした。 「ごめんね、散らかってて···」 「いや、べつに」 「お父さん、普段はこんなんだけど最近は眠りの小五郎って言われててね、ちょっとした有名人なのよ」 「へぇ」 机に視線を向けた俺に、毛利が困ったように笑ってフォローを入れた。眠った姿勢で事件を解決するから眠りの小五郎。その裏にちいさな小学生がいることに彼女はまだ気が付いていないようだった。 「それじゃ、お大事に」 「えっ、もう帰るの?」 薄っぺらい鞄を手に背を向ければ、毛利が驚いたような声をあげた。治療もしたし、しっかりと家まで送り届けたので彼女の友人も文句は言わないだろう。夕飯、食べていったらいいのに。親切心でそう言う毛利にゆるく首を振ってドアノブに手を掛ける。 家主と顔を合わせずに済んだことはラッキーだったし、あの小学生がいまだ帰ってきていないのは運が良かった。彼女が毛利蘭であるなら、彼女の言う工藤新一が江戸川コナンであることは知識のない俺でも容易に結びついた。先日、予期せぬエンカウントを果たしてしまったし幼少期から面識はあるようだがこれ以上は関わらないほうがいいだろう。 そう結論付けてドアノブをゆっくりと捻った。けれど、ギギギッと音を鳴らして勝手に開いていく扉にドアノブから手を離してきょとりと瞬く。開いた扉の先には、妙齢の綺麗な女性が緊張した面持ちで立っていた。 「と、突然すいません」 「えっと、どうぞ座って」 ガバリと勢いよく頭を下げた彼女に思わず毛利と顔を見交わせる。お客さんだろう彼女に腰掛けるように促して、席を立った毛利の後をすこしだけ迷って着いていくことにした。カチャカチャと手馴れた様子でお茶を用意する毛利の背中に「で、どうすんの?」と問いかければ、けろりとした表情が返ってくる。 「どうって···話を聞くのよ」 「お前の父親もいないのに?」 「お父さんにはあとで話すから大丈夫よ」 「ふーん」 そう、飄々と言ってのけた毛利からお茶の乗ったトレーを横から攫う。もしかして、足を捻っているということも忘れているのだろうか。そう思ってしまう程、危機感の足りない毛利にヒヤヒヤしつつ、女性の前にお茶を置く。どうも。そう軽く頭を下げた女性に、会釈を返して脇に下がった。「それで、ご要件はなんですか?」どこか思い詰めた表情の女性の向かいに座った毛利がやんわりと切り出したのを確認して、ちらりと扉を一瞥する。突然の来訪者のおかげですっかり帰る機会を逃してしまった。 「私、新名香保里と申します」 「新名···ってまさか!」 「はい、新名任太朗は私の父です」 新名任太朗。数あるミステリー小説の中でも有名な探偵左文字シリーズを手がける作家の名前にピクリと反応した俺は、ついっと視線を女性に向けた。左文字シリーズは10年前に連載が終了したとはいえ、ドラマでなんどもリメイクされるほど有名なので原作を読んでいなくても知らない人はいないだろう。瞳を輝かせる毛利に、かすかに頬を緩めた女性はゆっくりと重い口を開いた。 「実は、私の父が二ヶ月前から行方不明なんです」 「えっ?!で、でも文芸時代で連載してますよね?」 「でも、本当なんです!母も一緒に居なくなっちゃったんです!警察にも他の探偵事務所にも行ったんですが、誰も取り合ってくれなくて···それで、毛利小五郎さんならと思って来たんです」 必死な表情で主張する女性に毛利が困ったように眉を下げた。父親が不在だということをなんと伝えようか考えあぐねている様でもあったし、毛利のいうように二ヶ月前から左文字シリーズの連載が新たにはじまっていたので信憑性の薄い依頼にどう判断するか悩んでいる様でもあった。 「その話、詳しく聞かせてもらえませんか?」 突然、会話に割り込んだ俺をふたりが驚いたように見上げた。すこし戸惑った様子で、けれど、藁にも縋る思いだったのか順番に説明してくれた女性の話に顎に手を添えて思案する。 彼女の話を鵜呑みにするなら、彼はいまもどこかに監禁されながら作品を執筆しているという事になる。あの冒頭の献辞に表記されていた挑発するような文章も、作中に作者本人を模したキャラクターが登場するのも彼の無言のSOSだとしたら全てが繋がるような気がして俺は急いで扉に向かった。 「ちょっとなまえ!どこ行くの?!」 「わるい!急用おもいだした!」 毛利がまだなにかを言っていたが、遮るようにバタンと扉を閉めて飛び降りるように階段を駆け下りた。 ← → back / top |