地獄の底で会いましょう3

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一さに / ブラック本丸 / ほの暗い / 残酷表現あり

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「それでは自分は寝る」
「寝るって……まだ昼間じゃねえか」
 事も無げに陰陽師――新しい主が放った言葉に、薬研は首を傾げた。本丸に時間という概念はあってないようなものではあるが、一応、人の体に合わせて昼夜の区別はつくようになっている。主が広間へと現れたのはつい先程、昼日中のことだった。それからまだ一刻も経っていない。いくらなんでも眠るのには早すぎる。それに。
「広間の連中はどうするんだ」
 粟田口全員を味方に引き込んだとしても、まだ広間には三十余の刀剣男子が残っている。自分達と同様に無理矢理主従の契約を結ばさせるのかとも思ったが、おそらくそうはならないだろう。今の薬研は完全な服従を誓う式神で、広間で主が口にした“式神としての再教育”を施されるまでもないからだ。
 主が何を考え、何を行う気なのか、一介の付喪神にすぎない薬研には皆目見当がつかない。けれど、きっと粟田口は運がいい――この人間を、敵に回してはならない。
 だからといって、広間の連中に降伏を勧める気も起きなかった。元からそれほど仲良しこ良しという間柄ではなかったし、こうなってしまった以上はこちらがいくら言葉を尽くしたところで、もはや彼らが薬研の言うことに聞く耳を持つとも思えない。薬研とて今さら、大して恩もない連中に対して労力を割く気はさらさらない。どころか、命じられさえすれば全員を切り捨てることも厭いはしない。新しい主と、兄弟と、それ以外ならば誰であろうと刀を向ける覚悟はできている。自分でも驚くほどの変り身だとは思うが、気持ちは不思議と凪いでいた。
 心境の変化は単純に兄弟達の安全が確保されたからか、それともこの身に流れる力の主が変わったせいか。
「血気盛んなことだな」
「生憎、気が長い方じゃないんでね。雅なことはよくわからんが、戦場では頼りにしてくれていいぜ」
「……そうか。承知した」
 狐面の奥で、主がかすかに笑った気配がした。笑い声はなかったが、まとう空気がわずかに和らいでいる。
 完璧に命運を握った相手に対しては、いくらでも寛容になれるということなのか。けれども、主のこの態度を嫌とはーーむしろ心地良いと思っている自分がいるのもまた事実だった。
「だが、まずはこの本丸の穢れを祓う必要がある。鬼魅を饗応するのは夜と相場が決まっている」
 だから寝る、と主は言う。
「自分が起きるまでは好きにしていい。起きたら祭祀の仕度をする。人手が必要だ」
 なんでもないことのように続けられた言葉に、否が応でも期待が高まる。戦場で鍛えた勘は、そう外れてもいないらしい。
「大将、それは」
「起きるまでに刀を揃えておけ」
「……っ、恩に着る……!」
 言葉がどこまでも足りないが、つまりは、そういうことなのだろう。がばり、と薬研は頭を下げた。先程の、兄と自分の命乞いの時とは異なり、もう頭を下げることになんの躊躇もなかった。兄を手入れし、弟達をも許すと言われれば、この人間を主と仰いで、身を尽くすには十分すぎた。
 やはりさほど興味のない様子で、ちらりと薬研を一瞥すると、主は襖を開けて審神者部屋の隣室、審神者の寝所へと消えていった。それを黙って見送って、ついでに後を追おうと立ち上がった兄の服を掴んで引き留めると、薬研は、いち兄、とすぐ上の兄の名を呼んだ。未練がましく閉じた襖をじっと見つめていた兄が、ゆっくりとこちらを向く。恨めしげな眼差しに、思わず苦笑いが漏れた。
「そう睨むなって。いち兄も今は立派な成りの男なんだ。女人の寝所に忍ぶわけにゃ」
「女人!? 陰陽師殿は女性なんですか!?」
 すっとんきょうな声で、続く言葉を遮ったのはこんのすけである。耳と尻尾をぴんと立て、よほど驚いたのか熊取の目を真ん丸に見開いている。
 主の美しさは性別を感じさせないもので、男にも女にも見えるが、襟元から覗いたほっそりとした白い首は紛れもなく彼の人が女であることを示していた。
「なんだ、あんた知らなかったのか」
「陰陽寮から派遣された凄腕の陰陽師ということくらいしか……」
「そりゃ、俺っちと大差ないな」
 驚き半分、呆れ半分である。審神者は刀剣男士の主であるが、政府の役人ではなくあくまで雇われ人にすぎないというのは、薬研も知るところだった。実際に政府の使い走りとして審神者と接し、仲を取り持つのがこんのすけで、審神者とその本丸、本丸に所属する刀剣男士の情報等々はすべてこんのすけが把握をし、適宜政府へと報告するのだ。
 そうだ、最初の主が死んだときも、この狐の姿を見た。
 自らが連れてきた審神者がどくどくと血を流して事切れている様をじっと見下ろして、そうしてあの狐は――。
「お恥ずかしい話ですが、お顔を拝見するのも本日が初めてで……」
 照れたように前足で顔をかくこんのすけに、はっと意識を引き戻される。目の前にいるこんのすけの姿は、記憶の中の狐と寸分違わないが、けれどもあの時の狐とは違ってこちらは随分と感情豊かに見える。
「それでも、こうして刀剣男士を従える事となったからには、陰陽師殿にはきちんと審神者としての常識についてお伝えするつもりです! ご安心ください!」
「審神者としての常識、ねェ……」
 つい、じと目になった薬研にこんのすけも、うっ、と言葉を詰まらせる。
「さ、先程は無理でしたが、ゆくゆくは……」
「ゆくゆくか……マァ、俺っちは大将が陰陽師だろうが、審神者だろうがどっちでもかまわんさ。前の主のような奴でさえなけりゃあな」
「前の審神者殿、というのは」
「最初の主だよ、聞いてないかね。俺っちにとっては、そうだな、特段飛び抜けて悪い主じゃなかった。だが、な」
 ちらり、と兄に視線を向けると、それだけでこんのすけはその続きを察したようだった。座布団の上に座り直し、こちらの話に耳を傾ける姿勢をとる。外套の裾を掴まれたまま、兄はまだぼんやりと襖を見つめている。
「他所のいち兄はどんなもんかな。兄弟刀と言われちゃいるが、持ち主が違えば会うことも早々ない。俺っちが来たときにゃ、いち兄はもうこの状態だったし」
「一期一振殿の方が先に顕現されていたのですか?」
「薬研藤四郎の方が、顕現は先だろうな。けど、俺っちが来たのはいち兄の後だ。二振り目なんだよ」
 この本丸で二振り目の刀剣は薬研藤四郎ただ一振りだけだ。他の刀はみな、最初の主が初めて手に入れた、その刀であって、一度も折れたことはない。
「この本丸では、刀剣破壊の記録はたった一度のみだと」
「その一回が俺なんだろうさ。なにせ前の主は、刀を折るのが恐ろしくてたまらないようだったからな」
 さて、行くか、と薬研は無理矢理話を切り上げると、よっこらせ、と腰を上げた。こんのすけはまだまだ聞き足りないような顔をしていたが、薬研にとっては必要なことは十分知れた。
 主が何者なのか、そしてこの本丸で起こったこと、それをこの狐はほとんど知らない。
「いいね、いいねぇ」
 小さく呟いて、ぺろりと唇をなめる。
 主がこれから何をしようと、少なくとも役人の使い走りに過ぎないこんのすけには彼女を止めることはできない。実際に何をするつもりかは本人に直接聞く他ないが、おそらくは答えてくれるだろう。主にとってもはや薬研は敵ではない。
 そして――きっと彼女はこの本丸で何が起きたかには興味はない。知っていても、知らなくても、ただ己の意思を強制し、邪魔なものは排除する。そうしてこの本丸は潰される。まるで最初からなにもなかったかのように。
 滅びの気配に、戦いの予感に、刀の性が興奮を覚えている。
「いち兄、大将の命令だ。厚達を迎えに行くぜ」
 主を指す言葉に反応して、ぴくりと兄の肩が震える。変わり身の早さをいうなら、薬研よりも兄の方が上だろう。口づけひとつ交わしただけで、この懐きようはどうしたことか。
「まったく、惚れちまったか?」
 からかいまじりの言葉にいらえはない。元よりただの独り言だ。
 手を引いて立たせた兄の手に、床にぞんざいに放ってあった太刀の柄を握らせると、腰から提げた朱鞘へ長い刀身を納めさせる。どうせ戦力としては数えられないが、広間の連中へ一度、きちんと立ち位置を見せつけてやった方がいい。
 すっかり新品のようになった衣装を、もう一度頭から確認し、少しばかり乱れていた前髪を手櫛で直させる。
「あの、厚藤四郎殿達はいかがされたのでしょうか」
「大将が広間に現れた時に、ちぃと逸ってな。刀に戻されてそのままだ」
 おずおずと問いかけてきたこんのすけを適当にはぐらかす。別の狐とはわかっていても、やはり好かないものは好かないのだ。
 からりと襖を開ければ、酷い血臭が鼻をついた。よくもまあ、今までこんな臭いの中、普通に生活ができていたものだ。凝った怨嗟の放つ臭いは腐った肉の臭いに似ている。
 嘲って薬研はまるで地獄の底へ繋がるような、暗い廊下に足を踏み出した。
 サァ、地獄への道行きだ。鬼が出るか、蛇が出るか。

 刀剣男士達と同じく手入れを放棄された本丸は、どこもかしこもがたが来ていて、歩く度に床板がギシギシと音を立てる。兄二人に挟まれてじっと座って床を見つめていた小夜左文字は、広間へと近づく足音に気づいて顔を上げた。
 足音は二つ、軽いものと重いもの。
 俄に殺気立つのは偵察の低い、太刀、大太刀の数人で、傍らの長兄も例に漏れず自分を懐に抱え込むようにして警戒を露にするのに、心配ないと小さく首を振った。とたとたとた、と広間のすぐ前で足音は止まると、ピシャン、と襖が勢いよく開け放たれる。
「よぉ、邪魔するぜ」
 薬研藤四郎と一期一振。先程、広間を出ていった粟田口派の二振りだ。比較的初期に顕現した小夜だったが、この二振りとはあまり会話をした覚えがない。一期一振が来たのは既に主が狂い始めた頃だったし、あの薬研が来たのはそれよりも後のことだ。いつの間にか刀は同じ刀派同士で固まるようになり、他の刀派の者とは会話することもなくなった。誰かがなにかをしたところで、誰も救えなかったのだから、それも仕様のないことだった。
「……君らのそれは、なんだ?」
 一期一振の手を引きながら、さっさと上座へ向かった薬研の背に向かって、鶴丸国永が鋭く問いかける。大概の太刀は現れたのが同じ刀剣男士と知って刀を下ろしているというのに、鶴丸だけは鯉口に指をかけたまま、警戒の姿勢をとかなかった。
「それってぇと、なんだい」
 畳に刺さったままだった短刀を、ぶすり、ぶすり、と抜きながら、面倒臭そうに薬研が答える。傍に落ちていた鞘に刀身を納めては、後ろをついて歩く一期一振に手渡していく。
「こりゃ、驚いた。そんな下手な誤魔化しが通じると思ってるのか? ……君ら、神格を捨てたな」
 鶴丸の言葉に、広間中の視線が一斉に上座の二振りに集中した。小夜も思わずまじまじと二振りを注視する。神格云々というのはよくわからないが、薄暗闇の中目を凝らせば、確かに彼らの様相はここを出ていったときとはまったく異なっていた。汚れたところのない衣装と、目に宿った、好戦的な光。
 次から次へとやって来る審神者をあしらうのにも倦み疲れた他の刀剣にはない、活き活きとした輝き。
「ヘェ、さすがは鶴丸の爺さんだ。そんなにわかりやすかったかね」
「見くびってもらっちゃ困るな。それくらい見ればわかるさ。それで、君らはあの陰陽師に付いたってことでいいんだな?」
 すぅ、と鶴丸の顔から笑みが消えた。
「裏切ったな」
「そもそも、俺っちはあんたらを仲間だと思ったことはないがね」
 六振りの短刀を拾い終わって、薬研がぐいと腰を伸ばす。振り返った顔には不敵な笑みが張り付いている。菫色の瞳が、静かな殺意を宿してギラギラと闇の中で星のように光った。
「さぁ、どうする」
 挑発するように己自身を水平に構えて、薬研が笑う。鞘からゆっくりと引き抜かれた刀身は、ぬるりと濡れたように光って、傷ひとつない。あんなに美しい刀の状態を見るのは久しぶりだ。得体の知れない陰陽師だが、手入れの腕だけは確からしい。
「俺っちは今ここで事を構えるつもりはないが、あんたらがどうしてもってんなら」
「薬研」
 ぽつん、と響いたその声の主が誰なのか、最初、小夜はわからなかった。傍らの兄達も、そして広間にいる刀剣達も、名を呼ばれた薬研までもがぽかんとした顔で粟田口の長兄、一期一振を見上げていた。
 はっきりと咎めるような色を含んで、弟の名前を呼ぶ。ただそれだけのことに、薬研を含む広間中の刀が驚愕に目を剥いている。
「……は、ハハ、慣れんな。まったく」
 こりゃ本当にアイノチカラかもしれんね、とよくわからないことを呟いて、薬研はすまんと兄にその場を譲った。
 一歩前に出た一期は広間をぐるりと見渡して、ある一点に目を止めると再び口を開いた。
「鯰尾、骨喰、それに叔父上も。用が済んだのなら、こちらに来なさい」
「……兄弟」
「に、兄さん……」
 名前を呼ばれた鯰尾、骨喰の兄弟が、戸惑ったように顔を見合わせる。目の前の光景がまるで信じられないとでも言うように。
 同じく名前を呼ばれた鳴狐は、言葉もなくスッと立ち上がると、上座へ向かって静かに歩を進めた。肩に乗るお供の狐だけがおろおろとせわしなく右から左へと動いている。
「叔父貴、すまねぇな。俺っちが勝手に決めちまった」
 傍に来た鳴狐を見上げて、ほんの少し眉を下げて薬研が言う。鳴狐は首を横に振ると、ぽんぽん、と慰めるように薬研の頭を数回撫でた。それを見ていたお供の狐もまた、仕方ないですね、と小さく笑って、くるり、と首もとに大人しく丸まる。
 鳴狐が素直に従ったことで、残った二人に自然注目が集まった。俄に数多の視線に晒されることになった二人は、端から見てもわかるほどに顔色を悪くして、身をこわばらせている。
「で、でも、そんな、急に言われても」
「……あの人間は信用できるのか?」
「さあな」
 骨喰の問いかけに薬研が短く返す。そのいらえに、うつむいていた鯰尾が激昂した。顔をあげて、きっと薬研を睨み付ける。
「さあ、って……!」
「会って数刻やそこらで一体どれだけのことがわかるってんだ?」
「なら、俺は……っ」
「でも粟田口はもう、あの人についていくって決めちまったんだ。あんたらが嫌がろうが、俺っちは無理矢理連れていかなけりゃならん」
 薬研は鯰尾を真っ直ぐに見て、諭すように言った。先に折れたのは骨喰で、溜め息をつきながらも立ち上がると、鯰尾に片手を差し出す。
「……骨喰」
「行こう、兄弟」
 骨喰もけして納得したわけではないだろうが、いついかなる時も変わらぬ無表情は、この場面でも変わることはなかった。鯰尾は骨喰の顔をじっと見て、それから差し出された手のひらを見て、広間をぐるっと見回した。早く来いと言わんばかりの兄弟達と、あちらに行けばその時から敵味方だと厳しい視線を向ける仲間達。
 鯰尾の顔が今にも泣き出しそうに歪む。
「だって……兄さん、あんたが一番、審神者を信じられない筈じゃないですか?」
 あんなことをされたのに、と絞り出すように吐かれた呟きに、広間中が声もなく同意する。
 あんな思いは二度と御免だと、誰もが敢えて口に出さずとも思っていた。打刀達は俯き、太刀は目に怒りを湛え、大太刀や槍や薙刀は苦しげに顔を歪めて鯰尾を見る。鯰尾のすがるような眼差しを受けて、一期一振は不思議そうに首をかしげると――にこやかに吐き捨てた。
「我儘を言ってあるじさまを困らせるのは、感心しませんな」
 鯰尾の顔が絶望に染まる。いくらなんでも、これはあんまりだった。骨喰も上げていた腕を下げて、一期を振り返る。
 場違いなほどに明るい笑顔。その不気味さに背筋がぞっと凍る気がする。傍らの薬研は表情を変えずに影のように兄に寄り添っている。
 弟を目の前で折られた兄と、二振り目の弟。
 誰より審神者に反発してしかるべき筈の二振り。
 これまでの審神者に対しては、いや、先程広間を出ていくまでは、確かに彼らは小夜たちの仲間だった。味方というにはお互いに対する労りも思い遣りもない、ただの憎しみの集まりにすぎなかったけれど。
 壁際から舌打ちが一つ響いて、闇の中から男が一歩を踏み出す。
「……元より、今の貴様等をそのまま送り出すつもりはない」
「裏切り者の末路は死と相場が決まっています」
 へし切り長谷部に続き、小夜のすぐ上の兄、宗三左文字もゆらりと立ち上がって刀を抜いた。
 お世辞にも仲が良いとは言えない癖に、妙に息の合う二振りが、揃って刀を構えた。刀であった頃の、同じ主の元にいた時にとった杵柄か、紫と薄紅が見事な連携で上座めがけて打ちかかる。機動の早い長谷部の刀がまず一撃。自分より背の低い薬研に向かって、へし切りと冠された打刀を振り下ろす。それを薬研は正面から己の短刀で受け止めると、ぐっと膝に力を入れて撥ね飛ばした。たたらを踏む長谷部に追撃しようと前に出た薬研の首めがけ、天下人の刀と謳われた兄の刀が横薙ぎに振りぬかれる。だがそれは素早い後ろ飛びで軽々と避けられる。しかし、元からそれが狙いだったのだろう。後ろへと薬研が飛び退いたその瞬間、ぱっと長谷部が身を翻し一期へと走った。
 一期一振は太刀である。この本丸において、太刀であるということはそれだけで弱さの象徴だった。打刀随一の機動を誇る長谷部から初撃を奪える可能性は、万に一つもない。この広間に入ってきて初めて、薬研の顔が、焦りに歪む。
「いち兄っ!」
「へし切るッ!」
 ガン! と鉄と鉄がぶつかる音が広間に響く。
 一期目掛けて降り下ろされた打刀は、何も切り裂けないままに突然に現れた刃に勢いよく上へと跳ね上げられた。弾かれるとは思っていなかったのだろう、今度こそ耐えきれずに、長谷部がぐらりと姿勢をくずして尻餅をつく。
「……っ……ハッ……!」
 ハッ、ハッ、と息を荒げて。ボタボタと溢れる涙を拭いもせずに、鉄紺の髪の少年が脇差を構えて長谷部の前に立ち塞がった。
 あと少しのところで届いたはずの刃を邪魔された長谷部が、苛立ちも露に吠え立てる。
「貴様っ、なにを」
「だって!」
 顔をぐしゃぐしゃに歪めて、血を吐く代わりに鯰尾は叫んだ。
「この人は! ……俺の、兄さんなんだ」
「ま、そういうこったな」
 いつの間にか宗三を抜いた薬研が隣に並ぶ。ニヤリと笑う顔がふてぶてしい。
「兄を倒すってんなら、まず弟の相手をしてもらわねえとなァ」
 苦虫を噛み潰したような顔の長谷部の前で、挑発するように薬研が刀を閃かすのを見て、小夜は慌てて兄の姿を探した。少し離れた場所に座り込み、悔しげに唇を噛んではいるが、目立った外傷は増えていない。ひとまずはほっと息をつく。兄には悪いが、兄に薬研の相手は務まらない。
 広間を横切って、骨喰が鯰尾の横に立つ。三人の弟に庇われた粟田口の長兄は、やはりニコニコと笑ったままだ。目の前の光景のなにも見えていないような、陰のない笑顔。
 一期一振のことは同情に値する、と小夜も思う。薬研藤四郎が彼を庇って折れた後、一期はおかしくなってしまった。
 ぶすり、と折れた薬研の欠片を自らの頸に突き立てて、笑っていた彼を覚えている。それを呆けたように見ていた主のことも。きもちわるい、と呟いた、その唇の白さまで。
 あぁ、と小夜は小さく息を吐いた。あの時の笑顔とおんなじだ。
 彼はまだ――救われてはいないのだ。
「去ね」
 静まった広間の奥で、小狐丸がボソリと吐き捨てた。
「去ね、次に会ったときは殺す」
 赤目が爛々と火のように輝いて、薄く開いた口から鋭い牙が覗く。噛みつく構えを見せる小狐丸に、おぉ、怖い、と薬研は空うそぶいて、わざとらしく腕をさすって見せる。
「ここは一旦退くか。だがな」
 一期を促し、出口に足を向けながら、振り返ってまた笑う。
「次に会ったとき、折れるのはあんたらかも知れないぜ」
 途端に飛んできた殺気に見送られながら、薬研はそれでもカラカラと笑ったまま広間を出ていった。鳴狐がその後を静かについていき、いまだしゃくりあげる鯰尾の手を引く骨喰が後に続く。
 今度は誰も彼らを引き留めなかった。一番に激昂しそうな和泉守兼定はいい加減に限界が来たのだろう、意識を失っているのか陰陽師が去って以来、広間の隅で蹲って動かないし、堀川国広もまたその傍で膝を抱えて静かなものだった。
 小夜は肩を抱いていた上の兄の手をそっと外して、広間の真ん中に座り込む、もう一人の兄の元へとゆっくりと近寄った。
「……小夜」
「宗三にいさま」
 こちらを見上げる青と緑の色違いの瞳にうなずき返して、紅色の頭を抱き締める。血で固まった髪を梳きながら、こっそりと平安生まれの短刀の姿を探す。
 鞍馬の小天狗は三条の刀達がまとまる一角で、腹ばいになって肘をつき、詰まらなそうな顔で襖を見つめていた。来派の短刀も膝を抱えて目をつむっているばかりで、どちらも積極的にうって出るつもりはないらしい。にっかり青江は誰からも距離をおいた場所で一人、我関せずの表情だ。
 殺気だっているのは打刀以上ばかりで、肝心の短刀、脇差がこれでは、短刀が大多数を占める粟田口に太刀打ちできるわけがない。
 後ろから近づきてきた上の兄が、ぎゅっと宗三左文字ごと小夜を抱き締める。随分と短くなってしまった兄たちの髪に、今度こそ守らなくてはと思う。
 他のどの刀が折れたとしても、兄たちだけは、自分が守って見せるのだ。

 ぐすぐすと鼻を啜るすぐ下の弟の手を引きながら、暗い廊下を前を行く兄弟について歩いていく。広間を出るのは、一体何時ぶりのことだろうか。行き先が闇に飲まれた廊下は、初めて目にした場所のように、どこへ繋がっているのか皆目見当がつかない。今日まで引きこもっていたのは、先導する薬研も同じはずなのに、こちらは迷いのない足取りで一心に先を目指している。
 言葉はなかった。元々広間にいた時でさえ、必要以上の言葉を交わすことはなかったから、余計に何を言えばいいのかわからなくなる。五人分の足音だけが響く廊下の足下の暗がりを、カサカサとなにかが駆けていく。鼠でも、虫でもない。なにかとても悪いもの。骨喰は霊剣でも、ましてや神剣でもないが、それぐらいのことは感じ取れた。自分達はどこへ行くのだろうか。
 先の見えない廊下はまるで、地獄への道行きに見えた。

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2015/09/03

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