夜更けの森 夜更け

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鶴さに / ブラック本丸 / 動物虐待描写あり

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 刀工五条国永の太刀としてこの世に生まれてから何度目かの主、人の似姿を得てから二度目の主は、うら若い女だった。前の主が政府に呼ばれて帰ってこなくなってから数日後、こんのすけに連れられてやって来た新しい主は、俺を見て酷く怯えた様子だった。人でないものが恐ろしいのかも知れないな、と三日月が言っていた。物の何が恐ろしいのか、俺にはわからなかった。俺達はあの娘の物である。どう扱おうと主の自由だ。前の主は俺を俺の試し切りに使ったが、ただ、この姿にはそういう使い方もあるのか、と思っただけだった。彼は特に、五虎退や乱のような、線の細い成りの刀剣男士を好んでいた。そういったものだけが、この本丸に残った。
「お帰りなさい、ませ。皆さん、お怪我は、ないですか」
「いいや、無いぜ」
 玄関先で俺達の帰りを待っていた主に、首を振って答える。主の顔は伏せられていて見えない。俺達に頭を下げる必要はないと初めの頃に伝えたが、それでも主は頑なに頭を下げ続ける。それ以上は、主の好きにすれば良いと思って何も言っていない。
「お風呂の用意が、できて、います。あと、お食事の、用意も」
「今日はもう出陣しないのかい?」
「もう、十分、です」
 主が顔をあげて、ぎこちなく笑った。そうして、わたしはこれで、と言ってそそくさと去っていく。誰も声をかけることはなかった。なんと声をかけるべきか、俺達の誰一人として知らなかった。

 主が変わってからというもの、俺達の処遇は大きく変わった。どの持ち主の元に渡ろうとも、刀の身ではそう扱いが大きく変わることはなかったが、しかし墓に共に入れられた時と、墓から掘り出された時ぐらいには変わったように思う。というのも、新しい主は俺達を人に近いものとして扱うことに決めたようだったからだ。風呂を沸かし、毎日三度の食事を用意する。部屋には蒲団が敷かれ、欲しいものは何でも言えと言われた。風呂は手入れの一種だろうと、それほど抵抗もなく受け入れたが、風呂場に佩刀された経験などない。とりあえず体を清めれば良いのだろうと湯槽の中の湯を体に掛けて流していたが、後日、主が石鹸の減りが悪いようだが気に入らなかったのかと言い出して、風呂場では石鹸というものを使うのだと知った。食事は過去の持ち主達も例外無く行っていたので、これまた違和感無く受け入れた。斬った相手の血以外の何かが自分の中へと落ちていく感覚が不思議だったが、主が望むのならば特に拒否する理由もなかった。乱や五虎退は、黄色い四角の食べ物を、フワっとしてほんのりと温かく好ましいと言って喜んだ。薬研は白く薄切りにされた食べ物を、サクサクとして爽やかだと言って好んだし、三日月は湯飲みに注がれた茶色の液体を腹が暖まると言って飲み、骨喰は何も言わなかったが椀に盛られたものは残さず食べた。だが、蒲団は誰も使わなかった。どうやって使うかは知っていたが、皆さんの部屋に敷いておきましたと言われても、皆、自分の部屋というものがどこかわからなかった。前の主は俺達をずっと広間に置いていた。一々探す手間をかけたくないと言って。だから、俺達は広間以外の場所をあまり知らない。欲しいものと言われても、何も思いつきやしなかった。
「今日もまた、二回しか出陣しなかったね」
 最近、風呂場におかれた椅子に座って湯を浴びることを覚えた乱が、ぼそりと言った。顔を見れば頬を膨らませ、人のようにふてくされた表情を浮かべている。その隣で、石鹸を泡立てていた五虎退が、でも、と小さく反論した。
「途中で帰ってきたから……本当は、一回半、ぐらいです……」
 途端、キッと乱に睨まれて、あわわ、と俯く。
「だって! だって、主さんが、傷を負う前に帰ってこいって言うんだもん! 仕方ないでしょ!?」
「おい、乱、五虎退に当たるな。大将がそれで良い、十分だって言ってんだから」
「でも、前の主さんの時は!」
「今の主はあの人だ」
 薬研にまで噛み付こうとする乱にどうなることかと見ていれば、普段ほとんど口を聞かない骨喰が、珍しくはっきりと言った。
「俺達は刀。主のやり方に従うだけだ」
 そのまま、骨喰は頭についた泡を流して風呂を出ていった。俺と三日月は黙って体を洗い続けた。

 次の日も同じように始まった。締め切った薄暗い広間の中に佇んでいると、襖の向こうから細い女の声がする。おはようございます、朝食の用意ができました、とそれだけを言って、主はぱたぱたと駆けていく。一日の中で初めて主の顔を見るのは、食事が終わって出陣の話をしに来る時だ。この時も主は俯いている。ぎゅうぎゅうと両の手を白くなるほど強く握って、言いづらそうに今日の出陣を言いつける。
「申し訳ないのですが、今日も、出陣を、お願いできますか」
「良いぞ、隊長は誰にする」
 三日月が湯飲みで手を暖めたまま言った。
「それでは、あの……つるま、」
「ボクがする」
 主の言葉を遮って、乱ががたんと席を立った。皆の視線が乱に集まる。主も珍しく、顔をあげて乱を見ていた。
「いいでしょ、主さん」
 こくん、と気圧されたように主が頷いて、その日の隊長は乱藤四郎に決まった。
 最初の出陣から、主は決まって隊長として俺を指名していた。もしかしたら、それは単に俺以外の刀の名前を覚えていないからかもしれない、と思ったのは、彼女が俺達を個別に呼ぶことがないからだ。いつだって、六振りまとめて、皆さん、と呼ぶ。誰だけができる仕事というのも特段無いので、今のところそれで問題は起きていない。刀種の違いはあるものの、どの刀も敵を切るには問題の無い切れ味である。
「それでは、皆さん、お気をつけて」
 出陣の見送りについてきた主が、玄関先で平伏する。もちろん、視線は合わない。三日月の戦装束など華美そのものだし、自身の装束についてもそれなりの自信があるが、主はけしてそれらを愛でようとはしない。ふと、主は女人だから、武具刀剣の類いには興味がないのかも知れないと思った。普通は女人は戦場へ出ない。刀剣は縁遠い存在だろう。前の主も戦場にこそ出なかったが、自分で刀を振るいたがった。それはやはり、彼が男だったからだろうか。
「いざ、しゅっつじーん!」
 俺が考え込んでいる間に戦仕度を整えた乱が、はしゃいだ声を上げながら外へとぽんと飛び出した。続けて、五虎退、薬研、骨喰が飛び出す。玄関を一歩出れば、彼らの姿は空に溶けたように消えた。
「鶴丸、行かんのか?」
「あぁ、今行く」
 もう一度、ちらりと主の後頭部を見つめて、俺もまた外へと飛び出した。途端にぐにゃり、と視界が歪んで、再び目を開けばそこはもう戦場だ。血と土埃の臭いが辺りに漂う。俺達が戦うのは、過去の歴史の一時点であり、敵となるのは歴史を変えんとする勢力である。俺達は、この身を形作る玉鋼の記憶を辿り、数百年の時を越える。既に到着していた粟田口の刀達に、三日月が声をかけていた。
「さて、どうする、隊長殿」
「今日はね、敵の本陣にたどり着くまで帰らないよ」
 乱の言葉に、五虎退がええっ、と声を上げた。
「で、でも、あるじさまが」
「主さんの言うように怪我をする前に撤退してたら、いつまで経っても敵を倒すことなんてできないよ!」
 見るからに乱は苛立っていた。俺には何故、乱がそんなにも苛立つのかわからなかったが、主の命に背くのはやめた方が良いのではないかと思った。
「俺は反対だ」
 俺が口を開く前に、骨喰が言った。三日月もうんうんと頷いている。
「怪我をするな、というのが主の命だ。敵を倒せ、じゃない」
「俺っちも反対だな」
 兄弟を敵に回して、乱はうっとたじろいだ。しかしすぐに、でもさあ、と反駁する。
「ボクたち、怪我をしそうだから先に進まなかっただけで、怪我をしたことはないんだよ。もしかしたら、いつもより先に進んでも、怪我をしないかもしれないじゃない」
「成程な。一理あるか」
 ふむ、と納得した三日月に、気をよくしたのか、乱は更に言い募る。
「今度の主さんって、戦場のことは何も口出ししないでしょ? 怪我をする前には帰ってこいって言うけど、ボクたちの好きにして良いって。それって、怪我をするつもりじゃなければ、ボクたちの好きに進軍して良いってことじゃないの?」
 実際に、主は何も言わなかった。出陣しろ、とは言うが、どの時代のどこの戦場に行けとも、敵を何体倒してこいとも、何も言わない。疲れたら帰ってきても良い、とまで言う。おそらく、したくない、と言えば、出陣をすること自体やめてしまえるだろう。これが主の、俺達の仕事である以上、そんなことを言うつもりはないが。
「乱、一つ聞きたい。お前は何故そう功を急ぐ」
 三日月の言葉に、乱ははっきりと答えた。
「ボクが、刀だからだよ」

 結論から言えば、結果は散々だった。敵本陣に至る頃には既に皆、大小の傷を負っていて、重傷者こそ出なかったものの、敵に勝利することは叶わず、ほうほうの体で本丸へと帰って来た。主は血の臭いでわかったのか、出迎えのために伏せていた顔を上げると、さっと血の気を無くして、皆を急いで手入れ部屋へと連れていった。傷の深いものから手入れを始めた為、廊下で順番を待つ間中、主の、ごめんなさい、という謝罪を聞いていた。
 そんなことがあった晩でも、俺達は変わらず広間に立って朝を待っていた。刀に眠りは必要ない。夜明けまでの何時間かは、人の姿を得る前の、ただの刀であった頃に一番近かった。少しも動かず、何も考えず、ただそこにある。前の主の時から、この夜の時間は変わらなかった。
「また、主さん、泣いてる」
 ぽつり、と乱が言った。主の部屋がどこにあるかは知らない。おそらく、広間から何部屋も隔てた、本丸の奥にあるのだろう。人間同士ならば、きっと叫んだとしても聞こえない距離。けれども付喪神の耳は、かすかに漏らされた主の泣きじゃくる声を聞き取った。
「今日は一際酷いな」
「きっと、ボクがへましたからだ」
 薬研の言葉に、乱が俯いた。昼間の傷はすべて跡形もなく消えていた。
「まあ、気にするな。主が泣くのはいつもの事だろう」
「そうだな。ここに来てからというもの、泣かない夜が一日だってあったかい?」
 三日月と俺が口々に慰めの言葉を口にしても、乱は頑なに首を振った。俺には乱が何を考えているかわからない。俺達を傷付けるのも直すのも、すべて主の胸三寸だ。それは主が指示したからで、ただの物である俺達が主を泣き止ませる事などできやしない。
「あ、虎さん」
 さっきからかりかりと部屋の端で爪を研いでいた五虎退の虎が、なんの拍子か薄く開いた狭間から、ころりと廊下に転がりでていた。止める間もなく、五匹の仔虎は暗闇の先へと走っていってしまう。五虎退は自身は廊下に出るつもりはないのか、どうしよう、と呟くばかりだ。
「何、たまには夜の散歩もよかろうよ。気が済めば戻ってこよう」
「あるじさまのお邪魔をしなければ、いいんですけど……」
 そんな事を言っていたが、予想に反して仔虎達は主の部屋を訪れたようだった。しばらくしてから聞こえてきた、襖をすぅっと開く音。主の、涙混じりの声。
「かわいい……ね、よし、よし。いいこ」
 みゃあみゃあと、仔虎達が機嫌良く鳴いている。
「ごめんね、ごめん……。傷つけて、ごめんなさい」
 俺達はただ、彼女の泣いているのを黙って聞いていた。

 翌日の隊長は再び俺に戻った。一昨日までと同じく、怪我を負う前に撤退する。昼を挟んで二度目の出陣から帰ってくれば、変わらず玄関先で出迎える主の姿があった。
「お帰りなさい、ませ。皆さん、お怪我は、ないですか」
「ああ、怪我をする前に帰ってきているからな」
「お風呂の用意が、」
 いつもの台詞を続けようとした主を、あの、と五虎退が遮った。もじもじと薬研の陰に隠れながら、あの、あの、と何度も言いよどむ。
「なんです、か」
「きのうの、よ、夜、なんですけど」
「よ、よる?」
「虎たちが……す、すみません」
 五虎退が二人いるようなぎこちない会話だった。ようやく言いたいことを言いきった五虎退が、がばり、と頭を下げる。足元で虎がみゃんと鳴いた。
「……謝らなくて、いいです。謝る必要なんか、ない」
 主の思いの外強い言葉に、顔をあげた五虎退が、ぱちぱちと目を瞬かせる。この主が怒るとは考えていなかったが、まさか謝られるとは思ってもみなかったらしい。視界の隅で、薬研が顔をしかめるのが見えた。
「わたしの方が、ほんとは、謝らなくちゃ、いけないのに」
 夜でもないのに、主の声が湿り気を帯びた。床につかれた白い手が震えている。細い指先にはところどころ切り傷が見えた。初日には、なかった傷だ。戦場で負った傷ではない、それらは俺達の風呂を沸かし、食事を作り、本丸を掃除して出来た傷だった。
 その傷だらけの白い女の手の上に、ぱっ、と一回り小さい、少年の手が重なった。
「主さん」
 乱が主の手をきゅっと握る。大きさこそ劣るものの、刀の付喪神の手は人間の女の手とは比べ物にならないほど、しなやかに力強い。俯いたままの主の顔を覗き込むように、玄関に乗り上げて、乱は主との距離を詰めた。主が息を飲む音が響く。
「主さんは何も謝らなくて良いんだよ。ボクは主さんの刀。貴女の為にここにあるんだ」
 主は何も言わない。顔もあげない。床だけを見ている。焦れたように、乱が言った。
「謝るくらいなら、触れてよ」
 主の左手を引いて、頬に触れさせる。ぴくり、と主の指先が跳ねた。それを押さえつけるように、乱は握る手に力をこめる。
「貴女は何を望んでいるの。教えてくれなきゃ、ボクにはわかんない。どうすれば、ボクは貴女の役に立てるの」
「乱、そこまでにしとけ」
 なおも詰め寄ろうとする乱を薬研が制する。一歩前に出て、固く握られていた乱の手をほどかせた。ぱたり、と主の左手が床の上に落ちて、すぐに胸元に引き寄せられる。胸の前で手を握り、体を縮めるように丸める様は、外敵を警戒する小動物のようだった。
「大将、急にすまねえな」
 それでも、薬研の言葉に、主はふるふると首を振った。それだけの動作に、何故か俺は詰めていた息を吐いた。
「わ、わたし」
 小さな声で主が言った。
「わたしが、望むのは、あ、あなた達が痛い思いをしないこと、です。それ以外は、何も望まない。むしろ、あなた達の望む通りに、してあげたいの。あなた達がいいなら、それでいいの」
 ぶるぶると震えながらそれだけ言って、主はゆっくりと顔をあげた。涙は流していなかった。何かを決意したように、ひとつ、大きく息を吐くと、ためらいがちに手を伸ばす。その手が橙色の長い髪を掬う。
「あの、みだれ、さん」
「主さん……」
「触れた、よ」
 ふにゃり、と主がぎこちなく笑った。乱はくしゃりと一瞬だけ顔をゆがめると、にっこりと、きれいに笑って見せた。
「嬉しいよ。ありがとう、主さん」
「ぼ、僕も! ……な、撫でて、ください」
 五虎退が、虎を抱えてずいと出る。主はそれに驚いた顔をしながらも、言われた通りに五虎退の頭を撫でてやった。五虎退がふにゃりと笑って、つられたように主も相好を崩した。
「なにそれ、ずっるーい! 主さん、ボクもボクも!」
「じゃあ、大将、ついでに俺っちも頼む」
 言われるがまま、素直に頭を撫でたその日から、乱と五虎退、そうして薬研は戦の時以外は主の後を付いて回るようになった。側にいて、会話をする。触れて、触れられる。時折、笑い声さえ聞こえる。主の笑い声はひどく小さく、小鳥の声のようにかすかだが、けれども確かに笑っていた。夜に彼女が泣くことは少なくなった。
 三日月もまた、食事が終わると急須を持って主の元を訪ねるようになった。腹の暖まる液体を飲ませてやるのだと言っていた。そのうちに、それが茶というものだと知って、茶にもまた色々な種類があるのだと知った。緑茶だとか紅茶だとか様々あるが、俺はほうじ茶が一番好きだな、と知った顔で三日月が言っていた。主はそんな三日月の為に、茶菓子を用意するようになった。
 骨喰は自分から主に寄っていくようなことはしなかったが、馬屋の仕事や畑の仕事を手の空いた時にするようになった。今までは、主の手が回らずに、放置されていた仕事である。最初、主は止めたようだが、骨喰は俺がやりたいんだと言って、止めようとはしなかった。主は骨喰が仕事をしていれば、それを手伝うようになった。
 周りの刀がそんなだから、俺もまた主の側にいるようになった。理由はない。周りがそうしているから、というだけの事だ。ただ、主の側にいれば、佩刀されているような気持ちになった。刀の姿しか持たなかった時には、取り上げられるのを待つだけの存在だった事を思えば、自らの足で主の側に控えられるのは不思議な気持ちがした。
 午後の出陣を終えて、風呂と食事を済ませたら、真っ先に主を探しに行く。乱や五虎退に先を越される時もある。ある日は庭で骨喰と蒲団を干していた。重そうにして蒲団を持ち上げるのを、走っていって手伝ってやる。ありがとうございます、と言われたのに、別にこれくらいなんてことないさ、と言って返した。
「皆さん、蒲団は、使わないんですね」
 蒲団叩きで蒲団を叩きながら主が言う。きっと、敷かれた時のまま、触れた痕跡のない蒲団を主は見つけたのだろう。それをわざわざ回収して、洗って、こうして干している。
 徒労だと思った。けれど、そんな事をする必要はない、と彼女に告げるのはためらわれた。
「……俺達は、広間で寝てるんだ。そっちの方が慣れてるからな」
 結局、出てきたのはそんな言葉だった。虚をつかれたように主が俺を見る。主の黒い、色の濃い瞳と目があった。こうして主と視線が合うことはたまにあるが、いつでもすぐに逸らされる。今もまた、主ははっとしたように目を逸らした。
「じゃあ……、今夜から、広間に、敷きます」
「ああ」
 俺達はその晩から、蒲団で眠ることを覚えた。

 そうやって暮らしていると、まるで人間になったようだった。もちろん、刀である意識はあるが、それにしても前に比べれば随分人間らしくなったものだと、自負する所もあった。ぎこちなかった主との会話も、かなり流暢にこなせるようになっていた。
「君は物を大切にするんだな」
 出陣で久しぶりに怪我を負い、俺は主と手入れ部屋にいた。軽傷にも満たない、かすり傷程度の傷だった。神棚に供えられた榊から、はらり、はらりと葉が落ちて、刀に触れては消えていく。傷が少しずつ癒えていく。おそらく完治するのに一時間とかからないだろう。怪我をするな、というのが主の唯一の言い付けだったが、途中撤退ばかりだった戦場の敵をやっと倒すことができ、俺は少し浮かれていた。
「そうでしょうか」
「そうだぜ、こんな傷、放っておいても支障はない。次に大きな傷をした時にでも、まとめて直せばいいもんだ」
「でも、痛い、ですよね」
「痛いというのは俺には良くわからないが……。そうだな、刀として生まれた時、俺は火で熱せられていた。この傷も、大きさは違えど似たよう感じがする」
「それはやっぱり、痛いということじゃ、ないですか」
 俺に背を向けて、神棚に祈りを捧げていた主の背中が震えた。泣いているのかと思った俺は、主の肩に手を掛けてこちらに体を向けさせた。振り返った主は泣いてはいなかったが、俺の目を見て、やはりすぐに目を伏せた。それに無性に苛立った。腹の底がぐらぐらと、煮え立つように燃えていた。俺はその時初めて、苛立つという感情を知った。感情のまま、主の両腕を掴んで距離を詰める。
「君は、どうして俺を見ない」
「そんな、こと」
「そんなことが、あるだろう。俺が醜いとでもいうのか、君の目に写す価値もないぐらいに」
「ちが、違う、違います」
「なら、どうし」
「怖いの!」
 主が叫んだ。ぼろり、と涙が溢れて、驚いた俺は手を離していた。夜毎泣いているのは知っていたが、直接主の涙を見たのは、最初の手当て以来だった。
「こわっ、こわい……」
「怖いって……何がだ? まさか、俺が怖いのか?」
 主は答えない。ただしゃくりあげるばかりで、口から出るのは意味を持たない泣き声だけだ。主が教えてくれなければ、俺には何が彼女の気に障ったのかわからない。
「なんでだ、俺はただの物だ。君の刀だ。怯える必要がどこにある?」
 詰め寄れば、主はますます激しく泣いた。体を縮めて、身を小さくして、俺から逃げているように身をよじる。
「主、泣いている声がしたが、どうした。……おや、鶴丸もいたのか」
「三日月」
 障子がかたりと開いて、三日月が顔を覗かせた。泣いている主をみとめると、眉毛を跳ね上げ、俺に向かって顔をしかめて見せる。
「鶴丸、何をした」
「俺は何もしていない、……と思うんだが」
「だが、現に主は泣いているではないか。かわいそうに。鶴丸にいじめられたのか?」
 俺にとっては非常に不本意なことを口にしながら、三日月はにこにこして手入れ部屋へと入ってくる。抱きつかれることを期待するように、両手を広げて主に迫る。
「じじいになんでも言うてみろ。悪い鶴には、じじいが仕置きしてやろうな」
「だから、君が思うようなことではない、って」
 三日月の手が触れるか触れないか、という近さに迫った時、主の体がびくりと大きく跳ねた。三日月の顔から笑顔が消える。
「主」
 その顔を能面のように凍らせて、三日月が言った。
「そなたは、まだ俺達が恐ろしいのか」
 泣きじゃくる主の声だけが、答えだった。
「ごめっ、なさ」
 ぼろぼろと涙が次から次へと主の頬を濡らしていく。泣き声に気づいた他の刀達も、部屋の外の廊下に集まっていた。
「俺達は主を傷付けない。そなたの物だ。俺も、鶴丸も、骨喰も薬研も、乱も五虎退も」
 三日月が主に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「そなたは俺達を大事に扱う。今も、鶴丸の手入れをしてやっていたのだろう? そなたは良い持ち主だ。そのような主であればなおのこと、主に尽くすのが刀の本分。主の為なら俺は何でも斬ってみせよう。そなた以外の、何でもな」
「でも、」
 ぐすぐすと鼻を啜りながら、主が小さく言い返す。
「ほんとのことを知ったら、わたしを、許してはくれない」
「本当の事?」
「わたし……わたし、あなたを見捨てました。いちど、見殺しにしたんです」
 主の目が、俺を見ていた。焦点の合わない黒い瞳が、幻を見るように俺へと向けられていた。
「いつあの目でわたしを見るの? ……こわいの、もう耐えられない」
 殺して、と喘ぐように主が言った。主が何を言っているのか、俺にはわからなかった。主が、人の心がわからない。
「君は……俺を、使ってくれるじゃないか。俺は物だ。物が許すも許さないもない。そうだろう」
「だって、目が」
 目が、目がと彼女は言う。俺の目がいけないのか。俺の目が、彼女をこんなにも追い詰めているのか。
「君は、俺の目が恐ろしいのか」
 沈黙は無言の肯定だった。三日月、と俺は傍らの刀に呼び掛ける。
「俺の目を抉ってくれ」
「あいわかった」
 三日月が己自身をするりと抜き放つ。狭い室内で振り回すには太刀の長さは不安だが、三日月の腕ならば過たずやり遂げるだろう。
「後で俺の目も頼むか」
「骨喰にでも頼んでくれ。俺は細かい作業は苦手なんだ」
「俺だって、こんな作業は性に合わん」
 要らぬところが切れても恨むなよ、と三日月が笑って、俺も笑った。主は、と見れば、三日月の抜き身の刀を見て絶句している。そういえば、主は刀が物を斬るところを見たことがあるのだろうか。どうせならば、俺が主の敵を斬るところを見てほしかった、と思った。
「な、なに、して」
「すぐ終わるゆえな、主はゆるりと待っておれ」
「やめ」
「これで、君は怖くなくなるんだろう?」
「やめてよっ!」
 主が叫ぶ。俺より一回りも二回りも小さな体が飛び込んできて、胸元にすがり付いてくる。抱き留めた肩が震えている。
「なんで、こんな、こと。おかしい、変です、わけが、わからない」
 わたしにあなたを傷付けさせないで、と主は泣いた。
「だが、俺には君を殺せない。けれど君が怯えるというのなら、俺は俺の目を捨てられる」
「こんなこと、しなくて、いいの。わたしに、ひどいことを、させないで」
「じゃあ、俺は……どうすればいいんだ」
 答えは、与えられなかった。

 数日後、思い詰めた顔をした主が俺の元へやって来て、罰を、と言った。
「罰を、ください。わたしを許さないで」
 罰とは罪に対して与えられる物だろう。俺は彼女の罪を知らないし、人の罪を物が罰するなど想像したこともなかった。戸惑う俺に対して、三日月は言った。
「それで主の気が済むのなら。鶴丸、罰してやれ」
 乱や薬研は何か言いたげな顔をしていたが、黙って俺の言葉を待っていた。俺には何が罰になるかわからない。けれども、主が俺の目を怖いと言うのなら、それが罰になるだろうと思った。俺は、主に俺を見てほしかった。
 ――主は今日も笑っている。
 乱や五虎退をまとわりつかせて、薬研に手を引かれて、骨喰の仕事を手伝って、三日月と茶を飲んで。そうして、ふとした拍子に、俺の目を覗き込む。その瞬間、主は苦しげに息を吐く。笑いながら、苦しんでいる。苦しさをよすがに、ようやっと息をしている。
 俺が、物が、何かを望んで良いのなら、君の物になりたい。君に、求められたい。俺を手放さないでくれ。それが俺が決めた……君の罰だ。

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