月弓5

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三孫 / 関ヶ原後

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 あの日、三成は家康に向かって引き金を引いた。もはや見慣れた、あの弓でも引くような動作でもって引き金を引いたのだ。
 孫市は家康の絶命を疑わなかった。どんなに馬鹿げた構えで放たれた弾丸だとて、その狙いが外れることはこの一月で一割に満たないほどに減っていた。目の前を行く家康は、まるで警戒のない様子でゆっくりと馬を進めている。万に一にも狙いを外すことはないと思えた。
 弾丸は放たれた――家康の、頬を掠めて。
 すぐ傍にあった木の幹を、深く抉って弾は止まった。どこでもいい、頭や心の臓を強いて狙う必要はない。当たりさえすれば、この威力ならば骨も肉も軽々と吹き飛ばせる。その筈だったのに。
 水を打ったような静寂の後、わっと取り巻きが騒ぎだす。自らも呆然と弾の行方を追っていた孫市は、家康の目がゆっくりとこちらを向くのを認めた。金の瞳が、驚いたように見開かれる。
 その瞬間は、すべてがひどく緩慢に感じられた。
「退くぞ」
 腕をぐい、と引かれる感触に急に現実を取り戻して孫市は振り返る。常と変わらぬ三成の無表情の真横を、ひゅっと音を立てて矢がすり抜けた。
「お前……」
「話は後で聞いてやる」
 何故、外した。孫市がそう口にすることはついぞなかった。

 あれから真っ直ぐに大坂へと立ち戻るや、孫市達は迷わず四国を目指した。途中、雑賀荘に立ち寄り、増えた一行は海路で土佐に向かう。
 突然の来客に驚いた様子を見せた元親だったが、用件を聞くと快く船を出すことに了承した。人影に隠れるように立っていた三成に気づいたかどうかはわからない。元親にとっては、三成は仇である。直接手を下した訳ではなくとも、その責は大将であった三成にある。恨みこそすれ、好い感情を持っているとは思えない。
 元親が否と言えば、困ったことになったろうが、それでも三成を置いていく気は孫市にはなかった。
 当たりこそしなかったものの、天下人に銃口を向けたのだ。今度こそ三成は死ぬだろう。それほどまでにして死にたいのなら、もはや孫市は止めようとは思わないが、退くと三成は言ったのだ。前進しか、知らなかったような男が。

 腕をひかれて体が傾ぐ。倒れた先は、柔らかさとは無縁の硬い胸の中で、何のつもりだと顔を上げれば、思いの外真面目な顔と目があった。もっとも、この男がふざけた顔をしている処など見たことがない。
「吐かれては敵わん」
 要は心配されているのか。わずかに頬を緩ませると、孫市はありがたく三成へともたれかかった。並みの女より細く見えるくせに、孫市一人が寄り掛かるくらいではびくともしない。そう口にすれば、きっと、何を言っているのかと呆れたような顔で見られるのだろうが、雑賀の頭領として、銃を自在に操る技術と引き換えに並みの女であることを捨てた孫市にとっても、怪我を負っているわけでもないのに、こんな風に誰かに身を預けることは久し振りのことで、どこまでならば許されるのか、その距離が図れないでいる。
「貴様、嫌なら嫌と言え」
 むすりとした声に言われ、孫市は一瞬だけ躊躇った後、体の力を完全に抜いた。くたりとした体は、先程よりも強い力で支えられる。
「……刑部より軽い」
「本当に失礼な男だな」
 流石に、病人とはいえ成人した男より重くなったつもりはない。さすがにむっとして身を離そうとしたが、背中に回された腕がそれを許さない。
「私はそんな貴様にもたれていたのだな」
 耳元で告げられた言葉を、孫市は笑ってやった。
「今更だな」
「すまん」
「構わない。それに、お前だってそこらの男よりは随分軽かった」
「そうなのか」
 まったくもって嫌味の通じない男である。頭は悪くは無い筈なのに、どうにも会話が噛み合わないのは一体どんなわけだろうか。過保護な友がずっと傍についていてやった所為だろうか。
「考え事をすると、益々悪くなるぞ」
「……よくわかったな」
「顔を見ればわかる」
 声に少しだけ得意気な色が混じる。親に誉められた子のようで、孫市は深く考えぬままに三成の頭に手を伸ばしていた。銀の髪はするりとしていて、心地よい。
 そのままよしよし、と二三度撫でて、自分をじっと見つめる金緑の目に気がついた。やはりまずかったかと手を引くと、それに合わせて視線が動く。それが、ついには人慣れた猫の目のように細められたのをみとめて、孫市は吹き出した。
「何がおかしい」
「何でもない」
「何でもないわけがないだろう」
 嘘ばかりはすぐにばれるのだ、この男は。だが、嘘八百で煙に巻くほど己の口が上手くないことは重々認識しているし、大体そんなことをすれば、それこそまるで、
「お前にはしっかり働いてもらうからな」
 浮かんだ顔を気付かなかったふりをして、孫市は努めて意地悪気に微笑んだ。孫市には三成をただ甘やかしてやる気は毛頭ない。
 食い扶持と言わず、稼げるだけ稼いでもらうつもりである。
 生かしたのは契約だからだが、連れていくのは――。
「当たり前だ。私は貴様の客将ではない」
 共に来ると、そう三成自身が選んだからだ。
「……三成」
「なんだ」
 ほんの僅かな葛藤を経て呼んだ名前は、至極あっさりと肯定された。こちらの逡巡など、まるで思い至らないで返されたろうそのいらえに、少しだけ、むっとする。
「三成」
「なんだと言っている」
「み、つ、な、り」
「貴様、ふざけているのか?」
 今にも銃を構えそうな三成に、そうだな、と返せば、冗談はすかん、と返される。本当に、扱いやすくて扱いづらい。
「カラスめ」
「意味がわからん」
 豊臣はもうない、石田という名の男もいない、日の本を出れば、徳川さえ意味がない。何もかも振り切って、孫市と三成はここにいる。足場さえ不安定な海の上で、言葉さえわからぬ異国を目指している。
 それはとても、不安定で――おそらくとても自由である。
「ふふっ」
 笑い出した孫市を咎めるでもなく、じっと次の言葉を待つ様子を見せる三成に、孫市はよしよしと、今度ははっきりと自分の意思で頭を撫でる。
 すべての人間にとって、何が正しいか、何が幸福なのかなど、そんなものには興味がない。そもそもがそんなこと、誰が一体わかるのだろう。“雑賀衆”の“孫市”にとって大事なのは、己を最も高く評価する契約であり、評価に見あった働きを見せることである。そうして、傭兵集団である雑賀衆に、戦の無い国など意味はない。だから出ていく、それだけの話で、ぐるぐると思い悩むなど時間の無駄だ。
 ――そうして、“雑賀”の“三成”にとっても。
「楽しみだな」
「……あぁ」
 間髪入れずとはいかないが、確かに頷いた男の頭を、一層の力を込めてぐしゃりと撫でて、孫市は手を離した。笑いながら、またぽすりと三成にもたれかかる。
「気持ちが悪い」
「だから、余計な考え事はするなと言っただろう」
 それでも先程よりはずっと気分がいいのは何故だろうか。再び巡り始めた思考を、目を瞑ることで停止させて、孫市は深く息を吐いた。波の音に混じって、もたれた男の鼓動が一定の調子で時を刻む。船の旅は退屈だ。それこそ、いつもならば歯牙にもかけぬ考えを何度も繰り返し再考してしまう程度には。
「少し、寝ろ」
 三成の声に素直にうなずく。この男を本当に連れてきても良かったのかと、答えのでない問いも共に、眠りの底へ連れていこう。
 ゆっくりと瞼を覆う骨ばった手の影で、三成が笑顔を浮かべたのについぞ孫市が気づくことはなかった。

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おわり

2012/10/29

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