月弓2

*

三孫 / 関ヶ原後

*

 孫市率いる雑賀衆のすべてが、あの戦で直接に石田軍とぶつかったわけではなかった。豊富な銃装備を誇る雑賀は、主に後方支援部隊として様々な軍に分けて配備されており、配置先によっては彼の横顔さえ見ることもなく戦を終えた者もいた。
 相手方の大将を知らずとも、戦はできる。本来、大将というものは本陣の奥深くに構えているものであり、すなわち本陣さえ落とせば戦は勝ったも同然である。それに、たとい面識こそなくとも、名のある武将は大抵兜や鎧やらに金をかけるのに余念がないから、その特徴さえ覚えておけば、大将首をとることも容易なのである。
 伊予河野軍の客将として参戦した孫市自身は、石田三成本人とも刃を(孫市の場合は銃を、と言った方が正しいかもしれない)交わす機会があった。銃身で受けた刃は重く、確かに命のやり取りに特有の緊迫感は肌を舐めるのに、まるで相手の存在感がない。鼻の先に迫った金緑の瞳はギラギラと殺意に輝いているというのに、その視線は己を通り越して、もっと遠い、別の誰かに向けられていた。
 良くも悪くも、あの男を止められるのは徳川しかいない。そう思ったのだが。
「カラスが。人は何か食べないままでは普通は死ぬように出来ている」
「私は死なん。放っておけ」
「お前を死なせないのも契約のうちだからな。放っておけと言われても、そればかりは聞き入れられん」
 半端に開いていた襖を開けられるだけ開けて、日光を室内に招き入れる。ようやっと最奥まで届いた光に対して、三成はわずかな不快を表すように眉間に皺を寄せはするものの、それ以上の動きを示そうとはしなかった。
 孫市の見た、あの悪鬼羅刹の持つが如き憎悪は一体何処へ行ってしまったのか。消えたのか、はたまたそんなものは、端から存在してはいなかったのか。
 刀を失ったところで、爪が、牙が残っているのならばその殺意は収まらぬかと思っていた。足が折れても、腕を失っても、それが彼が生きるのを止める理由になるだろうか。ただひたすらに衝動だけで生きている獣。彼を人と呼びえる理由など、ただその殺意の意味だけだと。
 相変わらず、それ以上は動く気配のない三成の体を無理やり起こし、自らの体にもたれかけるように座らせる。孫市は片腕だけを伸ばして、とっくに冷えた膳を手元へと引き寄せた。手をつけられた様子のない料理の中から、適当に小鉢を手に取ると、箸で僅かな量を摘まんで三成の口許へと近づける。
「食え」
 物言いたげな視線を無視して、なにかの和え物を突き付け続ければ、そのうちに諦めたようにぱくり、と箸の先は三成の口の中へと消えた。一噛みか、二噛みか、口を動かすのも面倒だとでもいうように、たったそれだけでこくりと飲み下す。
 その間に孫市は手早く魚の切り身を箸でほぐし、再び三成へと突き付ける。次から次へと口許と膳の上を往復する箸のお陰か、漸く半分が片付いたところで、三成の体は再度ずるずると床へ沈んだ。
「こら、石田。寝るな。まだ半分残っている」
 傍らに丸まった体はうんともすんとも声を上げない。こうなってはもはや何をしても無駄なのは一月の付き合いでわかっていた。仕方なく孫市は残りの膳を自分の口へと運んだ。流石はかつて天下の台所とまで呼ばれた土地だ。城の料理番まで舌が肥えているのか、この城の食事はすべて旨かった。当の主は茶碗一杯の食事も厭う有り様だというのに。
「お前はどうすれば生きるのだろうな」
 この一月、幾度となく口にした問いかけに、答えなど返ってくるはずはなかった。

 パンッ、と高く響いた一発の銃声と共に、男の体がどさりと床の上に落ちた。熱を持った銃身を片手で器用に回しながら、孫市はその傍へと歩み寄る。びくびくと震えていた体はそのうちに、文字通りの物言わぬ死体へと変わった。ごろりと仰向けに蹴り転がせば、口からだらりと赤が漏れて足先を濡らす。
 一瞥しただけでは、どこの手の者かもわからないが、たとい調べさせたところで、大した情報が得られるわけでもないだろう。わざわざ城中まで出向いて暗殺を仕掛ける輩に、おいそれと身元のわかるような人間を遣うような馬鹿はいない。そもそも、心当たりが多すぎるのだ。徳川麾下か、西軍残党か、それともまったく別の勢力かもしれないが、とにもかくにも怨みならば、戦の前にも後にも叩き売るほど買っているのだ、この男ときたら。
 当の本人はといえば、今の今まで、ぴくりとも動かず、ただ床に寝転ばっているだけである。
 孫市ははぁ、と大きな溜め息を吐く。
「死ぬ気がないというなら、少しは逃げるでもしたらどうだ」
 あの戦で、両足の腱を痛めた三成には、日常生活こそ支障はないものの、もはや以前の速さを望むことはできない。それでもまだ並の人間よりは速いのだから、十分だろうと孫市などは思うのだが、三成はすべてを諦めてしまっている。こうして飽きず刺客を差し向けてくる輩とて、そう思うからこそだろうに。
「石田、お前には欲しいものはないのか」
 生かしてくれ、と家康は孫市に頭を下げた。何をしてもいい、三成を生かしてくれ、と。
 もしかしたらあの男は、こうなることを予想していたのかもしれない。
「……後にも先にも、私が欲するのは家康の首ただ一つ」
 貴様には叶えられまいと、薄い唇が嘲笑に歪むのを待たず、孫市はわかった、と頷いた。
「くれてやる。お前が、それで生きるというならな」

*

2012/10/29

*

+