初春1

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三吉 / 女体化 / 豊臣軍

※蝶嫁御番外編。

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「……吉継くん、今何勝何敗だったっけ」
 昼過ぎのちょうど眠たい頃合いである。ぼそりと呟かれた問いかけに、吉継は重たい頭を振って答える。
「それは碁にござりますか、将棋でございますか」
「ちなみに両方を合わせるといくつ?」
「百と二十六勝七十二敗になりますなァ」
「君もまだまだだねぇ。ちょっとぐらいの賢さを鼻にかけるくらい、みっともないことはないんだから気をつけるんだよ。妻の恥は夫の恥になるんだからね」
「まったく心得ましてございまする。しかし、われ如き小娘ではさすがに手も足も出ませぬわ。今孔明の呼び名ももっともにございますわいなァ。これにて豊臣家は安泰と、安堵いたしましてございます」
「それは七十二敗している僕に対する嫌味かな?」
「まさか、そんな。恐れ多い」
 ヒャヒャッ、と吉継の声が響く。ふふっ、と半兵衛の声が響く。
「……はぁ」
 しばらく続いた白々しい笑い声は、半兵衛のもらした溜め息でぷつりと途切れた。それから、ずず、と板張りの床を削るような音がする。大方、火鉢を手元に寄せでもしたのだろう。大坂からすれば、随分と寒さも和らいできたというのに、この軍師は未だに手元から火鉢を手放そうとしない。もっと北へ向かう進軍の時は一体どうする気なのであろうかと、ふと思った、その一瞬の考えを読んだかのように、稀代の天才軍師は口を開く。
「戦時は車なんか使わないからね。馬上の方が風はあっても、なんといっても生き物の背にまたがっているんだ。体も使うし、ずっと温かいんだよ」
「左様にございまするか」
 適当な相槌に、これまた適当な、そうだよ、が返ってきて、そうして再び会話は途絶えた。
 三成を夫としている吉継にとって、太閤が舅のようなものだとするのならば、半兵衛はいわば姑の立場にあたる。が、お世辞にもこの嫁姑の仲は良いとは言えなかった。表立って敵対しているわけではないが、三成が吉継を優先するのが、内心面白くないのであろう。半兵衛の吉継に向ける笑顔はいつも欺瞞の香りがした。
 けれども、吉継にしたところで誠心誠意婚家に仕えるなどといった殊勝な考えは毛頭ない。どころか、竹中半兵衛という名の人間に関しては、嫌っているといっても過言ではないのだ。
 吉継は大体の人間は嫌いだが、とくべつきれいな顔をした人間と、頭のいい人間が嫌いだった。

「初詣に行こう」
 事の起こりはそう、霜月も半ばに差し掛かった頃のことだったか。唐突な軍師の一言をきっかけに、準備は慌ただしく進められた。それでも、太閤一行が大坂城を発したのはそれより半月ほど後の師走の始め。――同時に始まった車中の暮らしは、もう一月になるであろうか。
 車を下りて地に足がつけられるのは日が暮れてからの僅かな時間のみで、それも食事が終わればすぐに車内に戻って眠りにつかねばならぬ。雨でも降ればそれさえも叶わぬのだから、ほぼこの一月、陽光などは目にしていない。元から日の光を好むような質ではなくとも、さすがに参る。しかしながら、文句を口にしたところで、吉継のこの生活が改善される余地はなかった。誰とは言わぬ、煩いからだ。
 風邪を引くだの、夜風は体に悪いだの、はたまた暗くなっては足元が危ないだの、口煩いことこの上ない。病人ではない、子供ではない、自分の身の世話くらい自分で焼けると退けても、この間咳をしていただとか、野営には慣れていないだろうとか、とにかく自分の夫はこれほどまで口の回る子どもだったかと、首をかしげるほどである。
 外見から誤解されることも多いが、吉継はけして体の弱いほうではない。あまり部屋から出ないのは、他人の口がわずらわしいからで、武士の家には生まれたものの、深窓の姫君とはまるで違う。旅慣れていないというのも、そもそも三成に嫁ぐのに豊後からはるばる大坂まで、馬と船を乗り継いで一人で旅をしてきたのだ。夜こそ野営ではなく宿であったが、それでも日がな一日車に押し込めていなければならぬとはちとやりすぎであろう。
 もっとも、普通は武家の女が遠出する時は輿に乗らせるところを、馬に引かせた車にしているのだから、そういう意味では譲歩したのであろうが。単に急な出立の為に、のんびりと輿を担がせている暇がなかっただけやもしれぬ。
 思わぬ割りを食ったのが半兵衛である。
 あれやこれやと嫁の世話を焼く三成の姿を見て、なにを思ったのか、半兵衛お前も車にしたらどうだと秀吉が言い出したのだ。 太閤の友を思う発言に、さすがは秀吉さまともろ手を挙げて賛同する三成。さしもの軍師もこれにはとんと勝ち目なく、いやあのううんと言いよどむ間に、とんとん拍子に準備が進められてしまった。実際、半兵衛の体はけっして強い方ではなく、つい先日まで風邪をもらって寝込んでいたことを考えれば、もとより反論などしようもなかったのだが。
 そんな経緯でことここに至り、狭い車中、二人向かい合って座ったまま、たまに互いに本気か冗談かもわからぬような嫌みの応酬がある以外は、ひたすら黙りこくっているというおかしな状況となったのである。
「せめて、もう少し明るければねえ。本でも読めたのに」
 もう何度目かわからぬ愚痴が、ため息混じりに呟かれる。声こそ出さないが、吉継も同じ気持ちだった。
 通常の車とは違い、この車には窓というものが存在しない。正確には、存在するが開けられないのだ。
 吉継達の乗る車を引く馬は、ただの馬ではない。太閤秘蔵の名馬、天君という名の白馬である。日本一と謳われる駿足は、他の追随を許さず、たとえ人二人乗せた車を引こうとも、それでもまだ他の馬よりは倍も早いという傑物なのだ。
 車内は穏やかなものであるが、実のところ車にはあるまじき速さで吉継達は移動している。その所為で前後にある筈の扉が、この車には前にしかないのである。後ろに扉など作れば、あまりの速さに転がり落ちる危険があるからだ。そんなだから窓など開ければたちまちに車内に寒風が吹き荒れることは想像に難くない。開けれるわけがないのだ。
 閉めきった車の中のこととて、燭台は太閤により禁止され、灯りといえば火鉢の中央で静かに燃える炭火ばかり。物の輪郭がぼんやりと見える程度では、到底本など読めやしない。ならば縫い物でもするかと思えば、危ないからとそうそうに三成に取り上げられた。おかげで、目隠し将棋ぐらいしか、やることがない。
 はぁ、とまた半兵衛がため息を吐く。
「吉継くん、今度は象棋でも……」
「吉継」
 こんこん、と窓の外を叩く音がする。この声は間違いない、三成だ。
「どうしたんだい、三成くん」
 吉継が口を開く前に、半兵衛が横から出てさっと口をはさむ。吉継以外の者との会話に飢えているのだ。
「半兵衛さま」
 窓のむこうの三成はちょっと言葉を切り、
「失礼しました。秀吉さまが、もう窓を開けていただいてもよいと」
「秀吉が」
 声に喜色がにじんでいる。これほど嬉しそうな半兵衛の声は、ここ一月なかったのではないかというほどだ。吉継は黙って窓の掛け金を外した。本来ならば簾がかかるだけの窓も、この車では掛け金のついた開き戸になっているのだ。
 開けたとたん、びゅう、と冷たい風が顔を打つ。
「吉継、そのなりでは風邪を引く」
 一旦閉めろ、と眉をひそめる夫を見上げて、吉継は笑った。
「ヒヒッ、暗きところはもはや飽いたゆえなァ。しばらくは目を光にならさねばならぬわ」
「暖かくしてからならせばいい」
「はやにならさねば、ぬしの顔も眩しゅうてよう見られぬ」
「それは……困る」
 懐かしい風景から、早々と視線を離して顔をあげる。こうして明るいうちに見るのは久方ぶりになる夫の顔は、相変わらず人形じみて美しかった。

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2012/01/10

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