月弓1

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三孫 / 関ヶ原後

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 山間の杣道を、短い武者行列がゆったりとした足取りで行く。場所からも、隊列の規模からも、彼らが忍びの旅であることはすぐに知れた。追われる者か、追う者か。そのわりにはどこかのんびりとした一行の、ちょうど中央あたりに、金の立派な具足を着けた騎馬武者の姿がある。きっと、この一行の主なのだろう。兜は被らず前髪を上げて額を出した若い面構えからは、不遜ともとれる気概が見てとれた。矢で狙われれば命はないが、この様子では危険を承知で敢えて急所を晒しているのであろう。
 一行には歳のいった老武者も従っていたが、誰一人、主の無謀を咎めようともしない。皆が皆、安心しきった顔で、時たま私語を交わしながら進んでいく。ここは日の光さえも生い茂る樹木に遮られ、十分には届かぬ山の奥も奥である。凶手とてもここまでは追ってこないと思えた。第一、真昼間というのにこうも暗くては、たといどんなに腕のよい射手でもまともに的も絞れまい。
 武装とは名ばかりの無防備さが、彼らにはあった。

 ――細い、長い腕の先の銃口が、今この時も、まっすぐに彼らの主を狙っているとも知らずに。

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 はじめて足を踏み入れた大坂城の内部は、どこもかしこもしんと静まりかえっていて、まるで城そのものが死んでしまった巨大な生き物のようだった。かつて一時でも、日ノ本の覇者の居城たりえたとは思えぬほどに、生きているものの気配のしない城。在りし日の賑わしさの欠片さえ、ここには残っていなかった。
 がらんどうだ、と孫市は思う。
 もはやここには何も残ってはいないのだ。壮麗さを讃えられた城は、今はただ空虚を内包する大きな容れ物に過ぎない。この城に暮らし、生きている者も少なからずいるというのに、この城には生気がまるでなかった。だからといって、幽霊じみている、というのともまた違う。
 この城の初めの主が死んで、その時に城も死んだのだろう。ただその時でも、ここには亡霊が暮らしていた。その亡霊さえも無くして、今はもう、なにもない。
 広い、長い廊下を歩く。初め来たばかりの頃は一々に、幾つ目の角を右に、左に、と数えながら歩いていた城内も、今では周りをちらりと確認するだけで、自分が一体どこにいるのかわかるようになってしまった。豪華絢爛を形にしたような城内は、慣れれば同じところが一つとして無いことがわかる。まるで、迷いようもない建物だった。
 通いなれた通路をたどり、孫市は突き当たりの襖を開け放つ。ぱんっ、と軽い音がして、中天の太陽が薄暗い室内に転がり込む。
 闇が、もぞり、と蠢いた。
「お前はいつまでそうしているつもりだ――石田」
 部屋の最奥、ゆっくりと金緑の瞳が開く。薄暗闇の中、まるで猫の目のようにその一対だけが不気味に光る。鋭いほどに鮮やかなその色とは反して、どこか虚ろな瞳は、なにも発することなくまたゆっくりと闇へと消えた。
 孫市はそれを見届けると、はあ、と盛大な溜め息を吐いて、もう一方の部屋の隅に声をかけた。
「もう下がれ」
 それに声もなく頷いて、するすると闇の塊が隣の部屋へと動いて消えた。こちらもまた、主に似て静かなものだった。
 あの天下分け目の大戦から一年を経た今でも、ここ大坂城には、変わることなく城主がおり、それに仕える兵に小姓、侍女に下女に厩番等、数多くの者達がいる。勿論、その数は故太閤が主であった頃には遠く及ばないものの、少なくとも孫市自身はこの城で何ら不便を感じたことはない。今や領地もない、ただこの城だけを有する男一人に仕えるには、多すぎると言って良い人数だ。
 敗軍の将とは死ぬものと、古来から相場が決まっている。それは関ヶ原で対陣した両将にも言えたことで、少なくとも石田三成に限っては本気で敵将の首を掻っ切ろうという腹積もりだったに違いない。しかし、実際にあの戦で負けたのは三成であった。本陣に乗り込み、大将自身の手で生け捕りにされたという三成の運命もまた、決まっているようなものだった。誰がそれに否やを言えるだろうか。ましてや、その結果を覆すなど。
 ――三成の延命を願ったのは、他ならぬ徳川家康、彼に対峙した東軍の総大将、その人だった。
 家臣等の反対を普段の温厚な人柄を疑うほどの強引さで捩じ伏せ、見張りさえつけずに居城さえも与えてやった。これだけでもかつての敵将に対する措置としては異例だが、さらにその、与えた居城が天下の名城と謳われた大坂城なのだから、家康の頭を疑う者まで出る始末である。対外的にはうまく隠したようだが、雑賀の情報網からその報告を得た時などは、思わず、あのカラスが、と口から罵声が出かけたものだ。
 戦乱のない泰平の世を築くなどと言うからには、後の禍根は根こそぎ無くしておくべきだろうに、こんなものは子どもの我儘に等しい、と孫市は思った。あの三成が、一度や二度の敗北で家康の首を諦める筈がない。ただでさえ、武士階級の者には泰平を望まぬ者も多くいるというのに、わざわざ最大の火種を消し潰さぬカラスがいるものかと思ったのだ。
 しかし、実際に今の三成を目にした孫市は、己のその危惧が杞憂に過ぎなかったことをまざまざと思い知らされた。
「このままでは、早晩死ぬぞ」
「……死なん」
 ぽつん、と木霊のように、闇から声が返る。
「刑部が死ぬなと言ったから、私は死なん」
 そうしてまた、静寂へとたち戻る。
 今の三成には、刀をふるうことは叶わない。そもそも握ることさえできないだろう。
 寝転ばった三成の右袖は、包むものを持たずにだらりと床に垂れ下がり、俊足を誇った二本の脚は、無造作に投げ出されている。

 今はもういない男が、三成を死んだ男と評していたのを、孫市も聞いたことがある。
 ならば、今の彼は一体なんなのか。死んだ体を動かす亡霊が、もうこの世にいないのであれば――残ったのは、ただ朽ちる時を待つ屍でしかないのだろうか。

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2012/07/17

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