眩しがる瞳 前編

*

兼さに

*

 十九の夏まで、わたしは戦場娼婦として身を立てていた。

 この戦争がいつから続くものかはわからないが、わたしが物心ついた頃にはすでに戦争は始まっていて、わたしと同じように戦場娼婦として日銭を稼いでいた母は、客との性交の末、堕胎に失敗してわたしを産んだ。わたしが六つになるまでは、母はわたしを連れて各地の戦場を転々としていたが、ある日、南方の戦場でわたしを娼館に売り払った。母親ごっこも飽きちゃった、と最後に母は言った。元々、流れの娼婦として身を立てていた人で、子どもを育てるのには向かない人だった。わたしもその頃には母の性格について随分理解していたから、ついていきたいなどといった駄々は捏ねなかった。それ以来、母とは一度も会っていない。
 結果から言えば、娼館に売られたことはわたしにとって幸いだった。主人夫婦は実の母に売られた子どもに同情的で、同僚となる娼婦たちは故郷に残してきた弟妹の代わりにわたしを可愛がってくれた。わたしは十二まで店の下働きとして過ごし、初潮を迎えたのを機に娼婦として店に出ることになった。
 わたしの売られた娼館は、大通りに屋敷を構えるようなそんな高級な店ではなく、館とは名ばかりの急拵えの掘っ立て小屋で、戦況によって各地の戦場を渡り歩く、移動サーカスか動物園かといったような店だった。勿論、表立って営業できるような法的許可なぞ持っている筈がなく、近くで公安の摘発があると聞けば、娼婦から下働きから大慌てで荷物をまとめて、一目散に逃げ出したものだった。大体が、いくら戦争が長引いて孤児や物乞いが増えたとしても、人身売買は依然として犯罪であり、どれだけ親身になろうと六つの子どもを買い取った主人夫婦は紛うことなき犯罪者である。わたしがどこかで警察にでも駆け込んで訴えれば、間違いなく手が後ろに回る人々だったが、主人夫婦はわたしを監視したり、どこかに閉じ込めたりはしなかったし、店の娼婦たちもそうだった。誰もが当たり前にその生活を受け入れていた。わたしもまた、母がそうしていたように、名も知らぬ男に体を開いてその日の糧を稼ぐことを当たり前として受け入れた。そんな生き方しか自分にはできないと思っていた。
 わたしの運命が変わったのは、ハコダテの北方戦線だった。それまでいたキタカミは戦況が激しくなって、いよいよ商売が難しくなったから、比較的落ち着いているハコダテについ四日前に移ってきたのだ。ハコダテでは敵との睨みあいが続いており、兵士たちは皆暇をしていた。だからお客もすぐについた。第二中隊の隊長だという客は、わたしとの睦みあいの只中にも、しきりに昨晩やって来た『サニワ』と『トウケンダンシ』とやらの愚痴を口にしていた。
「得体の知れない連中だよ、まったく。人間じゃないんだと」
「人間じゃないって、それじゃあなんですか。おばけですか」
「そうだよ、おばけだよ。刀のおばけだ。ばけもんだよまったく」
 恐ろしい、気味が悪いと、身体を震わせながらも中隊長はやることをやって、満足したように帰っていった。あんなに最中にお喋りな男も珍しいと思いながら、わたしは中隊長を見送った。にこにこと笑ってやったが、彼はやけに前戯の長い客だったので、少しだけ疲れていた。
 六つで娼館に売られたわたしは勿論、学校なんてところには通ったことがない。だから、自分に学がないことはわかっているつもりだったが、それでもサニワやトウケンダンシなんて、戦場暮らしの長い人生でも今までに一度も聞いたことのない言葉だった。中隊長が言うには、サニワが主でトウケンダンシが従者らしい。トウケンダンシという刀のおばけをサニワが持つ不思議な力で操るんだとか。彼らは普段、ここいらの戦場とは違う、別の場所で戦っているらしいが、視察だか合同演習だかで三四日ほどハコダテに滞在するそうだ。サニワというのは、極めて珍しい存在で、こんな『普通の』戦場に姿を現すのは滅多にないことらしい。
 中隊長を見送ったあと、わたしがぼんやりと窓の外へ顔を出していたのは、珍しいらしいサニワとトウケンダンシを一目見てみたい、とそれくらいの理由だった。それも、大して期待はしていなかった。そんな貴重な存在がわざわざ下級の娼館のあるような駐屯地の外れまでくる筈がないし、第一、見たところで彼らがそうだとわかる確信もない。人間じゃない、刀のおばけだ、と言われても、まさか刀に手足が生えているわけでもないだろう。もっとも、もしもそんな姿なら外を出歩くことすら難しいな、と自分の想像に少し笑って、ふと視線を下ろした時だった。
 ふらふらと、物売りや物乞いたちの間を一人の男が歩いている。目の覚めるような青の、高級そうな衣装を着て、頭につけた金の飾りが陽の光を受けてきらりと光る。こんな場末にはまるで似つかわしくない、育ちの良さそうな男だった。スリや押し売りにでも会うのではないかと思って見ていたが、一向にそんな気配はない。逆にここまで鴨が葱を背負ってきたような男だと、皆、何か裏があるのではと勘繰ってなかなか手を出しづらいのだろう。誰も彼もがあんなに目立つ男をまるでいないもののように扱って、不自然なくらい目を逸らしている。一体何者だろう、とわたしは男をもっとよく見るために窓から身を乗り出した。その拍子に、ぎぃ、とにわか造りの窓枠が鳴って、男が顔を上げてこちらを見た。
 ――深い深い蒼の瞳。夜空のような。
 けして近い距離ではないのに、目があった途端、その美しい瞳がきらきらと光った気がした。そもそも、目があったと思うこと自体、錯覚かもしれない。それくらい男とこの二階の窓の距離は離れていた。けれども男はにっこりと笑って、こちらに向かってひらひらと手を振って見せた。わたしも反射的に振り返す。男はひとつ頷いて、店の方へと進路を変えた。まさか、と思っているうちに、どんどん男の姿が近付いてくる。男が店の入り口に消えたのを認めてようやく、わたしは息を吐いて、それから今の状況を思い出し、青ざめた。
 きっと、あの男は今までで一番上等な客になる。それなのにわたしは先ほどまであの中隊長の相手をしていたわけで、体こそ軽く拭いはしたものの、部屋の中はまだ情事の後が色濃く残っていた。化粧も一旦落としてしまったし、髪もぐちゃぐちゃ。身に纏うのは簡素な室内着だけである。どう見ても、今から上客を迎える娼婦の格好ではない。
 呆然としていると、部屋の外からばたばたと階段を駆け上がる音がして、ノックもなしに薄い扉がばたんと開いた。部屋の掃除や炊事などを任されている、下働きの女だった。
「大変っ! すごい美人が、あんたを買いたいって!」
 女は頬を赤く染め、興奮した様子で言った。室内の様子には気づいていないようだった。
「あんな綺麗な人、あたし初めて見たよ! それに、かなりのお金持ちのようだし!」
「旦那さんは、なんて」
「そりゃあ、諸手をあげて大歓迎に決まってんじゃない。早く部屋へお通ししなさい、って」
 店の主人ならわたしがつい何分か前まで別の客をとっていたことを知っているはずだ。縋る気持ちで口にした言葉の返答は、予想通りひどく浮かれたものだった。
「早くって、無理よ。まだ体も洗ってないし、部屋も片付けるとなれば……急いでも一時間はかかるわ」
「なんですって!?」
 女は泣きそうな声で叫んだ。普通、ここで泣き出すならわたしだろうと思ったけれど、それよりも戸惑いの方が大きかった。
「どうしよう」
「どうしようって、あんた、どうしようもないじゃない! こんな部屋には通せないわよ」
 そういう趣味がある御仁ならいいけれど、普通の客なら怒って帰るわよ、と女が言い、わたしも頷いた。そういう商売の女とわかって抱きに来たとしても、前の男の残滓がそこかしこに散らばっている部屋で事に及びたいと思う男はごく僅かである。一見の客なら尚更だ。
「と、とにかく、あたしは旦那さんに相談してくるわ。あんたは先に体を流して来なさい」
「うん」
 再び、ばたばたと去っていく女の足音を聞きながら、わたしは風呂場に向かう為、着替えをとりに部屋へと引っ込んだ。

 店の裏手で風呂を済まして、自分の部屋へと戻ろうとしていたわたしを引き止めたのは、この娼館の主人だった。人の良さそうな顔をした年の頃五六十の主人は、慌てた様子でわたしの腕をつかむと、一階の奥の、この店一番の売れっ子の姐さんの部屋へと連れていった。くれぐれも粗相のないように、と何度も何度も念を押してから、主人はわたしを部屋の中へと送り出す。恐る恐る扉を開けたわたしを待っていたのは、美しい所作でティーカップをつまむ笑顔の麗人だった。
「おお、やっと来たか。待ちくたびれたぞ」
「遅くなって、すみません」
 カップを置いて立ち上がった男はごく自然な動作でわたしの手をとると、自分の向かいの椅子を勧めた。まるでお姫さまにするような、椅子まで引く気の遣いように、わたしはいっそ恐ろしさを感じて、何度も何度も頭を下げた。それを見て、男がからからと声を上げて笑う。
「よいよい、そう身構えるな。ほら、菓子でも食うか。ひとつどうだ」
「は、はい、いただきます」
 テーブルの上に山と積まれた菓子は、どれも見たことのない高級品ばかりだった。どこで手に入れてきたのかはしらないが、主人か下働きかは随分頑張ったようである。これはますます、わたしがへまをする訳にはいかない。さてどうするかと思っているうちに、男の白い長い指が揚げ菓子をひとつ、つまみ上げる。
「俺もそなたを待つ間にいくつか食べたがな。これはうまいぞ」
 ほら、と自然な動作で差し出されて、わたしは反射的に口を開いた。ぽい、と舌の上に放り込まれた菓子は、確かにほんのりと甘く、美味しかった。
「おいしいです」
「そなたは素直だなあ」
 また、男は笑う。機嫌が良いのは良いことだ。わたしもにっこり笑って返す。
「お待たせした分、サービスしますね」
 ゆるく羽織ったガウンを肩から滑らせる。下は透けそうに薄いワンピース一枚で、これもひとつの商売道具だ。体の線も露な衣装は男の欲を煽るための物で、男も客としてこの店を訪れたからには目的はひとつの筈だった。こんな上客の相手など今まで一度もしたことはないが、会話はともかく、ベッドの上では他の客と具合はそう変わらないだろう。行為が始まってしまえば、こちらのものだと思った。なのに。
「そなた、風呂に入ってきたばかりであろう。しっかり着込まねば湯冷めをするぞ」
 男の手がせっかくずらしたガウンを肩まで引き戻す。
「女人が身体を冷やすものではない。まあ、茶でも飲め」
 呆然とするわたしには一向構わずに、男はテーブルの上からティーポットを取り上げると、自らわたしの為に茶を淹れ始めた。こぽこぽと、場にそぐわない呑気な音が部屋に響く。カップを満たした琥珀色の液体に角砂糖をひとつ落としてスプーンでよくかき混ぜると、男は淹れ終えた紅茶をわたしに手渡した。状況を理解できないままわたしが手を差し出すと、取り落とさないようにか、包み込むように男の手が添えられた。優男然とした優美な外見に似合わない、やけに大きな、しっかりとした手のひらだった。軍人の手のようだと、手の中の紅茶を見下ろしながら思った。いつもわたしが相手をしている男たちと同じ手をしている。その癖、いつもと違って、まだ熱いカップの中身が、じんわりと手のひらに熱を伝えていた。
「俺の知り合いにもっと上手く茶を淹れる者がいるのだがな、今はじじいの茶で我慢してくれ」
「……ありがとうございます」
 礼を言えば、うむ、と男は満足そうに頷いた。改めて見返した男の顔には、欲の欠片も浮かんではいなかった。
「しばらくな、俺の話し相手をしてくれると嬉しいのだ」
「お客様の、ご希望なら」
「そうかそうか。ありがたい」
 にこにこと好好爺のごとく笑う男は、名を三日月宗近というらしい。本名かどうかはわからない。出来すぎた名前だと思ったが、これだけ顔の良い男なら、名前まで美しくても不思議ではないと思った。
 娼婦相手に名乗る客は少なくない。閨で呼ばせる為である。けれどもこうして会話をする為だけに名乗られたのは初めてだった。最初から、まるでわたしのことなど相手にはしていないように、なんの色気もない日々の細々としたことを三日月は楽しそうに話す。やれ、主がどうした、同僚がどうした、戦場がどうこう、この間の買い物で云々。おおよそ、女を買ってまで話す内容ではない。けれど、奇妙だとは思いつつも、客がそれを望むならと本当にただの話し相手として、わたしは三日月の話の聞き役に徹した。主人はがっかりするだろうが、その気のない相手を無理矢理押し倒すわけにもいかない。そもそも考えてみれば、こんな美丈夫がわざわざ金を出して場末の女を抱こうとするのが怪しかったのだ。お大尽の暇潰しに、ちょうど目についた女をからかってやろうとか、それくらいの道楽なのだろう。
「それでな、俺の主はもういい歳なのだが、いまだに恋人の一人も連れてこんのだ」
「それは……心配ですね」
「そうだろう、そうだろう! そなたのような優しいおなごが主の嫁に来てくれれば、俺も安心なのだがなあ……。いっそ、本当に嫁に来る気はないか?」
「その、主さまの好みもあるでしょうから」
「そなたが相手なら、主も文句は言うまい。もし不満など言った日には、俺が叱ってやろう、な?」
 だからと言って、先ほどから繰り返されるこの会話にもいい加減うんざりしてきた。どうだ、と聞かれても、なんとも答えようがない。まさか本気ではないだろうが、返答に困って曖昧に笑い返せば、三日月は、やはり駄目か、と目に見えてしょんぼりと気落ちする。話を聞く限り、三日月はなにやら高貴な人物に仕えているらしい。三日月でさえわたしには違う世界の住人に見えるのだが、その彼を侍らす人間がいるとは、上には上がいるようだ。その三日月の主の妻にと、先ほどからしきりに口説かれている。
「お申し出は嬉しいですが、わたしのような卑しい身分のものが三日月さまの主さまの妻になど、なれるはずがありません」
 困り果てて口にした断り文句に、三日月は目を見開くと、途端に顔をむすりとしかめた。
「そのようなことはない。そんなこと、そなたはまるで気にすることはないのだ」
「ですが、主さまが気になされるかもしれません」
「主は気にせぬと思うぞ」
 堂々巡りだ。どうにもならない。話の通じなさに、わたしも段々と疲れてくる。表面上はおくびにも出さず、愛想笑いを浮かべているが、これならさっさとやることをやって帰ってもらった方がよかったかもしれない。今からでも、もう一度誘いをかけてみるかと思い始めた時、ばたん、と乱暴に扉が開いた。
「三日月! ああ、よかった。探したんだからな!」
 主人夫婦の制止を振り切って部屋の中へと飛び込んできたのは20代も前半くらいの若い男だった。特に目立ったところのない、中肉中背の平凡な男。その男を見て、三日月がぱっと顔を輝かせる。
「主! 遅かったではないか」
「文句言うなら、そもそも一人でふらふら出歩くなよ……」
 席を立って、べたりと抱きついてきた三日月の背を叩きながら、男が疲れたように言った。三日月は男のそんな様子などまるで気にせず、主、主、と自分より頭二つ分低い男にすり寄っている。まさか、この地味な男が三日月の主なのか。わたしは思わず男をまじまじと見つめた。こう言ってはなんだが、見目麗しい三日月の主というには男はあまりにも普通すぎた。高貴さの欠片もない。さすがに不躾だったのか、わたしの遠慮のない視線に気づいた男が、かっと頬を赤らめる。
「おい、三日月! 離れろ!」
「なんだ、冷たいなあ。すきんしっぷは大切だぞ? そんなだから主にはいつまで経っても恋人の一人も出来んのだ」
「余計なお世話だっ!」
 三日月を無理矢理引き剥がし、男はわたしに向き直ると、がばりと頭をひとつ下げた。
「すみません! 三日月がご迷惑をおかけしたみたいで……」
「いえ、」
「そうだぞ、主。俺は迷惑などかけておらぬ。このおなごは俺の話し相手になってくれていただけだ」
「そ、それが迷惑だって言ってるんだよ……!」
 ちらりと壁にかかった時計を見れば、三日月が来店してからゆうに二時間を過ぎていた。おそらく、男は三日月を探してこの二時間、あちらこちらを歩き回っていたのだろう。だというのに、この仕打ち。主従と言ったが、あべこべに三日月に男が振り回されているように見える。三日月の言うことは嘘で、やはり見た目通りに三日月が主で男が従者なのかとも思うが、それはわたしには関係のないことだった。店にしても、別に金さえ払ってもらえればなんの問題もない。男が頭を下げる必要はまったくなかった。
「わたしも、三日月さまのおかげで楽しい時間を過ごせました。お気になさらず」
 少しのリップサービスを加えて口にした言葉に、ほら、と三日月は得意気な顔をして、男を振り返る。
「ほんに優しいおなごだろう。主も、こういうおなごを嫁に貰わねばな」
「な、なっ、嫁っ!?」
 男は垂れ気味の眼を見開いて、わたしと三日月を何度か見比べたかと思うと、ぼっと火がついたように顔を赤く染めた。あわあわ、と意味のないうめきが、男の口から漏れる。
「な、何言ってんだ……み、三日月、おまえ……後で覚悟しとけよ……」
「はぁ、返す返すも惜しいなあ。このおなごに審神者の才がなければ、主の嫁に来てもらうところなのだが」
「おい、人の話を……なんだと?」
 それは見事という他なかった。三日月の言葉を聞いて、男の顔つきが一瞬でがらりと変わる。はっと気づいた時には、男の顔は主と名乗るにふさわしいきりりとしたものになっていて、三日月に翻弄されていたあわれな若者はもうどこにもいなかった。

 信じられない話だが、三日月いわく、わたしにはサニワの才があるらしい。あの中隊長の言っていた、刀のおばけを操る才能だ。選ばれた者のみが持つというその才能をまさか自分が持っていたとは、にわかには信じがたいものの、聞けばあの美しい三日月宗近もまた、刀剣男士という名の刀のおばけなのだという。尋常ではない美しさだとは思っていたが、まさか人でさえないなんて。サニワの才を持つ者は例外なく国家に仕えねばならないらしく、わたしもまた、その日の内に娼婦の仕事からは足を洗わされ、問答無用にサニワ――審神者となることが決まったのだった。
 三日月とその主に連れられてやって来た政府で、わたしは産まれて初めてまっとうな人間であるかのような扱いを受けた。戸籍を持たないわたしの為に新たな戸籍が与えられ、名前や誕生日、出生地も新しく決められた。親の名の欄は空白だった。虫食いだらけのわたしの戸籍は、それでも一人前の人間としてわたしが国から認められた証拠だった。
 そうやってまともな人間として取り繕われたわたしの新たな仕事というのが、刀のおばけの世話をすることである。ハコダテにいた頃と、やることはさして変わらない。戦いから帰って来た男たちをもてなして、また戦いへと送り出す。男がおばけに変わっただけ。増えたのは炊事や洗濯、掃除などの日常的な仕事のみで、あとはおばけたちが勝手にやってくれるらしい。大した仕事ではないなと思った。そんなことを口に出せば、こんのすけという名のお目付け役のきつねに怒られるので言わないけれど。
 三日月の主の好意で、一週間の休みをもらった後、わたしは自分の仕事場となる本丸を訪れた。
「最初は皆さま、緊張されますが、そう気負うことはありません。刀剣男士というのは、どなたも例外なく、人間が好きで、それゆえにこの度の戦争に協力してくださる付喪神ですからね。主さまもお気持ちを楽に持ってくださって結構ですよ」
「はあ」
「本丸には既に六振りの刀剣男士が顕現しております。もちろん、どなたかの引き継ぎではなく、主さまが正真正銘、最初の主となります。本来なら刀を一振り選んでいただき、その刀と共に本丸を一から作り上げていっていただくのがセオリーなのですが、戦況の悪化により、そうも言っていられる状況ではなく……。でも、ご安心ください! わたくしも政府も、主さまが一日も早く立派な審神者になれますように、全面的にサポートしていく所存です! なにか不安があれば、すぐにご相談くださいね」
 尻尾をふりふりしながら、前を行くこんのすけが立て板に水とばかりにしゃべり続ける。黙りこくっていたせいで、不安がっていると思われたようだが、余計な世話だった。不安など、元からない。流されるように生きてきたわたしには、未来を心配するという能力がなかった。不確定の明日を憂いながら、どうやって戦場で暮らしていけるだろう。この先何が起ころうと、ただ、与えられた生き方をありのまま受け取るだけがわたしの人生だった。
「あの先が本丸です」
 こんのすけが鼻先で示した政府施設の長い廊下の先、無機質な金属製の扉が立ち並ぶ突き当たりに、唐突ともいえる不自然さで木製の両引き戸がぽつんと現れる。白木の扉には紅白の注連縄と古びた鉄製の錠が掛けてあって、そこだけがまるでどこかの古い社のような、ここに無い筈の別の建物が嵌めこんであるように見えた。
「錠に触れてください」
 こんのすけに促されるままに、わたしは自分の手のひらほどもある錠前にそっと触れる。鍵もなにも持ってはいない。それなのに赤錆の浮いた錠前は、触れるか触れないかの距離で、カチャリと解錠の音を鳴らすと、ひとりでに外れて空に溶けるように消えていった。続いて、太ももほどの太さの注連縄がするすると生き物のようにほどけていき、扉ががらりと勝手に開く。扉の向こうは白い空間で、何も見えない。
 目を見開いて驚くわたしを他所に、こんのすけは小さな足を動かしてとてとてと扉をくぐる。
「主さまも、お早く」
 促されて一歩足を踏み出せば、一瞬の光の氾濫の後に、目の前には風薫る初夏の森が広がっていた。高いところから降るように響くジージーという大音量。吸い込む空気は草いきれに溢れていて、とても建物のなかとは思えない。慌てて後ろを振り返れば、先ほどまで歩いてきた筈の廊下はどこにもなかった。
「ここが、主さまの本丸ですよ。今は現世と同じで夏の景趣にしていますが、お好みで季節を変えていただくことも可能です」
 足元でこんのすけが言うのに、訳もわからず頷いた。視界の端を黒い影が過って、なにかと上を向けば見たことのない青い十字の物体が、空を横切っていくのが見えた。ちちち、と聞こえてきた音はあれが発しているのだろうか。すぐそばの花に、ひらひらと白い紙の切れ端のようなものが飛んできて止まる。触らずに動く何もかもは見覚えのない物ばかりで、もしかして、これらは本物の生き物なのだろうかとふと思う。ずっと昔、戦争が始まる前には地球にも人間以外の生き物がいたのだが、戦争でみな滅んだのだと、幼い頃に先輩娼婦が教えてくれたのを思い出した。
「主さま?」
「……なんでもないです」
 こてん、と首をかしげるこんのすけに、ゆるく首を振って返す。今見えているものが、本物でも偽物でも、わたしには関係のないことだ。ここがはりぼての楽園だろうと、戦争が終わるまではわたしはここから出られない。それはおそらく、生きているうちと同義である。
「刀剣男士さまは、どこですか」
「はい! こちらへどうぞ!」
 わたしが仕事に前向きな姿を見せれば、こんのすけは俄然張り切って尻尾を立てた。随分わかりやすいサポート役だな、と思いながら、その小さな背を追って歩く。背の高い木の生い茂る森を抜けて、石造りの太鼓橋を渡り、小川にそってしばらく歩いた。浅瀬に敷かれた飛び石を渡ると、ようやく建物らしきものが見えてくる。青い瓦屋根の日本家屋。お金持ちの家だ、と思った。娼婦のまま生きていれば、生涯、縁のなかった暮らし。
「薬研藤四郎さま!」
 屋敷をぐるりと水堀が囲む。その内側に築かれた石垣の、門のところに少年が立っていた。色の白い、線の細い少年だ。三日月と共通する浮世離れした美しさに、彼もまた人ではないことを悟る。
 こんのすけは軽快な足取りで少年の元へと駆け寄ると、ぴょんぴょんとその周りを飛び跳ねる。
「主さま! こちらは薬研藤四郎さま、短刀の刀剣男士さまになります」
 わたしの視線を受けて、少年がにやりと笑う。黙っていれば人形のような顔つきのくせ、浮かべた笑顔はいたずらっ子じみた、随分と親しみやすいものだった。
「よお大将。俺っち、薬研藤四郎だ。兄弟ともども、よろしく頼むぜ……とは言っても、ここにゃ、粟田口はまだ俺だけなんだがな」
 門に寄りかかっていた身を起こして、薬研がわたしに片手を差し出す。わたしも応えて右手を差し出すと、思いの外に強い力でぐっと握り返された。ただ美しいだけの存在ではなく、戦うために呼び出された存在なのだと、その力強さが示していた。
「お出迎えは薬研藤四郎さまだけですか? 他の方はどちらに……」
「旦那方は暇だってんで、今は出陣してるぜ」
「なんですって?!」
 ぴん、とこんのすけの尻尾が立った。
「な、な、何をしているんですか、あの方々は!?」
「俺っちも一応は止めたんだがなあ。刀は戦うのが本分なんだとよ」
「それはそうですが……そういう問題ではございません!」
 これだから打刀は、とよくわからないことをぶつくさ言い始めたこんのすけに、薬研は苦笑いを浮かべている。これが初対面ではないのだろうか、こんのすけと薬研とはかなり親しげな様子だった。わたしはどう口を出したものかわからずに黙って笑顔を浮かべていると、ちらり、と薬研が銀縁の眼鏡の奥から、探るような目を向けてきた。
「それにしても、なあ、女の大将とは」
「不敬ですよ!」
 すかさずこんのすけが噛みついた。感情の見えにくい大きな黒い瞳が今ははっきりと不快を示して、きっと薬研を睨み付ける。
「主さまは既に政府での登録も済んでいる、正式な審神者です。それを女性だからと軽く見るというのは、」
「まあまあ、落ち着けって。なにも不平があるわけじゃない」
 俺っちは短刀だから、と薬研は言った。
「戦場育ちとはいえ、懐刀だ。女子どもの御守りにゃ向いてるだろうよ。だがな、旦那らは」
 ふとそこで薬研は言葉を切って、森の方へと視線を向けた。つられてわたしも顔を動かす。のどかな風景が広がるばかりで、わたしが来た時と何も変わりはないように見える。それでも薬研は、お帰りだぜ、と呟いて目を細めた。
 森の出口に目を凝らす。小さな影が、いくつか、塊で動いている。少しずつ大きくなる影からガチャガチャという鎧の擦れる音が聞こえるようになってやっと、わたしはそれが五人の男たちであることを知った。様々な格好をした男たちは、大体、十代の後半から二十代の始めくらいの歳に見える。それぞれ不思議ないでたちをしていたが、揃いのように、全員が腰に刀を挿していた。彼らはわあわあと何か言い合いをしながらこちらへと向かってくる。先頭にいるのは髪の長い、赤い服を着た男と、顔に傷のあるいかにも武骨そうな男だった。彼らは川の向こうあたりでやっとこちらに視線を向けると、はっとしたように立ちすくんだ。急に止まった前二人に、後ろの三人が文句を言おうと口を開きかけ、やはりわたしを見て動きを止める。予想外に見つめ合う格好になったわたしが気まずさに視線をそらす前に、ひらりとこんのすけが間へと躍り出たかと思うと、男たちへ向かって大声で吠えたてた。
「みなさま! おかえりなさいませ!」
 これほどまでに歓迎の気持ちのこもっていないおかえりも無いだろうと言うような、怒りに満ちた声だった。
「まさか主さまが到着される前に出陣まで済まされるとは! みなさまの忠誠心には心底頭が下がりますねっ!」
 小さなきつねの怒号に、うわ、と男たちが一瞬、気圧されたように後退る。しかしすぐに立ち直って、一番前にいた髪の長い男がずかずかと早足で門のところまで歩いてきた。男の鮮やかな青の瞳が、わたしの上から下までを往復して、じろりと顔をねめつける。
「なんでここに女がいるんだ」
 不機嫌をまるで隠そうともしない。自分の縄張りに見知らぬ女が立ち入ったことに苛立っている、そんな風だった。むっすりとしかめられた顔はそれが色気として感じられるほどに整っていて、成る程、美形はどんな顔をしていても美形なのだな、と感心した。笑ってばかりであった三日月も、おそらく同じ部類の容姿だろう。これほどの美しい男たちに囲まれて日々を暮らすなど、世を知らない若い娘であれば、飛び上がって喜びそうな職場だなと他人事のように思った。
「和泉守兼定さま、お控えください! こちらは本日よりこの本丸に着任する審神者で、あなたの主さまになる方ですよ!」
「……へえ?」
 こんのすけの言葉に、和泉守の眉がぴくりと跳ねる。
「新撰組鬼の副長土方歳三の愛刀、この和泉守兼定の主が女とはねェ」
 吐息のかかる距離まで顔を近づけて、和泉守がせせら笑った。目と鼻の先で瞳が残酷さを宿して歪む。こんのすけが再び怒りも露に吠えるのが聞こえたが、和泉守はぷいと顔を背けると、勝手に門を潜って屋敷の中へ入っていく。その後ろ姿をただ見送るためだけに追っていれば、ぽたぽたと彼の進む道のりに黒い染みが連なっているのに気がついた。腕の辺り、赤い服の袖がわずかに切れて、そこから血が垂れている。当人に拒否されたとはいえ、おばけの世話がわたしの仕事だ。職務を果たそうと駆け寄って、傷に触れようと手を伸ばした。
「触るなっ!」
 途端に振り返った和泉守がわたしを突き飛ばした。彼にしてみれば軽い力だったのだろうが、何の準備もしていなかったわたしは均衡を損ねて地面に転がる。とっさに地面についた手がじくりと痛んだ。見上げれば和泉守は口を開いて、呆然とした表情でこちらを見下ろしていた。傷を負った方とは反対の右手が、さ迷うように宙をかいて、結局差し伸べられることなく、ぐっと握りしめられる。
「アンタが、悪いんだからな」
 視線を反らし、そう吐き捨てると、和泉守はさっさと背を向けて行ってしまった。残りの四人も、ちらちらとこちらを見ながら、彼に続いた。顔をしかめるもの、まるで興味の無さそうなもの、面白そうに袖で顔を隠しながら笑っているもの、そうしてうつむいて頭から被った布に隠れているもの。
「大丈夫か、大将」
 五人が行ってしまった後に、薬研が寄ってきてわたしの背中に手を当てる。きゅっと眉間に皺を寄せながら、小さな手で何度か背中をさするのは、わたしを慰めてくれているつもりらしかった。
「平気です。苛立っている男の方の相手は、慣れているので」
 殴られるのも、蹴られるのも、乱暴に扱われるのも、今更なんということはない。大将、と薬研が呟くのは、あえて聞かないふりをした。

*

2018/02/25

*

+