地獄の底で会いましょう4

*

一さに / ブラック本丸 / ほの暗い / 残酷表現あり

*

 鳴狐という刀は藤左衛門尉とも呼ばれた粟田口国吉が打った打刀で、他の粟田口の刀、一期一振や薬研藤四郎らとは刀匠を異にする。だから同じ刀匠の鍛った刀を兄弟刀と呼ぶのならば、鳴狐と他の粟田口の刀とは、さしずめ親類刀とでも呼ぶのかも知れなかった。けれどもこの本丸において、鳴狐と他の粟田口の刀との関係は叔父甥というような近しいものではなけしてなかった。あからさまに避けられている訳ではない。けれども兄弟のように気安くはない。いっそ脇差の兄弟のように記憶がなければまた違ったのかもしれないが、あいにくと鳴狐は刀匠に打ちあげられたその日から今日までのすべての記憶を欠けることなく有していた。それこそが、嫌がおうにも彼と他の粟田口の刀達との距離を開く原因ともなっていた。
 他の本丸の鳴狐がどんな風に粟田口の短刀や脇差や太刀たちと接するのか、鳴狐は知らない。鳴狐が想像するよりももっと冷めた、儀礼的な関係でしかないのかもしれない。しかしそれでも今、ここにいる鳴狐が寂しさを感じていたのは事実だった。
  同じ刀種の打刀たちは兄弟刀のいない者が多い。だからといって、鳴狐の居場所はここにもなかった。打刀の中でも比較的無口なのが幸いしたのか、それともはたして不幸といえばいいのか、主の気に入ったらしい。気に入ったといっても、どうしても短刀脇差では足りない遠征や任務、出陣を政府から要請された際に、渋々声をかけられる、という程度である。それでも他の打刀たちからして見れば、声をかけられるだけマシ、ということだったのだろう。欲しくもない嫉妬の視線に、鳴狐は俯くしかなかった。結局のところ、どこへ行こうと、この本丸で鳴狐と親しく会話を交わしてくれるのはお供の狐ぐらいのものだった。
 だからこそ、得体の知れない陰陽師がきっかけだろうがなんだろうが、一期一振に声をかけられたことは鳴狐にとって嬉しい驚きだった。薬研に謝られたことだとて、粟田口の一振りとして自分が数えられたが故だと思えば、鳴狐に不満はない。
 それに、あの狐面。
 陰陽師が被る狐面を異様だと広間の面々は喚きたてていたが、鳴狐はむしろ好意的に受け止めていた。狐は好きだ。だから、狐面を被る陰陽師もきっと好きになれるだろう。
「大将に会わせる前に、一つあんたらに言っておくことがある」
 無言で歩を進めるうちに、薬研がぼそりと口を開いた。
「さっきの鶴丸の爺さんの言で大体察しはついてるだろうが、俺っちといち兄はもう神格を捨てちまってる」
 誰も何も言わなかった。それを気にした風もなく、薬研は続けた。
「もちろん、俺が粟田口吉光の打った短刀、薬研藤四郎の付喪神であることに変わりはない。それ以外の何者になった覚えもない。だがな、俺っちにも上手く言えないんだが……大将に従うと決めた瞬間に、神格を捨てて、陰陽師の使役する式神になると誓った瞬間に、確実になにかが変わっちまった」
 そう言う薬研藤四郎は鳴狐から見て何が変化したとも思えなかった。鎌倉時代の打刀である鳴狐は、神剣として祀られた過去もなければ、霊的な謂れを持つわけでもない。だから、鳴狐に見えるのは表面的なことだけだ。煤けた感じがなくなって、研いだばかりの刃のような鋭さで、目がぎらりと光っている。 
「あんたらも、覚悟しておいてくれ」
 それきりまた会話は途絶えた。
 一行は黙りこんだまま、ぐねぐねといくつもの曲がり角を過ぎて、屋敷の北の端にあたる部分へと足を進める。灯りのない真っ暗な廊下の先に、たった一つだけ、細く伸びた光の筋が見えてくる。数えるほどしか足を踏み入れたことのない、審神者の部屋の襖がわずかに開いていて、そこから光が漏れているのだ。鳴狐のすぐ後ろで、泣き声がいっそう酷くなった。可哀想だとも思ったが、よくもそんなに涙が続くものだとも思った。なにをそんなに嫌がっているのか、鳴狐にはわからない。もしかしたら、今よりずっと良くなるかもしれないのに。
 襖の前で足を止めた薬研が声をかけようと口を開く。が、太刀に似合わぬ素早さでさっと前に出た一期一振が、止める間もなくからりと襖を開け放った。
「あるじさま」
「いち兄!」
 相変わらずふらふらとした足取りで、けれども迷いなく室内へと足を踏み出した一期のマントの裾を、薬研が慌てて掴んで引き留める。
「いち兄、さっきも言ったが、そう」
「お帰りなさいませ!」
 聞き覚えのある声がして、鳴狐はそっと部屋のなかを覗きこんだ。今日昨日聞いた声ではない。もっと前から知っている、
「……こんのすけ」
 ぼそり、と鳴狐にその名を呼ばれて、はい、と覆面をした狐は嬉しげに返事をした。
「こんのすけでございます。本日より、陰陽師殿と共にこの本丸にご厄介になることとなりました。よろしくお願い申し上げます」
 パタパタと尻尾を振って挨拶をする様がかわいらしい。
 こんのすけは好きだ。狐のなりをしているし、それに鳴狐の味方でない代わりに、敵でもない。
 こんのすけは首を伸ばして廊下を覗きこむと、一振り一振り、確かめるように暗がりに並ぶ刀の名前を呼んだ。
「鳴狐殿、骨喰藤四郎殿、それにそちらにいらっしゃるのは鯰尾藤四郎殿でしょうか」
「厚と乱、秋田、前田、平野と五虎退もいるぜ」
 ほら、と薬研が手に提げた短刀を見せると、ぱっとこんのすけの顔が輝いた。
「これは皆様お揃いで! 陰陽師殿もきっと、お心強いことでしょう」
「サテ、そんな可愛らしい御仁かね。大将は?」
「まだお休みになられておいでです」
 ちらり、とこんのすけが部屋の奥の襖を見やる。そこが審神者の寝室だということは、鳴狐も知っていた。足を踏み入れたことこそなかったが。
「そうかい。夜には起きてくるんだろうが」
「皆様方も、一旦休憩されては……って一期一振殿?!」
「待て待て、いち兄!」
 制止の言葉も聞かず、またしても無言で襖に手を伸ばした一期を薬研が慌てて引き留める。が、それよりも一期の手が襖の引き手にかかる方が早かった。ぐっと力をかけられた襖は、
「っ!」
 しかし、バチンと凄まじい音を立てて、一期の手を弾いた。
「大丈夫か! いち兄!」
 衝撃によろける一期に薬研が駆け寄り、すかさず襖から引き離す。鳴狐は息を詰めてその様子を見ていた。一体なにが、起こったのか。骨喰と鯰尾も、鳴狐と同じく、なにが起きたのかわからずに呆然としている。助けを求めてこんのすけを見れば、こちらは呆れたような目を一期へと向けていた。
「まったく! だから女人の在所に気安く立ち入るべきじゃない、って言ったろ」
 ぺちん、と薬研が一期の背を叩く音が狭い部屋のなかに響いた。

「まぁ、とにもかくにもお座りください」
 ぴょん、と膝から飛び降りて、こんのすけが部屋のすみに積まれた座布団へと走る。
「これはこれは! お気遣いなく!」
 それを見て、鳴狐の肩に乗ったお供の狐も、ぴょんと床へと飛び降りると、こんのすけを手伝いに走った。二匹して座布団の端と端をくわえてずるずると床の上を移動するのを片目で見ながら、鳴狐も座布団を敷くのを手伝った。
 六畳あるかないかの執務室は、手机も合わせて座布団を五枚敷けばもういっぱいになった。
「ささ、骨喰藤四郎殿も、鯰尾藤四郎殿もご遠慮なく」
「あいつらのことは放っておいていいぜ」
「……はぁ、」
 ぺしぺしと座布団を勧めるも、動く気配のない骨喰、鯰尾に首をかしげるこんのすけに、薬研がつれなく言い捨てる。それに鯰尾がむっとしたように口を開きかけたが、骨喰に制されて、渋々と口をつぐんだ。一連のやり取りをつまらなそうに見ていた薬研だったが、それ以上は特に進展もないと見てとったのか、さて、とこんのすけに向き直った。
「そろそろ、そこの女人の紹介をしてもらいたいんだがな」
 ちゃっかりと手近な座布団に腰を下ろして、じろりと部屋の端に紫紺の瞳を向ける。
 藍色の絹の上衣に、月白の裳をつけた、天女のような格好をした女である。頭から濃い縹色の被衣を被っているせいで顔形はわからない。先程から衣擦れの音一つたてず、空気のように部屋の隅に控えている。部屋に入った当初、こんのすけはこの女の膝の上に、くるりと丸まっていたのだった。
 鳴狐とてこの女のことは部屋を覗いたはじめから気になってはいたのだが、なにせ一期も薬研も気にする素振りを見せなかったので、当然彼らの知っている人物なのだろうと思っていた。ただ、一期が無視を決め込んでいることから陰陽師本人ではないとは当たりをつけていたが、この言い様を聞く限り、薬研も初めて顔を合わせた相手らしい。では、はたして彼女は何者なのか。
「そこの女人、というと、この方のことでしょうか」
「あいにく他には見当たらんな」
「それもそうですね」
 ふむ、とひとつ頷き、こんのすけはまた女の膝の上へと飛び乗った。そうして、こちらは、と背後を振り返り、もう一度薬研らに目をやって、陰陽師殿の式神です、と言った。
「式神?」
「はい。お部屋を出ていかれてから少ししてのことですが、陰陽師殿が寝室から一度顔を見せられたのです。皆様が戻られた際には、この式神の指示を聞くように、と」
 薬研がまじまじと女を見る。不躾とも言えるほどの視線を受けながら、ぴくりとも反応しないのは、なるほど、式神らしかった。
「なにそれ」
 黙りこんでいた鯰尾が、とうとう口をはさんだ。
「自分は寝ておいて、式神風情の命令を聞けって? 俺たちを馬鹿にするのも大概にしてくれない?」
「鯰尾」
「だって、そうじゃないか。骨喰だってそう思うだろ?」
「……それは」
 噛みつかれた骨喰が言葉に詰まる。元々、一期一振の為に納得せぬままついてきた二振りが、この扱いに文句をつけるのは無理のないことだった。間に挟まれる形になったこんのすけが、おろおろと二振りの顔を交互にうかがう。
「鯰尾藤四郎殿、」
「大体、顔も見せない審神者なんて聞いたこともないし! なにを言われたか知らないけど、いち兄も、薬研も、きっと騙さ」
「五月蝿い」
 襖の向こうから突然に放たれた言葉に、ひゅっ、と鯰尾が息を飲んだ。
「あるじさま」
 嬉しそうに一期が腰を浮かす、のを薬研がぐいとマントの裾を引いて床に戻す。
「すまんな。起こしちまったか?」
「何の騒ぎだ」
「兄弟がちっとばかし聞き分けが悪くてな。勿論、大将に手間はかけさせん。もう少し時間をくれれば 」
「貴君の望みはなんだ」
 襖の向こうから、男とも女ともつかない声が問う。あの、狐面の、陰陽師の声だ。放たれた言葉は薬研に向けられたものではない。鳴狐はゆっくりと視線を声の先に向けた。廊下の暗がりの中でもはっきりとわかるくらいに、鯰尾の顔は青白かった。
「俺、は、」
「貴君の兄は弟たちを元に戻せと言った。弟は兄と己を見逃せ、と。貴君の望みはなんだ」
「俺は、別に、望みなんて」
「顔が見たい、というのならば見せてやろう。だが、貴君の願いは本当にそれで良いのか?」
 ずり、と鯰尾が後ずさる。ゆるくかぶりを振って、けれども言葉は出てこない。骨喰が気遣わしげに手を伸ばすが、それすらも恐れるように、体を反らして拒絶する。
 スゥ、と襖の滑る音が響いた。
「あ……」
 鯰尾の顔が強ばる。一期一振がにこりと笑う。五振りと一匹の視線の先で、人一人通れるほどに開いた襖の隙間から、けれども覗いた寝室の中は塗り潰されたように真っ暗だ。
「逃げるなよ」
 その声に引き寄せられるように、ふらふらと鯰尾が部屋に足を踏み入れる。藤色の瞳は涙でゆらゆらと揺れていて、すぐにでも踵を返して駆け出しそうな、そんな顔をしながらも、それでも逃げ出すことを諦めたように一歩一歩、闇へと近付いて行く。
 鯰尾が開け放たれた寝室の襖のちょうど真正面に立った時、白い手が闇からぬっと生えるように現れた。小さな白い手は鯰尾の両頬を包み込み、ついで現れたその人は、まるで闇の化身の様に鳴狐には見えた。
 闇そのものをこごめたようなぬばたまの髪。狐火のような橙の眸に、唇はポツンと落ちた血の色だ。
 狐面を外した陰陽師を見て、やっぱり鳴狐は好感を持った。これはきっと人ではない。多分、どちらかといえば、狐に近い。
 だからきっと、好きになれるだろう。
「よおく見ろ。これが貴君が主と仰ぐ者の顔である」
 するり、と頬を撫でながら、白い手が離れて行く。指先が頬を離れた途端、糸の切れた人形のように、ぺたんと鯰尾がその場に座り込んだ。骨喰が慌ててその傍へと駆け寄っても、鯰尾の視線は変わらず上を向いていた。人のなりをした、人には見えぬ新しい主の顔を見ていた。
「俺は、」
 憑かれたように真っ直ぐに白い顔だけを見つめながら、鯰尾が口を開いた。
「こんなにも辛いことばかりを、覚えているのは嫌だ。他にはなにも、覚えていないのに」
「そうか」
 そのいらえに同情や憐れみの色はない。それはただの相づちのように、鳴狐には聞こえた。
 この人間は自分たちのことをどれだけ知っているのだろう。鯰尾が大阪で焼けたことも、鳴狐だけが刀工が異なることも、すべて知っているのだろうか。
 なんでもないことのように、陰陽師が問いかける。
「では、すべて忘れるか」
「それは……」
 それは刀解を意味しているのか、それとも陰陽の業であれば、たとえ付喪神相手であっても記憶だけ消すことが可能なのか。誰もなにもわからないまま、息を殺して二人のやり取りを見守っている。鯰尾はしばらく悩むように視線を右へ左へとさ迷わせると、最後にゆるゆると頭を振った。
「いい。忘れても消えるわけじゃないから。ぜんぶ、俺の過去だから」
 そうして、なにかを決意したように顔を上げて、陰陽師の顔を真正面から見返して言った。
「あんたに望むのはひとつだけだ。……主、俺に未来をください」
「自分は貴君に幸福や身の安全を保証することはない。貴君の弟、薬研藤四郎の誓ったように、貴君等兄弟は既に兄弟殺し以外のいかなる命にも従う必要がある。貴君がそれを拒むと言うなら、契約を違えた貴君を自分は殺さなければならない」
 鯰尾の真剣な瞳に晒されて、それでも陰陽師はにこりともせずに、紅い唇を薄く開いて淡々と言葉を紡いだ。
「従属を誓え。ここで死にたくないのならば」
 それはただの脅しであり、事実の確認だった。けれども鯰尾にとっては、それで充分だったのだろう。くしゃりと顔をゆがめて、はい、誓います、と喘ぐように口にした。途端に苦しげに胸を押さえてうずくまった鯰尾の様子に、隣の骨喰が無表情ながら血相を変える。しかし、それさえもなんでもないといった風に、陰陽師の橙の眸は温度のないまま鯰尾から隣に座る骨喰へと移った。視線のあった骨喰は一瞬わずかに顔を強ばらせたが、すぐに、俺はいい、と首を振った。
「俺は兄弟と一緒にいられるなら、それでいい。あんたを主と認め、式神として従う」
 言葉もなく頷いて、それきり興味をなくしたように、また視線が部屋の中を滑る。一期一振、薬研藤四郎を通りすぎ、視線を少し下げてお供の狐を、少し上げて鳴狐の顔をじっと見た。
「貴君は、」
 鳴狐は陰陽師の言葉が終わるのを待たずに立ち上がった。お供の狐が、心得たとばかりに足元に近寄ってきて、するすると肩へ登り来る。
 視界の端に薄紅色の花弁がよぎったのを見とめて、鳴狐は面頬の内側で少しだけ微笑んだ。
 狭い室内で、なんとか一歩を踏み出して鳴狐は陰陽師との距離を詰める。肩に乗った狐が、緊張でふるりと震えるのを感じる。この本丸でたった一匹、鳴狐を心から案じてくれるのは彼だけだった。鳴狐は今までの労りもこめて、狐の背中をそっと撫でた。
 ぐい、と狐が顔を上げる。鳴狐も同じように顔を上げて、新しく主となる人の顔に視線を合わせる。
「っ……やあやあこれなるは、鎌倉時代の打刀、鳴狐と申します。わたくしはお付の狐でございます!」
 この人が、きっと鳴狐の最後の主だ。
「よろしく」
 震える声で、しかし堂々と口上を言いきった狐をまた撫でて、鳴狐は誇らしい気持ちで四文字を口にした。あなたの刀になれて嬉しい、という気持ちが、主に伝われば良いと思った。
 ヒラヒラと、どこからともなく舞い散る桜吹雪の中、主はなぜか呆然とした様子で鳴狐を見つめ返していた。右手を上げて、落ちてきた花弁を受け止める。それは現実の桜とは異なり、手のひらに触れた途端に雪のようにしゅわりと溶けてしまった。不思議そうに手を握りながらぱちぱちと瞬きをする主を、鳴狐はかわいいと思った。
「これは、なんだ」
「桜です。陰陽師殿」
「なぜ桜が散っている」
「それは」
「それは、鳴狐が主さまとお話しできて嬉しいからですよぅ!」
 こんのすけの説明を遮って、お供の狐が声高に割って入る。主の目がこちらを向くと、慌てて鳴狐の首の後ろに隠れるが、ちらり、とまた顔を覗かせて狐は続けた。
「勿論! わたくしめも主さまとは幾久しく親しくさせていただきたいと思っております。どうぞわたくしめと鳴狐を、よろしくおねがいいたしますぅ……」
 けれど、やはり語尾に向かうにつれ、段々と声が小さくなっていく。消え入らんばかりに最後の一文字を言い終えたあたりには、再び狐は鳴狐の首の後ろに避難していて、いつもはふさふさと揺れている尻尾もくるりと丸まってしまっていた。
「……自分は貴君等と親交を深める為にこの本丸に赴いたのではない」
「それは……存じ上げております。けれど、鳴狐が、そのぅ……主さまに興味を持ったようで」
「興味」
 鸚鵡返しに主が呟く。えぇ、はい、と狐が頷く。
「鳴狐は名に狐と入っていれば縁もゆかりもない相手に共感してしまうのです」
「自分は名乗った覚えはないが」
「恐らく……主さまの被っておられた狐の面が原因かと」
 ちらりと狐に視線を向けられ、うん、と鳴狐は頷いた。でも、お面をつけていない今の顔も好きだ、とは言わなかった。
「……そうか」
 主がそう言うまで、少しだけ間があった。
 鳴狐とのやりとりをハラハラしたように、途中からニヤニヤしながら見守っていた薬研が、そういや、と口を挟む。
「あの面は結局なんなんだ?」
「これか」
 ぴったりとした服のどこから出したのか、いつの間にか主の手に狐面が握られている。くり貫かれた目はひどく細長く、突き出した鼻面に細く描かれた数本の髭はまさしく狐を表したものだろう。
 しかし、主は首を横に振った。
「これは狐ではない。狗だ」
「狗?」
「これより先は人には非ず、ただ政府の走狗たるべし」
 言いながら、主は面を被る。人外の相貌を面の奥へとしまいこむ。
「この面は十三の歳、陰陽の業を習う時に師よりたまわったものだ。これより先の生は、ただ政府の命を執行することにのみ尽力せよ。名も顔も己自身をも捨て、命尽きるまで使命を遂げよと」
 無駄話はこれで終いだ、と言い捨てて、主はひらひらと手を振った。それだけで心得たように式神の女がすっと立ち上がる。ころん、とこんのすけがその膝から落ちて、キャン、と小さく悲鳴が上げた。
「イタタ……陰陽師殿、せめて一言」
「うるさい」
 文句を言おうと口を開いたこんのすけも、ばさりと容赦なく切り捨てられる。うへぇ、と至近距離でそのやりとりを見ていた鯰尾が肩をすくめた。不敬にも見える言動だが、主に咎めるつもりはないらしい。まるきり無視して女の立った後に座ると、くるりと薬研に向き直った。
「貴君の兄弟はこれだけではないはずだが」
「あ……あぁ、さっき大将に刀に戻された六振りが、ほらこれだ」
 座布団の傍らに置いてあった短刀を示すと、無言で右手を差し出される。薬研は少しだけ迷いながら、結局一番近くに置いてあった乱藤四郎を手にとって、ぽん、とその手に載せた。
「何をしている」
「何って、違うのか?」
「すべて渡せ」
「……大将、あんたもうちぃとばかり言葉を足しても損はないと思うぜ」
「そうか」
 まるで意に介した様子もなく、再度手を突き出す主に、薬研が大きくため息をつく。二三本の短刀を手にとって、その手へと載せる。受けとった刀を一々鞘から抜き放って主は床に横一列に並べ出した。
 この本丸では短刀、脇差の錬度が際立って高い。その次に、初期刀の山姥切国広、鳴狐、と続く。それは短刀ばかりを戦に出していた前の主が原因だが、だからといって統率の低い短刀を無理して進軍させるということもなく、軽傷であってもすぐに手入れが行われていた。だから並べられた短刀六振りも、見た目には傷一つない。そもそも前の主が死んだ時点で傷のない物が、いくら新たな審神者を迎えたところで出陣を拒否していたのであれば、傷の増えようがない。
 ちょこちょこと脇からこんのすけがやって来て、鼻先を寄せるようにして一つ一つの短刀を検分する。
「細かな傷はありますが軽傷にもなってませんね、顕現する際の霊力で同時に直るのではないでしょうか」
「そうか」
「それよりも、鳴狐殿が重傷に見えますが」
 全員の視線が鳴狐へと向く。ぴくん、と肩の上で狐が跳ねる。
「そ、そうでございます。鳴狐は前回の出陣より傷を負っておりまして、前の主さまが亡くなってからというもの、一度も手入れを受けておりません。この傷ももう一年以上も負ったままでございます。……主さま、どうか鳴狐の手入れを行っていただけないでしょうか」
 主は良いとも駄目だとも言わず、ちょい、と指で鳴狐を招いた。ついさっき被ったばかりの仮面に手をやって、わずかに口元だけを覗かせる。
 鳴狐は首をかしげながらも、主に従って傍へと顔を寄せようとした、その時だった。
「待て待て待て待て!!!!」
「おおおおお陰陽師殿! お待ちくださいいい!!」
 バッと薬研とこんのすけが両脇から飛び込んできて、主と鳴狐とを引き離す。腰を浮かせた不安定な体勢から、そのままころりと鳴狐は廊下に転げ出した。とっさに肩から床へと待避したお供の狐が、鳴狐! と悲鳴をあげて走り寄ってくる。
「なんと! 大丈夫ですか、鳴狐! 薬研様もこんのすけ様も、酷いではございませんか!」
「……平気」
 ぺろぺろと頬をなめてくる狐の頭を数回撫でてやって、鳴狐は部屋の中を覗きこんだ。
 薬研とこんのすけが主へと詰めよって、なにやらわあわあとわめきたてている。
「大将、あんた何をしようとしてんだ!」
「手入れだが」
「てててて手入れって、つまり、その、手入れでしょうか」
「同じ事を二度も三度も言う必要はないと思うが。大体、先程も一度行っただろう」
「やっぱり! いち兄にしたのと同じ方法でやる気だったんだな?!」
「そうだが、それがどうした」
「お願いですから、それはお止めください! 普通の手入れを致しましょう!」
「自分は審神者になるつもりはないと」
「いや、審神者云々は置いても、普通の手入れの仕方も覚えておいた方がいいんじゃないかね、大将」
「くどい」
 わずかに声に苛立ちを混ざらせて、立ち上がろうと主が床に右手をつく。説得は諦めて、直接鳴狐のところへやって来ようというのだろう。一体、薬研もこんのすけも手入れの何にそんなに反対しているのかわからないが、主から近付いてきてくれるというのは、求められているようで鳴狐は嬉しい。面頬の下の口角がにこり、と上向く。と、視線の先で主の体がぐらりと傾いた。
「あ」
「えっ?!」
「あ〜〜〜〜!!!!」
「あちゃー……」
「……」
 ちゅ、と少し湿り気を帯びたその音は、本当に微かなものだったにも関わらず、妙に大きく響いて聞こえた。
 頭を抱える薬研、ばたばたと尻尾を振るこんのすけ、無言で目を見開く骨喰とぱくぱくと声も出せずに口を開閉する鯰尾。そして憮然とした表情をさらす主の前で、この事態を引き起こした張本人は、
「私はあるじさまのお顔が好きです」
 ぺろり、と唇をなめて見せた。

*

2015/10/29

*

+