夜更けの森 夕暮れ

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鶴さに / ブラック本丸 / 動物虐待描写あり

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 カチッ、カチッ、とマウスのクリック音だけが一人暮らしの部屋に響く。お気に入りのパンダのぬいぐるみは腕の間。お風呂上がりの体が冷えないようにあったかいココアも用意して、準備は万全万端だ。わたしはどきどきと高鳴る胸を押さえながら、今日届いたばかりのメールの文字リンクをクリックした。
 会員制の動物写真投稿用SNS。ネットの動物クラスタの間でまことしやかに噂される秘密の花園。他では見られない激レア物の写真が山のようにアップされているという、まさに夢の場所である。
 なかば都市伝説となっているそのSNSのアカウントを、やっと、やっと、手に入れることができたのだ。
「どんな写真があるんだろう……ううう、たのしみだー!」
 にまにまと笑み崩れる顔を押さえて、IDとパスワードを入力する。
 わたしは幼い頃から動物が好きだった。犬も、猫も、鳥も魚も。象やキリンやライオンも好きだし、ペンギンもクジラも大好きだ。一番好きなのはパンダで、パンダの赤ちゃんなんてこの世で一番かわいい生き物だと思う。レア物って、たぶん、すごく珍しい生き物とか、そういうのだよね。どんな動物の写真かな、と想像をめぐらしているうちに、読み込みが完了してぱっと画面が切り替わる。
「……え?」
 ぱらぱらぱら、と次々表示されるサムネイル画像はどれも暗い。まるで、室内で、隠れて撮ったみたいな写真。よく理解できないまま、とりあえず手近な一枚をぽちりと押す。
「っ!」
 次の瞬間、ブラウザ一杯に表示された画像に思わずマウスを取り落とした。がちゃん、と大きな音をたてて、マウスが床に衝突する。壊れたかもしれないのに、そんなことにも気が回らないほど、わたしは混乱していた。
「は……な、なにこれ?!」
 画面に写っているのは、どう見ても子猫の虐待画像だった。ぼろぼろの毛並みの子猫の足が、ありえない方向に、曲がっている。
 わたしは慌ててマウスを拾い上げ、戻るボタンをクリックした。再び表示されたサムネイルの一覧を、かちっ、かちっ、と手当たり次第に押していく。次から次へと現れる、動物たちの無惨な写真、写真、写真。
 レア物、の意味をわたしはそこでようやく理解した。会員からの紹介でしかアカウントを手に入れられない、閉鎖的なSNS。それは、つまり。
 自分の想像に吐き気がする。思わず手で口を押さえた。何がなんだか、わからない。理解したくない。爆発しそうな思考の中で、ぽん、と軽快な音と共に、新着を示すポップアップがブラウザの右上に現れる。反射的に出てきたそれを何も考えずクリックし――わたしは今度こそ慌ててブラウザを閉じた。
 そのまま本体の電源を落として、ばん、と乱暴にノートパソコンを閉じる。はあはあと、全力疾走の後みたいに呼吸が乱れていた。さっきの、あれは。
「人、間……」
 薄暗い、畳張りの室内に真っ白い男の人が座り込んでいた。お人形さんみたいなとてもうつくしい人。けれどその人の胸からは一本の刀がはえていて、恐ろしいぐらいの血が服を濡らしていた。
 怖くなってぎゅっと目を閉じる。ぬいぐるみを引き寄せて、膝を抱えて丸くなる。そうやっても、脳裏からあの鮮やかさが離れてくれない。
 ……触れれば焼け落ちそうなほど、燃えるように鮮烈な金の目が、憎悪を込めてこちらを睨み付けていた。

 あれから一週間がたった。どうしても思い出してしまいそうでパソコンはまだ触れていないけれど、それでも記憶が少しずつ薄れてきた頃だった。
 ぴんぽーんと間延びした玄関チャイムの音に、もうそろそろ用意を始めないと講義に間に合わないのになあ、と思いながら玄関へと向かった。テレビからは最近のワイドショーを賑わせていた、噂の猟奇殺人犯が捕まったというありふれたニュースが流れていた。
「はーい」
 がちゃり、とドアを開ける。まだ朝の早い時間だから、覗き穴も見なかった。宅配便だろうと思っていた。
「朝早くからすみません、こういう者ですが」
 立っていたのは宅配便のお兄さんじゃなくて、黒いコートを来たおじさんとお兄さんの二人組で、二人は揃って手を前に出して、手帳をこちらに見せていた。黒い革に金の装飾の警察手帳。ドラマでしか見たことのないそれに、へっ、と間抜けな声が漏れた。
「長くなるので、上げていただいていいですか」
「はあ……かまいません、けど」
「お邪魔します」
 彼氏どころか友達もまだ入れたことのない部屋に、初対面の男性二人がずかずかと入ってくる。わたしはまだ状況を理解できていなかったから、お茶、出した方がいいのかな、なんて考えていた。ぼうっと玄関に立ったままのわたしに、若い方の刑事さんが、とりあえず座るようにと言う。おかしいな、ここ、わたしの部屋のはずなんだけど。そう思いながら、大人しく床に座った。刑事さん二人はちゃっかり座布団の上に座っていた。
「昨日、犯人が逮捕された、S県の殺人事件のことはご存知ですか?」
 テレビは既に芸能人の不倫ニュースになっていたけれど、わたしは刑事さんの質問に、はい、と頷いて返した。
「テレビで、見ました。あの、それがわたしとなにか……」
「単刀直入にお聞きします。犯人がね、殺人の動機について、こう供述しているんです。『インターネットで人間の虐待写真を見て、自分でもやってみたくなった』と。思い当たることが、おありですね?」
 インターネット、虐待写真、その単語に、体が勝手に震え出す。顔があげられない。手が、驚くぐらいに震えていた。ぎゅっ、と両手をにぎりしめたけれど、ローテーブルに当たる場所が、カタカタと音をたてていて、もう、隠しようがない。
「わた、わた、し、すみま、せ」
「見せていただけますね?」
 頷くしか、なかった。

 一週間ぶりに引っ張り出してきたノートパソコンをローテーブルの上で起動する。メールソフトを立ち上げると、あの日からチェックしていなかった未読メールが30件も溜まっていた。それらをすべて無視して、ゴミ箱フォルダからアカウント通知メールを開き、文字リンクをクリックする。二度とアクセスしないつもりだったSNSのログインページに、のろのろとIDとパスワードを打ち込んだ。
「……へぇ」
 背後に立つ若い刑事さんの声に、びくん、と体がはねる。すみませんね、と声だけの謝罪があって、それで? と先を促される。
「あの、この、SNSで、た、たまた、ま」
「どの写真か、見せてもらえますか?」
 おじさんの方の刑事さんは、斜め前に座っている。目を細めて、腕を組んで、こちらを見ている。逃げられない。
 いやだいやだと思いながら、画面へと視線を戻す。一週間前と同じ、むごい画像の連続に、見たくない、と思いながら、でも逃げ出すことはできなくて、仕方なく画面を下へスクロールする。わたしがこのSNSで人間の写真を見たのは一度きり。一週間前の新着画像。真っ白な男の人。不意にあの金の瞳が頭をよぎって手が止まる。
「どうしました?」
 刑事さんの声に、なんでもありませんと答えて、慌てて再び手を動かす。こわい、こわい、あの目も、今の状況も。
 殺人事件の動機になった、と言っていた。それで、写真が見たいって。わたし、殺人幇助とか、よくわからないけど、そういう罪になっちゃうのかな。写真を見たとき、なんですぐ、警察に連絡しなかったんだろう。あの人、今、どうしてるのかな。もしかしたら、もしかしたら――死んじゃってたりして。
「っ!」
 大量に並んだサムネイルの中に、あの写真と同じように、人間の写っている一枚があった。あの人じゃないけれど、おそるおそる、クリックする。画面の読み込みが終わって、ブラウザ一杯に原寸大の写真が表示される。わたしはさっと目をそらした。
「……これですか?」
「は、い」
 一秒が一分にも感じられた。おじさんの刑事さんもわたしの後ろへと回り込み、二人して画面を覗き混む。わたしは床を見て、必死にそれ以上画面を見ないようにしていた。
「すみませんが、何が写っているのか教えてもらえますか」
 若い刑事さんの言葉に、息が止まるかと思った。
「なん、で」
「お手数ですが、確認の為ですので」
 すげなく返される言葉に、のろのろと顔をあげる。途端に視界に飛び込んでくる一枚の写真は、やはり、薄暗い畳の部屋で撮られていた。
「畳の、部屋に、男の子が一人座っていて……男の子は俯いていて、顔は見えない、です。それ、で」
「それで?」
「男の子の足が、両方とも、ない」
 当たりだな、とおじさんの刑事さんが呟いた。
「信じられないでしょうが、あなたが男の子がいる、と言ったこの写真、私達にはただの汚れた空き部屋の写真に見えるんですよ」
「……は?」
「才能ありますよ、あなた」
 刑事さんが何を言っているのか、まるでわからなかった。才能? なんの? とまどっているわたしに気づいていないのか、無視しているのか、刑事さんは、後は専門に引き継ぎますので、と言って、おおい、こんのすけ、と何かへ呼びかけるように声を上げた。
「おつかれさまでございます」
 部屋の隅から突然聞こえた子どもの声に、びっくりして振り返る。いつの間にか、ラグの端に、きつねのぬいぐるみがひとつ置かれていた。頭の大きい、隈取りのされた変なぬいぐるみ。ぬいぐるみの口がかぱりと開いた。
「刀剣男士の視認可能により、審神者能力有りと判断いたしました。政府への転送を開始いたします」
 ぐにゃり、と世界が歪んで、わたしは気を失った。

 目が覚めると、白い部屋にいた。窓も扉もない立方体。壁も床も真っ白で、いるだけで息がつまりそう。刑事ドラマの取調室に出てきそうなアルミの机と椅子が一脚ずつあって、わたしは椅子に腰かけていた。
 慌てて立ち上がり、壁にぺたりと手をついた。そのまま、ぺたぺたと部屋の中を一周して、なんの引っかかりもないことを確かめる。閉じ込められていることを認識すると、じわじわと恐怖が這い寄ってきた。膨れ上がった恐怖心が破裂して叫びだす前に、部屋の中央から聞き覚えのある声がした。
「ただいまから、審神者試験を開始いたします」
 机の上、あのきつねのぬいぐるみが座っていた。
「な、なに、さにわ、しけん?」
「あなた様の審神者としての適性を検査いたします。検査に不合格となった場合には、記憶の消去の上、責任をもって元の時代、元の場所へと転送させていただきます」
 滔々ときつねが喋る。何を言っているのかわからない。けれど、元の場所へ戻れる、と聞いて、少しだけ安堵した。
「合格の、場合は?」
「審神者になっていただきます。拒否権はございません」
 感情の見えない黒い瞳がこちらを見つめる。ごくり、と自分の唾をのみ込む音だけが聞こえた。
 こんなにも神に祈ったことは人生で一度もない。きつねが口にする問いに、はいといいえで答えていく。お願いです、神さま、不合格にしてください。机の下で両手をにぎりしめた。
「これが最後の質問です」
「は、はい」
「あなたは、神を信じますか?」
「……は?」
 思わず顔をあげた。その質問になんの意味があるんだろう。宗教の有無とか?
 よくわからないまま、わたしは頷いていた。
「は、い」
「――検査は終了です。あなた様には審神者の適性が認められました。審神者として石見の国と‐551873号本丸への即日着任を要請します」
 しゅん、と音がして、目の前の壁の一部が消える。長方形に切り取られた壁の向こうに、風にそよぐ草原と空が見えた。きつねはぴょんと机を降りると、とことことそちらへ歩いていく。
「審神者様、こちらへ」
 振り返ったきつねに、慌てて首を振った。
「い、いやです。わたし、そんな、帰してください……帰して!」
「拒否権はないと申し上げました。これは任意ではなく強制です。戦争が終わるまで、あなた様には審神者としての義務が課せられます」
「なんで……わたしが!」
 その時、はっと気がついた。これは、あの時、見なかったふりをして逃げた罰なんだ。
 わたしはよろよろと立ち上がった。よろめいてぶつかった椅子が、がたんと音を立てて倒れた。それを直す余裕もなく、きつねの待つ壁の向こうへ歩いていく。風が吹いて、頬が冷たいなと思って、そうしてやっとわたしは自分が泣いているのを知った。
 壁の向こうには春の景色が広がっていた。11月もほとんど終わりに近づいて、大学への道はすっかり落ち葉に埋もれているのに、ここには瑞々しい草花が繁り、どこからか流されてきた桜の花びらが舞い踊る。蝶々がひらりひらりと花から花へ渡り歩く。その向こうに、大きな純和風のお屋敷が見えた。きつねはもうわたしの方を振り返りもせずに、そちらへまっすぐ進んでいく。水堀にかかる石造りの太鼓橋。人が三人並んで通れそうな大掛かりな門を潜ると、高い石垣に囲まれた広場が現れる。先程よりは小造な門を抜け、更に進む。まるで江戸時代のお城みたい。
「申し遅れましたが、わたしのことはこんのすけとお呼びください」
 前を進むきつねが言う。
「こんのすけ、さん」
「さん付けは必要ございません。わたしはただの連絡役ですので。そろそろ玄関です。泣くのはやめていただけますか」
「は……い……」
 それきり、会話が途絶える。わたしは服の袖で顔を拭うと、俯いて後を追った。幸か不幸かわたしはいまだにパジャマ姿で、化粧のひとつもしていなかった。足元はもこもこの室内履きのままだった。
 しばらくすると見えてきたこれまた大きな玄関に、失礼します、と声をかけて上がり込む。左右にずらりと並んだ下駄箱はほとんどが空だった。わたしは少し迷ってから、土で汚れた室内履きを空いている棚に押し込んで、先を行くこんのすけの後を追う。板張りの廊下はどこか古ぼけた色をしていて、歩けばざらりと音がした。靴下の裏が真っ黒になりそうだった。
「新しい審神者が参りました。ご挨拶させていただきます」
 廊下の角を三度曲がった襖の前でこんのすけが声を張り上げる。がさっ、と襖が左右に開いた。人が開けたとは思えない、自動ドアのような開き方だった。薄暗い室内に、人影が、一、二、三……六人見える。
「皆様には大変お待たせいたしました。お手数ですが、慣例に従い、各々名乗りをお願いいたします」
 わたしの部屋が何個も入りそうなほど大きな広間だというのに、六人はそれぞれが部屋の端の方に、全員分かれて立っていた。会話をするにも苦労しそうな距離で、お互いに我関せずといった風だ。そのうちの一人がおもむろに口を開いた。
「主はどうした?」
「本丸運営法第7条違反により処罰されました。特殊事案につき、こちらの本丸および刀剣男士様は新しい審神者にそのまま引き継がれます」
「そうか」
 自分から聞いたくせに、まるで興味がないような簡単ないらえだった。たぶん、私と同じくらいか少し上の歳の男の声。ゆらりと影から現れたのは、全身真っ白の、きれいな若い男だった。線の細い儚げな美しさで――輝く金の目をしていた。
「っ……!」
「よっ。鶴丸国永だ。俺みたいのが突然来て驚いたか?」
 あの写真の男だった。胸を刺されて血を流して、こちらを責め立てる目をしていた、あの男に間違いなかった。
「主が変わるのには慣れているさ。まぁ、よろしく頼む」
 なんで、どうして、ここに。頭のなかを疑問符が埋め尽くす。わたしはなにも答えられなかった。ぶるぶると震えたまま、黙っているわたしを鶴丸国永はつまらなそうに見下ろすと、おうい、と広間の奥に声をかけた。ぞろぞろと、残りの五人が集まってくる。彼らはそれぞれ、三日月宗近、骨喰藤四郎、薬研藤四郎、乱藤四郎、五虎退、と名乗った。わたしはそれになにも返せないまま、かろうじて頷いてみせた。
「今、この本丸にはこれっきりしかいないんだ。前の主が他はみんな、折ってしまってな」
 全員の紹介が終わった後、鶴丸がなんでもないことのように言った。折れるとは、どういう意味だろうか。わからないけれど、とても恐ろしいことを聞いた気がした。
「この審神者は本日付けの着任です。チュートリアルとして、単騎出陣および手入れの実地講習を実施します」
 審神者様、とこんのすけがこちらを見上げたので、意味のわからない呼び名でも、それがわたしのことを呼んでいるのだとわかった。
「こちらの六人の刀剣男士様がたのうちから、初陣の一振りをお選びください」
「……とうけんだん、し? うい、じん?」
「誰でも構いません。お一人お選びください」
 わかりません、選べません、とここまできてもやっぱりなにもかも信じたくなくて、首を横に振る。審神者様、とこんのすけが語気を強めた。恐怖で息をのむわたしを見かねたのか、それとも別の理由があるのか、俺が、と鶴丸が手をあげた。
「俺が行こう。出陣は初めてだ。刃が鈍っていないといいんだが」
「……それでは、鶴丸国永様、よろしくお願いいたします」
 鶴丸とこんのすけは二人だけで、すべてを次々に決めていく。こちらのことはちらとも見ない。刀装は無し、戦場は維新の記憶の函館、種類は昼の野戦で二連戦の後に帰還の予定。わたしは置いてけぼりで、彼らの会話を傍で聞いていた。
 会話が終わり、鶴丸が廊下を歩き出す。こんのすけがその後をついていき、わたしも慌てて追いかける。ここに一人残されるのは不安だった。さっきの名乗りから、残りの五人は一言も口を開いていない。みんなとてつもない美形揃いだが、ぴくりとも動かぬ表情筋は、よくつくられた人形みたいだった。鶴丸だって軽口に近いことを口にしているわりにはその表情は無以外の何物でもないが、それでも何か喋っている分だけ、少しは人間味があった。
 廊下を歩いていくと、元来た玄関に戻った。鶴丸は下駄箱から厚底の下駄を取り出すと、さっと引っ掛けて戸口の方へ歩き出す。追いかけるべきか迷ったが、こんのすけは上がりかまちの上で足を揃えて座っている。
「鶴丸国永様、お頼み申し上げます」
「あぁ。大船に乗ったつもりで任せておけ」
 そこで、ちらりと鶴丸はわたしを見た。何の感情も見えない瞳だった。
「じゃあな」
 そうして白い羽織を翻し、屋敷の外へ一歩足を踏み出す。チャリン、と鎖の擦れる音がして、そこでわたしはやっと彼が一本の豪華な造りの日本刀を手にしていることに気がついて――次の瞬間にはもう、鶴丸国永の姿はどこにもなかった。

 三十分か一時間か。時間の感覚は定かではない。あれからこんのすけと二人、玄関で鶴丸が帰ってくるのを待っている。彼はあんな目立つ刀を持って、一体どこに行ったのか。戦場、とこんのすけが口にしていたけれど、わたしはこの時、本当に鶴丸が戦いに行っているとは露とも思っていなかった。黙りこくって時間が過ぎる。こんのすけはもう、わたしに何も説明してくれる気がないようだった。わたしも何も聞きたくなかったから、おあいこかもしれない。
 何の前置きもなしに、ぐにゃり、と唐突に戸口から見える景色が歪んで、赤黒いなにかが現れた。べぢゃっ、と粘ついた水音を立てて、たたきの上に崩れ落ちる。
「かっ……は……!」
 それは、ばしゃりと血を吐いて……吐いて?
「つるまる、さん!?」
 間違いない。出かけていた鶴丸国永その人だった。頭から血を被ったように、その白い髪も着物も真っ赤に染め上げて、床に手をついて血を吐いている。あの写真なんて目じゃないぐらいの、今にも死んでしまいそうな大怪我だった。
「な、なんで、こんな……」
「鶴丸国永、重傷帰還」
 淡々とした声がした。隣のこんのすけをぎこちない仕草で振り返る。こんのすけの無機質な黒目は、鶴丸ではなくわたしを見つめていた。
「重傷状態における連続出陣は刀剣破壊の可能性があります。破壊した男士は再入手するまで使用できません。また、錬度もリセットされますので、ご注意ください。男士の回復は手入れにて行います。こちらへどうぞ」
 尻尾をふさりと振って、こんのすけが歩き出す。こんのすけについていくべきなのだろうが、この状態の鶴丸を放って行けるわけがない。何かしら、手当てを、違う、こんな大怪我はわたしの手にはとても負えない。
「待って、きゅ、救急車を」
「いらない、さ……」
 ヒューヒューと荒い息を吐きながら、鶴丸が言った。血塗れの体がゆらりと立ち上がる。男の人らしくない、今にもぽきりと折れてしまいそうな細い体だ。とっさに手を伸ばしたが、思いの外強い力で退けられた。触れた指先が赤く染まる。
「手入れすれば……直、る」
 そう言って、下駄を蹴飛ばすように脱ぎ捨てると、鶴丸は玄関を這うように上がって、壁づたいにずるずると歩き出した。ぐらり、ぐらり、と細い体が揺れている。一度拒否されてしまえば、もう手を伸ばすことはできなかった。血を帯のように引きずりながら鶴丸が廊下を進むのを、わたしはびくびくしながら追いかけた。
 広間に行くのとはまた違う廊下を歩く。たどり着いた二つ並んだ部屋の前で、こんのすけが足を揃えて待っていた。他の部屋の仕切りはすべて襖だが、この部屋だけは障子だった。鶴丸は迷わず障子に手をかけると、転がるように部屋へと入っていく。覗けば三畳ほどの狭い和室で、鶴丸は端の方の壁にもたれて、震える手で刀の下げ緒を解いているところだった。
「頼、む……」
 そう言って差し出してきたのは、あの豪華な日本刀だった。白の鞘に金色で鶴の装飾が描かれている。慌てて受け取ったものの、刀なんて初めて触ったわたしは、落とさないうちに急いで畳の上に置いた。
「こ、こんのすけ」
「刀をこちらへ」
 和室の中にひらりと入ってきたこんのすけが、鶴丸がいるのとは反対側の壁を鼻で示す。そこには小さな祭壇のようなものがあって、台に鏡がかけてあった。その前に、空の花瓶と杯、ちょうど刀を置けるような台がある。わたしは床から刀を持ち上げると、刀掛けの上にそっと置いた。
「それで、つるまるさんの手当ては、」
「杯に酒を注いでください」
「こんのすけ!」
 わたしは思わず叫んだ。背後の鶴丸が小さく呻き声を上げ、わたしひっと息を飲んだ。そんなわたしを、こんのすけはじっと見て、
「この方や広間にいた方々はみな刀剣の付喪神、神剣天之尾羽張様の末裔です。祈りを捧げ、刀剣を直せば、幻にすぎない身体の傷も治ります」
 子どもに言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「つくも、神? 幻?」
「あなた様は審神者、この鶴丸国永を始めとした、刀剣六振りの主です。これは戦いです。あなた様の指示で彼らは戦い、傷付くのです」
 さあ、手入れを。そう言ってこんのすけが迫る。
「わかんない……わかんない! 審神者って何なんですか! 刀剣? わたしの指示? わた、わたしはっ」
「主」
 鶴丸が口を開いた。
「君の、自由だ。君がしたくないのなら……手入れは、しなくていい」
 もう鶴丸は体を起こしているのもつらいのか、床に横たわって、わたしを見ていた。彼の金色の瞳に、怯える表情で見返すわたしがはっきりと写っていた。
「鶴丸国永様、これはチュートリアルです。勝手な振る舞いは止めて頂けますか」
「だが、主がしたくないものを、無理にさせる必要はないだろう」
 途切れ途切れに鶴丸が言う。何かを口にする度に、唇から血が溢れる。畳は既に血を吸って、ぶよぶよと膨らんでいる。けれど、恐ろしいことに、顔色こそ悪いが、鶴丸は大量の血を失っているとは思えないほどしっかりとした口調で喋っていた。
「俺はこのままで、いい。主が俺を折りたいのなら、それもまたいいだろう」
 この人は本当に、人間ではないのだと、わたしはこの時、やっと理解した。胸を刺されて生きている人間がいる訳がない。これほどの血を流して生きている人間がいる訳がない。
 人間ではない、刀剣の付喪神。何がなんだかさっぱりわからなくても、確かなことがひとつある――この人はわたしの物で、わたしの為に今、傷付いているのだ。
「ごめ、なさい」
「物は使えば、壊れるものだ。君が謝ることなど、なにもない」
 ぼろり、と涙がこぼれた。

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2017/12/29

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