治部殿狐19

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三吉三 / 人外 / 文学パロ

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 ――遠い昔、誰かに捨てられた記憶だけがある。

 顔もわからぬ、名前も知らぬ。ただ胸を抉るような喪失感だけがあり、それさえも日々の雑務の中に埋没すれば、夢の中の出来事のように、儚く覚束なくなる、本当に微かな記憶である。
 隣り合う、ぬくもりの存在だけを覚えている。

 巾に包まれた指が手の甲を弱々しく這う感触に、三成ははっと視線を目の前の男へと戻した。頭を覆う巾を退けてやると、血にまみれた青い顔が現れる。
 やっぱり美しい、と三成は思った。
 美しいから、欲しいのだろうか。いや、たとい美しくなくとも、三成はきっとこの男が欲しかった。
「人としてこのまま死ぬか……私と、化け物の生を得るか。選べ、刑部」
 それでも、一度は帰したのは――拒否の言葉を聞くのが、恐ろしかったからだ。
「ヒッ……ヒヒッ……」
 顔を血で濡らしながら苦しげに、それでも何故か楽しげに吉継は笑った。笑う拍子にまた血が溢れて、美しい顔に垂れて落ちた。
「ぬしと共になら、化け物もまた愉しかろ」

 無言で袿を翻した陸奥守に、左近はお帰りで、と声をかける。
「いつまでも茶番に付き合っていられるほど、我も暇ではないわ」
 フン、と鼻を鳴らし、天の階に足をかける。そこでふと、思い出したかのように左近を見下ろし、
「あの首だがな」
「はぁ」
「途中、ここの城主によく似た首を見つけたので、刈ってきたのだ」
 青ざめる左近を残し、後は貴様らが始末せよ、と言い放つと陸奥守は雲の上に姿を消した。
「おい、兵庫」
「すぐに追手が来ましょうな」
 困った困った、なにせ将軍の弟君だそうで。言う兵庫の声は明るい。
「全く、あの御方と来たら!」
 左近はヤレヤレと天井を仰ぎ、深い深い溜め息を吐いた。
「殿、いかがなさいます」
「無論、一歩も入れるな」
「ヤレ、無茶を言いなさる!」
 大袈裟に嘆いてみせれば、それでこそ我らが殿よ、とカラカラと隅で笑声が上がる。
「では、存分に会釈仕る」
 御免、と声がしたかと思うと、部屋の灯が、一つ、二つと消えて行き、
「行くか、刑部」
「何処へ行きやる、と言う必要はあるまいな。ぬしの行く処ならば」
 何処へなりとも。
 白い二つの手が重なったかと思うと、最後の灯りがふっ、と消えた。

 それ以来、生きている者で天守に登った者はいないと言う。

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おわり

2011/09/25

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