眩しがる瞳 後編

*

兼さに

*

 薬研の部屋だという北向きの和室に通されて、水に濡らした脱脂綿で掌の傷を拭われる。大した怪我ではなかったが、うっすらと滲んだ血を見とめて、薬研が手当てを申し出てくれたのだ。まだ物の少ない部屋の中で、端に置かれた古めかしい小さな箪笥だけが部屋の個性を主張していた。薬研はいくつもの引き出しの中から迷わずひとつを引き開けると、薄茶の紙包みを取り出した。中に包まれた緑の粉を息を止めてそっとつまみ上げて、傍らの乳鉢にぱらりと落とす。水差しの水で練り上げられた半透明の緑の塗り薬が、乳棒に絡めとられてどろりと垂れる。
「手を出してくれ」
 ほら、と差し出された掌に右手をのせた。乳棒を振って薬を落とすと、少年の細い指がそれを傷口に塗り込めるように動きだす。強い力でぐいぐい揉まれた掌が痛い。見た目にそぐわぬ大雑把さで、もういっちょ、と左手をとられてまた揉まれる。
「和泉守の旦那はまあ……、ありゃあ純情にすぎるが、悪気があった訳じゃない。そこのところはわかってやってくれ」
「はい」
 段々と薬の粘つきが消えていき、えげつない色も薄くなってきたところで、薬研が包帯を取り出した。大袈裟です、と断っても、まあまあ、と軽くいなされる。
「ここではちっとくらい大袈裟な方がいいのさ」
 柔らかい布を当てた上から、包帯をぐるりと巻きつける。端をわずかに切り裂き、きゅっと縛る手つきがあまりに手慣れているので、本当のお医者様のようにも見える。わたしの両方の手を包帯で固め終わると、さて、と薬研は正座を崩した。
「風呂に入ったら塗り直しだ。面倒だろうが、もう一度俺っちの部屋まで来てくれや。濡らしてもいいが、あんまり擦らないようにな」
「いつ、外せますか」
「まあ、すっかり治るのに二三日ってところだろ」
 あからさまに気落ちした表情を浮かべて見せれば、俺も一緒に風呂に入ってやろうか、と悪い顔で薬研が笑う。
「そこまでご迷惑はかけられません」
「そんなこと、気にしなくって良いんだぜ。刀剣男士だなんだといっても、結局は審神者の従者みたいなもんだからな」
「薬研藤四郎さま」
 傍らで丸くなっていたこんのすけが、ぎろりと薬研を睨んだ。放っておくといつまでも和泉守の後をついて文句を言っていそうだったから、無理矢理つれてきていたのだった。
「刀剣男士さま方はこの戦いの勝敗を分ける、最重要戦力です。それを従者等と! もっと自覚を持った発言を、」
「わかったわかった、俺が悪かった」
 ひらひらと両手をあげて薬研が降参の意を示す。こんのすけはそれを見て、わかればいいのです、と鼻息荒く吐き捨てて、またくるりと丸くなった。
「まあ、従者ってのは言い過ぎかもしれんが、あんたの命に従う為に顕現したのは違いないぜ。なんでも困ったことがあったら言ってくれ」
「ありがとうございます」
「なあ」
 余った包帯を片しながら、薬研が言った。何気ない風を装っているが、声の硬さで彼が緊張しているのがわかった。
「大将は、刀剣男士が何で出来てるか知ってるか?」
「いいえ」
「鉄だよ」
 ふとこちらを見た薬研は、もはや笑っていなかった。至極真面目な顔をして、滔々と言葉を紡ぐ。
「炭で火を起こして鉄を溶かす。溶かした鉄を打って棒にする。棒にした鉄を水で冷やして砥石で研ぐ。そうして出来たのが刀剣で、刀剣に人の似姿を与えたのが刀剣男士だ。人に見えるが人じゃあない。その体は肉ではないし、通うのは血でもない。まさしく俺たちは、人を傷つけるための器物だよ」
 刀のおばけ。人ではないもの。わたしを抱いた中隊長は、得体の知れない化け物だと言っていた。政府の人間は彼らを尊い神の末裔だと言う。そして当の本人は、自分たちを指して物だと断じる。
「俺っちは刀だから、斬って流れる血こそがその物の本質だと思う。それならば、自分の本質はやっぱり鉄なんだなと思う。冷たい鉄の塊なんざ、武張った男ならまだしも、女子どもにゃ到底似合わん代物だ」
 立ち上がって反論しようとしたこんのすけを手で制して、これは女の大将だからと侮って言うんじゃない、と薬研は続けた。
「俺っちは戦場育ちでな、女心なんてもんはわからんが、女にとって結婚して子どもを産むことがそりゃ重要なのは理解してる。あんたは嫁入り前の娘だろう。俺たちの所為で傷物になったなんてことになったら、それこそ目も当てられん。治療の建前で散々触った手前、こんなことを言うのも説得力に欠けるが……だからこそ、あんたはむやみに俺たちに触るべきじゃないと思う。和泉守の旦那も、多分、同じ考えだろうぜ」
「言いたいことは、それだけですか」
 薬研の言葉が切れるのを待って、そう言った。自分のことを物だと言ったくせに、お喋りな物もあるものだと思った。それも随分、自分勝手な。
 薬研は虚をつかれたように少し黙って、ああ、うん、と頷いた。
「そうだな……まあ、俺っちの言いたいことはすべて言ったつもりだ。気を悪くしたか?」
「いいえ」
 何も知らないんだな、と思っただけだ。女の一生が、結婚して、子供を産むだけ、なんて。嫁入り前の女に傷をつけてはいけない、なんて。
「それほどに大切に思っていただいてありがたいですが、わたしも戦場育ちです。みなさまにお気遣いいただく必要はありません」
 薬研に向かって微笑んで見せる。お客にするのと同じように、何も考えず、ただ唇を歪めて目を細めるだけの、作り物の笑顔を張り付けた。それだけでほっ、と薬研は安心したように息を吐く。
「あんたが戦場育ちって……まさか、冗談はよしてくれ。第一、そんな細腕じゃ、刀も振れやしないだろ」
「そうですね」
 笑う薬研に適当に頷いて、ありがとうございました、とだけ言い捨てて立ち上がる。難しいことを考えるのは昔から苦手だった。考えたところで意味もない。引き留められたら面倒だなと思ったけれど、薬研は何も言わなかった。後をついてきたこんのすけが、小さな声で、わたしは主さまの味方です、と言ったので、とりあえず、ありがとうございます、と返しておいた。

 改めてみなさまの紹介をいたします、と言うこんのすけに連れられて、わたしは大広間に顔を出した。一個中隊が寝泊まりできそうな広さの和室に、たった六人がめいめい好きなように立ったり座ったりしている。風呂にでも入ってきたのか、薬研以外はラフな格好に着替えていた。入ってすぐのところに薬研がいて、大将は上段の間だな、と一段高く作られた畳の上に案内される。座布団に座って広間を見渡すと、正面に座るピンクの男と目があった。にこり、と笑う男に控えめな笑顔を返す。
「用があるなら早くしてくれ」
 怒ったように急かすのは和泉守だ。右手奥の襖の前で、胡座に頬杖をついてこちらを睨みつけている。
「同感だな」
 畳に寝そべって背を向けていた別の男がごろりとこちらに顔を向けて言った。顔に傷のある、和泉守と並んで帰って来た男だ。
「さっさと次の戦に出してくれ。俺たちは武器なんだからよ」
「まったく! みなさま自由すぎですか!」
 男たちの様子に、こんのすけがぷんぷん怒る。馬耳東風とばかりに聞き流す男たちに大きなため息をひとつ吐いてから、こんのすけはちょこんとわたしの斜め前に座ると、みなさまも既にご存知かとは思いますが、と声を張り上げた。
「こちらの方が、本日付でこの本丸に赴任された審神者になります。つい数日前まで現世で一般の職業に就かれていた方で、軍学校は出ておられません。その為、事前にご説明した通り、出陣先の決定、戦場での采配についてはみなさまに一任することとなります」
 ただし、とそこでこんのすけは語気を強める。
「出陣をするかどうか自体の判断は主さまの管轄です。出陣の前には必ず、必ずですよ! 主さまの許可をいただくようにしてください。勿論、万屋や演練場など、本丸の外の施設への外出も主さまの許可が必要ですからね! わかりましたか!」
 興奮のあまりか、こんのすけの小さな前足がたしたしと畳を叩く。へーへー、と誰かがやる気のない声を出した。わたし自身は別に彼らが勝手に戦に行ってくれてもまるで問題ないのだが、人でないものを人の都合で戦争に駆り出す以上、名目として、人の意思が必要なのだそうだ。それは政府の決め事でわたしがどうこう口を出して、変えられるものではない。
 面倒だが仕方がない、と一同が納得しかけた時、からかいの口調が割って入った。
「そりゃつまり、女を買いに行くのにも、一々、主サマの許可が必要って事か」
「和泉守兼定さま!」
 門の前で見たのと同じ、こちらを試してかかる、残酷な強者の目をして和泉守が笑っていた。すぐに決着のつく勝負をそれではつまらないからと、わざと長引かせてやっている。そんな顔をしていた。
「いい加減になさい! 先程の事といい、主さまになんて口の、」
「わたしがお相手します」
 こんのすけの言葉に被せるように言い放つ。途端に部屋のなかがしんとして、ついでわっと声が上がった。
「あ、あ、主さまっ!?」
「大将! あんた、何考えて」
「わたしでは役不足というなら、時間がかかろうと許可をとっていただく必要がありますが、ただの発散なら、手近で済ませて問題がありますか」
「大有りだろうが!」
 薬研が怒鳴った。片膝立てて、上段の間に手をついて、真面目な顔でわたしを叱りつける。
「あんた、俺っちがさっき話したことを聞いてたか?」
「はい」
「なら、」
「お気遣いいただく必要はありません、と言いました」
 勢い込んで言う薬研に、もう一度同じことを繰り返した。だが、となおも言い募ろうとする薬研の目を見て、はっきりと言葉を重ねる。
「傷ならもう、ついています」
 薬研の唇が音もなく、まさか、と呟いて、ぎゅっと結ばれた。紫の瞳がゆるゆると下を向いて、目蓋の下に隠れていく。
「主さま、それは……」
 悲しげにこんのすけが言うのに大声で笑ってしまいそうになる。何がそんなに悲しいのか。わたしの何をそんなに憐れんでいるのか。
 政府の役人はわたしの生い立ちを聞くと、刀剣男士さまには説明しませんと言った。忘れたいなら忘れてもいい。何もなかったかのように、新たな人生を生きればいい。まるで、それが優しさから出た申し出のように、わたしの今までは否定されるべきものみたいに、そう言ったのだ。
「処女でもないし、お嫁に行く当てもありません。体のお相手ならいくらでもします。それとも、精飲すると死ぬとか、そういうのですか」
 せっ……、と誰かがすっとんきょうな声を出す。広間の何人かが顔を逸らして、薬研が痛ましいものでも見るような顔でわたしを見る。
「そんなことは……ありませんが……」
 誰も答えてくれないので、ちらりとこんのすけを見れば、言いにくそうに言葉を返した。
 ――ねえ、わたしは、そんなに可哀想なんですか。
 口には出さずににっこり笑う。ぐるり、広間を見回して、にこにこしながら言ってやった。
「打っても、蹴っても、構いません。首を絞められたら死ぬかもしれませんが、それも構いません。どうせ、死ぬまでここにいるんです」
 どこに行っても、同じ生き方しかできない。抱かれることしか知らない体だ。今更、なんの才能があるといわれても、はいそうですかと生まれ変われるわけじゃない。難しいことは考えたくない。おばけたちがこんな女を主にするのは嫌だと言うならば、それはそれで別によかった。ただ流されるだけが、わたしの人生だった。
「……ははっ、あなた、面白いことを言いますねぇ」
 誰も彼もが黙りこくる中、弾けるようにピンクの男が笑い出した。さも面白い見世物を見たように、袖で口許を押さえながら、けらけらと笑っている。
「申し遅れました。宗三左文字と言います。主がこうまで言ってくれているんです。乗らないのは逆に失礼でしょうよ。お言葉に甘えて、味見させていただきま」
「っ駄目だ!」
 どん、と和泉守が畳を殴った。勢いよく立ち上がり、威圧するようにこちらを睨む。
「オレが今日の誉だ。相手をするならオレだろうがよ」
 それでいいのかと宗三を見れば、仕方ないですねえ、と彼は呆れた目を和泉守に向ける。誉というのが何だかわからないが、男たちの間で了解があるのなら、わたしは構わなかった。相手が誰でも変わりはない。
「それでは、和泉守さま、よろしくお願いいたします」
「……今夜、部屋に行く」
 畳に手をつき頭を下げると、思いの外静かな和泉守の声が聞こえた。そのまま部屋を出ていこうとする背中に、手入れは受けてください、と声をかければ、一瞬だけ振り向いて去っていく。
「じゃあ、僕も失礼します」
 裾をさばいて宗三が立ち上がる。部屋のすみに踞っていた布の塊も後を追ってそろそろと襖の方に移動するのを、こんのすけがぱっと走っていって端に噛みついた。ひっ、と小さく悲鳴が上がる。じたばたと暴れる布をわたしの前まで無理やり引きずってくると、最後は投げ飛ばすようにして、こんのすけは布から口を離した。
「ぎゃっ!」
 盛大に布が畳の上を転がる。めくれた白い布の隙間から、整った男の顔が現れて、青い目と視線がばちりと合った。
「ひゃぁぁぁ」
 男が再び布を被ろうと手を動かせば、こんのすけがさっと裾を引いて布を取り上げる。男の悲鳴がまた上がった。自己紹介を終えるまで布が返されないとわかるや、男は金髪頭を腕で隠すように覆いながら、ぼそぼそと口を開く。
「や、山姥切国広だ。何だその目は。写しだというのが気になると?」
「気になりませんが」
「えっ、あっ……そ、そうか」
 その後もなにやらむにゃむにゃ言いながら、山姥切は布を目深に被り直して、部屋を出ていった。山姥切が出ていくのを見送って、残りの二人がその場から、同田貫正国と大倶利伽羅だと名乗る。
「馴れ合うつもりはない」
「俺は戦に出してくれりゃそれでいい」
 二人とも、大してこちらに興味はないのか、言うだけ言って立ち去った。広間には、わたしとこんのすけと薬研だけが残った。薬研もまた部屋へ戻るのかと見ていると、くるり、と少年の形の良い頭が振り返って、大将、とわたしを呼ぶ。
「俺は……」
 少しの間、薬研は逡巡したかと思うと、俺は結局刀だから、と観念したように言った。
「あんたの敵を斬るしかできない。斬りたい奴ができたら、いつでも言ってくれ」
「はい」

 初日なので、もう今日はこれ以上、出陣はしなくても良いということになって、わたしはこんのすけに案内されるままに台所に向かった。時間は早いが夕食にしてしまおうということらしい。広間を出て同じような襖がずらずら並んだ廊下を行く。一人では屋敷のなかで迷子になりそうだ。どこもかしこも似たような造りで、覚えようにも覚えられそうにない。見るともなしに襖の形に違いがないか確認しながら歩くわたしの後を、特に声をかけた覚えはないが、薬研がぴたりとついてきていた。
 台所だと示された板戸を、がらり、と引き開けると、中にいた白い塊が飛び上がった。その拍子にどこかを引っかけたのか、足元にあった桶が倒れて、中からごろごろと芋が転がり出る。丁寧に皮を剥かれたじゃがいもがひとつ、ふたつ……やっつばかり。
「山姥切の旦那? 何やってんだ」
 わたしの後ろからひょいと顔を出した薬研が、台所の奥で慌ててじゃがいもを拾い集める山姥切を見て顔をしかめる。山姥切はうつむいたままで、
「写しの俺には……じゃがいもを剥くぐらいがちょうどいい」
 と、よくわからないことを言っていた。難しい人だな、と思った。
「こんなに剥いて! どうする気ですか!」
「まぁまぁ、こんのすけ、そう怒ってやるなって。うーん……らいすかれえでも作るか?」
「それでは、わたしが」
 腕をまくって台所に一歩踏み入れると、ずささっと山姥切が後退った。部屋の角にぴったり張り付いて、あからさまに目を逸らしている。
「お邪魔でしたか」
「……い、いや、ちが」
「山姥切の旦那のことは、放っといてやってくれ」
 布にくるまれた頭が薬研の言葉にこくこくと頷いているので、これはこれで良いのだろう。とりあえず、と包丁を手に取れば、あんた料理は、といつの間にか隣にきていた薬研が聞いた。
「経験はありません」
「……あー、まずは包丁は置いておこうか」
 結局、その日の夕食は、薬研がほとんど作ってくれた。包丁は最後まで触らせてもらえずに、わたしは薬研に言われるまま、皿を出したり鍋を混ぜたりするだけだった。山姥切がくるくると人参の皮を剥いている傍で玉葱の皮を剥いていると、ぴりりと左手の薬指の先に痺れが走り、ついで氷水に浸したようにさっと血の気が引く感触がした。命が流れ出ていく感覚。それで、和泉守が素直に手入れを受けたことがわかった。意外と言うほどでもない。なんとなく、素直な男なんだろうなとは思っている。わたしに優しくする気がないだけで。

 風呂を出て薬研の部屋に寄ってから、自室に戻ってきたところに、ばったりと和泉守と出くわした。襖の前で小袖の袖口に手を突っ込み、床をにらみつけながら行ったり来たりを繰り返している。
「お待たせしてすみません」
 声をかければ、ぱっと弾かれたように顔を上げる。鮮やかな青の瞳が見開かれて、ついでぎゅっと眉間に皺が寄った。不機嫌そのもの、という顔。何がそんなに気に入らないのか、わたしにはわからない。こんな女が自分の主だということか。それとも、そんな女を今から抱くということか。
「次からは、入って待っていてくださっても構いません」
「……次、って」
「勿論、今夜お気に召さないようでしたら、お好きにどうぞ」
 和泉守が唇を噛んで押し黙る。その隙に襖を開けて、部屋の中へ滑り込む。
 本丸御殿と呼ばれる屋敷の北側に位置するわたしの部屋は全部で五室もあって、廊下に面する細長い畳敷の部屋が二つ、そこを通って入る正方形の部屋が二つ、そうして左側の部屋の奥にもう一つ部屋があるという構成だ。こんなには必要ないとこんのすけに言ったところ、追々必要になります、の一点張りだった為、そういうものかと思って受け入れた。つい一週間前までは、急拵えの掘っ立て小屋で、ベッドとトランク、小さなテーブルと椅子を一脚入れればぎゅうぎゅうになっていたような部屋に暮らしていたので、この広さには正直戸惑いしかない。自分の部屋だと言われても、まるで実感が持てなかった。大体、こんなにいくつも部屋があって、何に使うというのだろうか。あいにく、持ってくる荷物もなにも、服はすべてこちらで用意しますと言われれば、わたしの物など何もなかった。
 某の間、某の間、と一々名付けられた部屋の名前は覚えていないが、一番奥の部屋が寝室であるとこんのすけは言っていた。まっすぐに進んでいって床に置いてある灯りをともす。紙でできた四角い照明器具は、かちりと足元のスイッチをひねれば十分な明るさを提供した。既に部屋には布団が敷いてあって、枕元は背の低い屏風で囲ってあった。よくわからないし、これからを思えば邪魔でもあるので、片側を少し外へ開く。
 寝間着として用意されていた浴衣の帯に手をかけて、ちょっと考えて振り返った。いまだに廊下にたたずんでいる和泉守に声をかける。
「脱がせたいですか、それとも先に脱いでおきますか」
「っ、脱がせてやるから、ちょっと待ってろ!」
 薄暗闇の中でもはっきりとわかるほど顔を赤くして、和泉守が怒鳴り声を上げた。ずかずかと部屋に踏み入って、後ろ手で乱暴に襖を閉める。がん、と木と木がぶつかる高い音がした。そのまま部屋を縦断しながら襖を次々閉めていく。最後の襖を閉め終わると、わたしと和泉守だけが寝室の中に取り残された。手を伸ばせば届く位置で、橙がかった照明がお互いの顔をぼんやり照らす。整いすぎた顔立ちが、絵画のようにわたしを見下ろしていた。
 わたしはそうっと腕を上げた。包帯を巻くのは、止めてもらった。どうしても、と言えば薬研は無理にとは言わなかった。代わりにひどく念入りに薬を塗り込まれた。薬研が擦って温かくなった手を、和泉守の胸に触れさせる。ぴくり、とわずかに目の前の体が強張るのをわざと無視して、合わせの隙間から手を差し入れる。滑らかな若い男の肌を、掌全体で確かめるように撫でさする。なめした皮のような、しっとりとした手触りだった。その癖、ほんのり冷たくて、まるでこの世の人ではないようだ。薬研の言っていた、鉄の塊という言葉を思い出した。けれども掌に感じる肌の弾力は、確かに今までに抱かれてきた数多の男たちと同じで、一体彼がなんなのかわからなくなる。
 刀のおばけ。その言葉を頭のなかで繰り返して、裸の胸に頬を寄せた。耳をつければ、どくどくと、心臓が脈打つ音が聞こえる。おばけの癖に生きている、と思いながら、指先で脇腹を撫で上げた。綺麗に浮かび上がった鎖骨を爪先で軽く掻くようになぞって、首の後ろに腕を回す。顔を寄せて、胸を押し付けて、引き結ばれた形のよい唇にやんわりと唇を押し当てる。ついで、ぺろりと表面をなめて、うっとりとした吐息を漏らしてやった。
 和泉守が無表情を貫いていられたのは、そこまでだった。
 奪うような口づけ。のしかかってくる体重に押され、布団の上へともつれ合うように転がった。背中に感じるいかにも高そうな綿の柔らかさを堪能する暇もなく、肉厚の舌が咥内を蹂躙する。がむしゃらに突き入れられるだけの舌を、咎めるように軽く噛んで、自らの舌で導いてやる。舌裏を舐めて、根元をしごく。垂れる涎を啜り上げる。唇を離し、舌先だけを絡めて、相手の咥内に押し入る。荒い息だけが部屋に響いて、上半身隙無く抱き合ったまま裾をはだけて素肌の足を絡め合う。下着越しに、互いの急所を押し付けた。
「いいか」
 何が、とは聞かなかった。何でも良かった。答えの代わりに口づけて、そうしてわたしは和泉守に抱かれた。

 それからも毎晩のように和泉守と夜を共にした。和泉守としか、と言うべきか。同じように六人送り出しても、いつでも誉を取って帰ってくるのは和泉守だった。それだから一人だけ早く強くなって、彼ばかりが誉を取って帰る。そんな仕組みはわかっていたが、戦争である以上、敵が待ってくれる筈もない。主戦力となった和泉守を外して出陣することもできずに、結局は何もできないまま、わたしは彼らを送り出す。けれど、毎日でも出陣するべきところを、まだまだ顕現されている刀剣男士さまの数も少ないので、とこんのすけが言うので四日に一度は休みとなった。普段から戦、戦とうるさい同田貫は意外にも何も言わなかったし、他の刀たちもそうだった。休みの日には誉も何もないので、その日だけはわたしは一人で寝る。
「まーた、見てやがる。しゃーない、大倶利伽羅の旦那、毎度済まねぇが、捕まえてきてくれるか」
 虫除けの薬を指示通りに刷毛で一つ一つ作物の葉に塗りつけていると、隣で同じ作業をしていた薬研がついと麦わら帽のつばを上げて、呆れたような声を出した。指名された大倶利伽羅が、舌打ちをひとつして、それでも素直に畑の外へずんずんと歩いていく。その長身が、農具の収められた納屋の陰に一瞬消えた。
「ってーな! 何すんだよ!」
「うるさい」
 またひとつ、大倶利伽羅が舌打ちをする。引きずられるようにして現れたのは和泉守だった。大倶利伽羅の日に焼けた腕が和泉守の首にぐるりと巻き付いて、畑の中程まで引きずり込む。
「お前はそっちを耕せ」
「命令してんじゃねえよ!」
 腕を離した大倶利伽羅が、地面に落ちていた鍬を和泉守へと手渡しながら、畑の左半分を指差した。少しずつ拡張を始めた畑は、男六人分の食料を賄うにはまだまだ広さが足りていない。空き時間を見ては耕してはいるものの、料理も初めてなら畑仕事も初めてだ。刀のおばけの世話をする、という名目で住み込んでいるものの、実際にはわたしがおばけたちに世話をされているようなものだった。大倶利伽羅が和泉守に押し付けている鍬だって、最初はわたしが手にしたのに、急に現れた山姥切が何も言わずに取り上げてしまったものである。返してくれと口に出す前に、薬研に薬液の入ったバケツと刷毛を手渡され、虫食いを防ぐのに全部の葉に塗る必要があるのだと言われた。見本を見せるから俺っちの手元を見ておいてくれよ、とまで言われれば否とは言えない。その内に、ざくざくとまだ手を入れていない隣の畑から、鍬を振るう音が聞こえ始めて、結局わたしは大人しく薬研の指示に従うことになった。
 和泉守は随分渋ったらしい。何だかんだと言い合った果てに、仕方なく、といった様子を装って、やっと鍬を振るい出す。ここで暮らして数日経つ内に、薬研と山姥切以外の者も、何かと仕事を手伝ってくれるようになった。今ここにいない同田貫と宗三は、厩にいます、と声をかけに来たばかりだった。けれど、和泉守だけが、自分からはけして手を出そうとはしない。いつでもすぐ傍に隠れるように立っていて、他の誰かに無理矢理引きずり込まれるのを待っている。
 和泉守の方を見ないようにしながら一心に薬を塗っている体を保っていると、すすす、と山姥切が近寄ってきた。
「疲れてないか」
「いいえ」
 肩が触れあうほどの距離に、少し身を引きつつ首を振れば、そうか、と山姥切は呟いて、そのまま離れていかずに、薬を塗ったばかりの葉を見ている。
「変な臭いだな」
 確かに、物の腐ったような、甘ったるい刺激臭が特徴的な薬だった。薬の制作者である薬研を見れば、眼鏡のツルをくいと上げて、にやりと口角を引き上げる。
「米ぬかと唐辛子と焼酎と……後はまあ、企業秘密だな」
「ふぅん」
 しゃがみこんで頬杖をついていた山姥切が、興味のなさそうな、気の抜けた返事を返した。それに薬研がむっとした顔を返す、と思えば、不意にわたしを通り越して何かを見る。
「旦那ァ、またむくれてやがる」
 誰のことかは言われずともわかった。背後で大倶利伽羅の怒声が聞こえる。
「和泉守、余所見をするな!」
「してねーよ、ただの休憩だよ! 今からやるっての!」
「なら、なんで主の方を向いていた!」
「向いてないって言ってるだろ!」
 わあわあと言い合いが始まれば、もう今日はこれ以上、向こうの作業は進みそうにない。盛大な溜め息を吐いて、山姥切が予備の刷毛を手に取った。
 和泉守がわたしの行く先々に現れる訳はわかっている。彼は、あの夜まで女を知らなかった。
 女にとって初めての男が特別だと言われるように、男にとっても初めて抱いた女はある種の独占欲が湧くらしい。娼婦をやっていた頃にも、何度かこのまま結婚しないかと誘いを受けた。今更普通の家庭で妻の役目などできる気がしないし、相手の家族にどうこう言われるのも面倒で、相手が誰であろうと断りの文句しか口にしなかった。その客の訪れが途絶えるか、店が別の戦場へと移動するかのどちらかで、どの関係も終わりを迎えた。
 眠りにつくまでの間に、考えることがある。もし、和泉守がわたしを今以上に独占しようと思ったら。他の男には抱かせまいとして、たとえば、結婚などを迫ってきたら。
 和泉守は店に通ってくる客ではないし、わたしはこの本丸から出ていくことができない。彼が本気で望んだとき、わたしは断りきることができるのだろうか。そもそも、刀が結婚という発想を持つかどうかは謎ではあるが。
 あの行為に特別な意味を見出だしたことは一度もない。好きか嫌いかと聞かれれば、どちらでもないと答えるだろう。生きる為に始めたことで、嫌う暇もなかったとも言える。けれど、本能的な触れ合いは純粋に気持ちがいいと言えるものもあったし、数をこなせば、ある程度、こちらの思うように誘導することもできた。乱暴な客はそれほど多くはなかったので、当たれば当たったで店の姐さんたちとの笑い話になった。何より、男に抱かれている間は何も考えずに済んだ。ただ男の様子を見て、馬鹿みたいに喘いでいればよかった。流れ作業でこなしていく、なんでもない行為。わたしはもう、わたしを初めて抱いた男の顔も覚えていない。
 初めてなんてそんなものだ。和泉守はわたし以外の女を抱いたことがないから、うろちょろと後をつけて、子どもじみた独占欲を発揮する。それこそ自分で最初に言っていたように、外に女を買いに行けばいい。わたしは場末の安娼婦だ。外に出ればいくらでも、わたしより良い女は手に入る。彼の執着もすぐになくなる。
 たとえ、彼のわたしを抱く手がまるで恋仲のように優しくても。

「和泉守兼定さま、重傷です!」
 皆を戦場へ送り出し、屋敷の廊下を拭いている時のことだった。数人が一月も暮らしているというのに、この屋敷は不思議と汚れない。いつまでも新品のようで、埃ひとつ落ちている様子がない。だから本当は掃除などする必要はないのだが、一人では食事の用意も畑仕事もするなと薬研に言われているので、これくらいしかやることがない。大して集中するわけでもなく、ただただ時間を潰す為だけに手を動かしていたわたしの元へ、こんのすけが弾丸のように飛んできたのだ。
「重傷?」
「そうです! 帰還命令を出しましたので、すぐに帰って参りますが、程度によっては主さまお手づから手入れを、」
 玄関がやにわに騒がしくなる。こんのすけに急かされ、雑巾を放り出して騒ぎのもとへと駆け出した。何度目かの角を曲がった時、対面からやって来た何かにぶつかって、そのまま後ろに倒れ込む。床に転がる前に、誰かの腕がわたしを抱き止めた。
「おっと、すまねえ」
 身構えるより先にぎゅっとつむった目をおそるおそる開くと、黒っぽい衣装が目に飛び込んでくる。視線をあげれば、斜めに傷の走った顔が見えた。
「同田貫さま」
「大丈夫か?」
「はい」
 そうか、と同田貫が言って、それで終わるかと思えば、急に腰を持たれて視界がぐるんと回転した。床と、同田貫の腰が見える。お腹の辺りに圧迫感。すぐに肩に担ぎ上げられたのだと理解した。
「和泉守が重傷だ。急ぐぞ」
 はい、ともうん、とも言わぬ間に、同田貫が走り出す。縦揺れの視界を、体を丸めて、同田貫の背中にすがりつくようにして、なんとかやり過ごす。後ろから、とたとたとこんのすけが追いかけてくるのが見えた。こんのすけがこんなにも慌てているのは、ここに来てから初めて見た。同田貫も、表情こそいつも通りのものだったが、わざわざわたしを探しに来るぐらいだから、相当焦っているのだろう。政府の役人は、戦については考えなくていいと言っていた。刀剣男士とこんのすけが、すべてうまくやるからと。彼らは、失敗したのだろうか。だから、こんなに焦っているのか。
 こんのすけが足を早めて、同田貫を追い抜いた。進行方向に対して反対を向いているから、どこに辿り着いたかはわからない。あまりに広く、特徴のない屋敷の内部は、一月を過ごしても未だに迷う。
「大将!」
 薬研の声がして、同田貫の肩から下ろされる。ふらついた体は同田貫が腕を回して支えてくれた。顔をあげて、廊下にたたずむ薬研と目を合わす。
「和泉守さまは」
「とりあえず、手入れ部屋に寝かしてる」
 だが、と薬研は言葉を切って、障子戸を見つめた。襖で部屋を仕切ることの多いこの屋敷で、唯一手入れ部屋だけが、建具に障子を使っている。中に人がいるかどうか、外からでも障子越しに確認できるようにだろう。今は二つある手入れ部屋のうち、一つにだけ明かりが点っていた。
「そんなに、ひどいのですか」
「一歩手前ってとこだな。なんとか持ったが、下手に手を出せば折れるかもしれん」
 いっそ折るか、とそのまま続けて薬研が言った。まるで顔色を変えぬまま、整った横顔をわたしに向けていた。長いまつげがふるりと揺れたのが、彼の示した最大の動揺だった。後ろに立っている筈の同田貫は何も言わない。
「折る」
「そうだ。他のやつらには、残念だったが助からなかったと言えばいい。あの怪我なら誰も疑いやしない。俺っちも同田貫の旦那も、漏らすことはしないさ、なあ?」
「……好きにしろよ」
 薬研に促された同田貫がぷいを顔を背けて吐き捨てた。ぶっきらぼうな物言いで告げられた言葉は、その語気の荒さに反して、薬研の言っていることを否定するものではない。
 戸惑って足元を見れば、こんのすけが身を固くして床を見つめていた。何も言わないということは、反対していないことと同じだった。
「わたしは」
 彼を折りたい、と思ったことはない。けれども、無事でいてくれと祈ったことも一度もなかった。ただそこにあるひと。夜になればやって来て、わたしを抱いて眠るひと。それだけのひと。何を望んだこともないのに、二人と一匹が、わたしの言葉を待っていた。
「……折りま、せん」
 どうして、今その決断を彼らは迫るのだろう。その聞き方はまるで、わたしが和泉守を折りたいようだった。そんな素振りを見せた覚えはないし、そんな考えを抱いたこともないはずなのに、勝手に彼らは決めつけて、わたしの為とでもいうように押しつける。なぜと問う代わりに、わたしは障子に手をかける。するりと開いた隙間から体を滑り込ませると、後ろ手で静かに障子を閉めた。誰の顔も見なかったが、誰のものとも知れぬため息の音が耳に残った。
 和泉守は部屋の奥、ぐったりとして布団に横になっていた。肩から下は上掛けに覆われていて傷の具合はよく見えない。しかし、わずかに覗く肩に巻かれた包帯が、彼の怪我が全身に及ぶものだということを示していた。それが銃創なのか、刀創なのか、そんなこともわたしはわからない。彼の赴く戦場が、どんなものかわたしは知らない。
 手を伸ばして、和泉守の美しい顔を撫でる。手入れの為に熱の引いたわたしの指先でも感じられるほどに、彼の頬はひんやりと冷たかった。常から白い顔色が、血の気を失ってより一層白い。紙に描かれた絵のように、彼の美貌が儚く見える。ちらりと見やった部屋の隅、祭壇に飾られた榊がはらはらと刀の上へ葉を落とし続けていた。葉が触れる度、刀にぽっと光が宿る。
 幾歳月を経た刀を人の似姿に変えるのは、人の想いと命なのだという。刀を思う人の心と、審神者と呼ばれる者の命を分け与えて、刀は人の姿を得る。神が己の似姿として人を作ったように、わたしたちはわたしたちの似姿を刀に与えたのだ。見つめる先で、はらり、はらりと、わたしの命が刀へと降っては溶けていく。まるで、神の奇跡のように。
「主」
 障子の外から声がした。そちらを見れば、薬研よりも随分背の高い影が映っている。同田貫ではない。すんなりとした立ち姿はおそらく宗三だと思う。声だけで判別がつくほどにわたしは彼らと親しくはない。
「なんでしょう」
「午後の出陣はどうします? 僕らだけで行ってもいいですか?」
 どうでもよかった。普段六人で行っているものを、一人欠けても問題ないのかはわたしにはわからない。もしかしたら、誰かがまた怪我をするのかもしれない。今度こそ折れるかもしれない。しかし、それも仕方ない。それが彼らの生き方だから。
「……どうぞ」
 わたしは短く答えて、眠っている和泉守の上に顔を伏せた。唇に耳を寄せて、漏れ出る息の音を聞く。注意して耳を澄まさなければ、聞き逃してしまうほどのか細い呼吸音。今にも途切れそうなそれは、それでもまだ続いている。
 もし彼を喪うことになっても、わたしは涙することはないだろう。けれど、今、わたしが彼を失うことはできなかった。

 手入れ部屋は玄関を入って右側すぐの廊下に面しており、誰かが屋敷へと帰ってくればすぐにわかる。和泉守の寝息を聞いて過ごしたのがどれくらいの時間なのかわからないが、いつの間にか出陣した部隊が帰ってくるほどの時間が経っていたようだった。誰かが呼びにくる前に、のろのろと部屋を後にする。和泉守の顔色は随分と良くなっていた。
「主」
 障子をきちんと閉めて振り返ると、廊下の先に宗三が立っていた。戦装束の着物の上に赤を散らして、にんまりと笑っている。いつでも物憂げな仕草で、笑うときは必ず袖で口許を隠しているというのに、今は色の薄い唇が弓形を描くのを堂々と晒していた。挑むような目をした宗三がすっすっと足を動かして、わたしのすぐ目の前まで迫る。青と緑の色違いの瞳がわたしを見下ろして、ねぇ、と彼は媚びるような甘ったるい声を出した。
「今回の誉は僕ですよ、主」
「おめでとうございます」
「今夜、いいですよね?」
 ぺろり、と赤い舌が見せつけるように下唇を舐めた。わたしは思わず宗三の顔をじっと見つめ返した。冗談を言っているのかと思ったからだ。
 いつまでも答えを返さないわたしに焦れたのか、宗三の細い眉がきゅっと寄って、不機嫌そうに唇が歪む。どちらかと言えば大人びた顔立ちが、それだけで駄々っ子のように変化する。
「まさか、和泉守が良くて、僕が駄目だなんて、仰いませんよね」
「まさか」
 ようやっと口を開けば、彼は満足そうに笑って、それでは夜に、と去っていった。ひらひらと薄紅色の袖がはためいて去ったその後ろに、いつから立っていたのか薬研がいて、わたしをじっと見つめていた。
「大将、本当にいいのか」
 わたしが笑うと、薬研は黙って目を伏せた。

 薬研と山姥切と共に夕食を作る。その日の夕食は人工ではない魚の刺身で、わたしが手を出す暇もなく、薬研が包丁で三枚に下ろしてしまった。山姥切はひたすら野菜で飾り切を作っていて、わたしは箸を揃えたり、味噌汁の味噌を溶いたりするぐらいだった。
 夕食はいつも通りに終えた。部屋に戻って着替えをとって、それほど時間をかけずに風呂を済ます。何もかもがいつも通り。自室の襖の前に立ち、この先にいるのが和泉守ではないことだけが、いつもと違うのだと思った。
 わざと音が立つよう襖を開けて、慣れた足取りで暗い室内を歩く。灯りをつけないのは染み着いた娼館暮らしでの癖だった。自家発電で賄っていた娼館の電気は、一度に使えばすぐに落ちた。だから、お客が来ていたりして必要なのでなければ、大抵、わたしたちは灯りも付けずに暗いままで過ごしていた。こんな、広い部屋ではなかったけれど。
 今更そんなことを思い出してしまうのは、この先にいるのが初めての相手だからに違いない。わたしにしては珍しく、緊張しているらしかった。もう一月も、特定の相手以外に抱かれていないからだろう。
 次々襖を開けていって、最後、寝室に繋がる襖に手をかける。するりと横に滑らして、開いた隙間から中を覗いた。寝室はここまでと同じく、真っ暗だった。そんなところも違うと思う。和泉守はいつも、わたしが帰ってくる前には灯りをつけて、布団の中でぼんやり煙管を吸っていた。彼が持ち込んだ煙管盆は、今も部屋の隅にある筈だった。
 わたしが来たことに気づいた誰かが、床の上で身動ぎする。わたしは畳に膝をつき、衣擦れの音へと手を伸ばした。
「お待たせしま、」
 腕を強い力で引かれて、つんのめるように倒れ込んだ。固い胸板に鼻をぶつけて、痛いくらいに抱き締められる。男の手が肩甲骨を掴むように背中をまさぐって、後ろ髪をくいと引く。仰け反る首に口づけが落ちた。
「あ」
 漏らした吐息まで奪うように、唇が降ってくる。見た目にそぐわぬ情熱さを意外に思いながら、それに応えようと舌を出した。途端に抱き合っていた体が強張って、布団の上へと突き飛ばされた。
「アンタは、」
 宗三の声ではない。もう何度も夜を共にして、聞き慣れてしまった声だった。大きな体が闇の中でのし掛かってきて、ばさりと彼の長い髪が流れ落ちる音が耳を打った。
「アンタは、オレ以外が相手でも黙って抱かれるのか」
 怒っているのかと思った声は、頼りなげに震えていた。すがりつく手が子どものようで、和泉守は泣いているようだった。どうしてここにいるのかと、宗三はどうしたのかと聞きたいような気がしたが、わたしはただ、はい、と答えた。
「なんで! アンタもわかってるだろう、オレは、アンタのことが、」
「わたしには、それしかできないので」
 彼らが敵を斬ることしかできないように。わたしはそういう生き方しかできない。
「あなたがどう思おうと関係ありません。わたしはあなたのものではない。あなたに止めろと言われても、それを聞く必要はない」
 抱きたくなったら言ってください、誉の以外の時であっても、体が空いていればお相手します。言って、和泉守の胸を押す。子守りの仕方なんて知らないから、泣く子の手を振り払う。
 どうしても退いてくれない和泉守の腕から逃れる為に、ずるずると後ろへ後退れば、足首をぱしりと掴まれた。
「……夫婦になってくれ」
 絞り出すように、和泉守が言った。わたしのただの人間の目では、彼がどんな表情でそれを口にしたのかは見えなかった。
「無理です」
「どうして」
「わたしには、誰かの妻なんて無理なんです」
「無理なんて、そんなことはやってみなくちゃわからないだろ」
「わかります」
 答える度に、足首を掴む手に力が入る。和泉守が納得するまで、どうやら逃げられそうにない。畳の上に手を這わせ、照明のスイッチを探し当てる。かちりと音がして、背後でぱっと灯りが点った。正面から顔を照らし出された和泉守が、眩しがって青い瞳を細めるのが見えた。とっさに確認した彼の頬は、予想と違って濡れてはいなかった。いつものように強い瞳が、こちらを射抜くように見つめていた。
「オレにはわかんねェよ、アンタがオレ以外に抱かれようとするのも! その癖、オレを折らなかった理由もッ!」
 唇が震えた。水の中で溺れたひとのように、がむしゃらに呼吸した。爪先から頭に向かって、耐えられないほどの震えが走った。薬研との会話を聞かれていたことが理由ではない。そんなことは、どうでもよかった。
「あなたが、それを聞くんですか」
「ああ、オレはアンタをしあわせにしたい。アンタをオレ以外の誰にも渡したくない。オレがアンタの最後の男になりたい」
「あなたが、」
 わたしの仕事は刀のおばけの世話だった。ハコダテにいた頃とやることはさして変わらない筈で、戦いから帰って来た男たちをもてなして、また戦いへと送り出す。男がおばけに変わっただけ。増えたのは炊事や洗濯、掃除などの日常的な仕事だけ。それだけだったのに。
「あなただけが、娼婦であったわたしを否定しなかったのに」
 はっとして和泉守がわたしを見る。あんなにしっかりと足首を握りしめていた手の力が抜けているのに気がついて、わたしは和泉守を蹴飛ばすようにして立ち上がった。そのまま呆然とする和泉守を放っておいて、一目散に逃げ出した。わずかに乱れた浴衣の裾が、足にまとわりついて走りにくい。でたらめに襖にぶつかりながら、ほとんど転ぶようにしてわたしは廊下へ飛び出した。
「大将」
 暗い廊下の端には、こんのすけを抱えた山姥切と薬研が立っていて、わたしが逃げてくるのを最初からわかっていたようだった。ぼろり、と目から勝手に涙がこぼれた。たっとこんのすけが山姥切の腕から飛び下りて、しゃくりあげるわたしの足に、あたたかい動物の体温がすり寄った。薬研の小さな手がわたしの背中を撫でてくれ、山姥切の布がすべてを覆い隠してくれた。そのやさしさに、ますます泣いた。
 食事の用意も洗濯も、やさしい刀たちがやってしまう。わたしはここでなにもできない。抱かれることしかまともにできなかったのに――それさえ否定された役立たずのわたしは、ここでどうやって生きればいいの。

 その晩は山姥切の部屋で山姥切と薬研に挟まれて眠った。枕元で丸まるこんのすけが、しきりと寝言をこぼすので、夜中に何度も目が覚めた。目覚める度にわたしはどうしてここにいるのかと思って、しかし動けばふたりを起こしてしまうから、朝まで布団を動かなかった。
 朝になるともう起きていた薬研が部屋までついてきてくれた。和泉守はとっくに自分の部屋に戻っていたのか、部屋にはもう誰もいなかった。着替えて朝食の用意をし、広間で揃って食事をとる。誰も何も言わなくて、まるで何も変わらない。わたしが昨日、誰にも抱かれなかったのも。逃げ出して泣いたのも。全部なかったようだった。
 食事が終わった者から各自、席を立って出陣の準備をする。わたしも台所に向かおうと、皿を重ねて立ち上がれば、積み上げた食器を横から伸びてきた手が奪っていった。
「和泉守さま」
 しかめ面の和泉守が、わたしを睨み付けている。視界の端で、広間にまだ残っていた大倶利伽羅が腰を浮かすのが見えた。
「……オレは、アンタを否定する」
「おい!」
 大倶利伽羅が怒鳴りつけるのも無視して、和泉守はわたしだけを見ていた。
「アンタに決められた生き方なんてない。オレがどう言おうとも、もうおとなしく抱かれることなんて、ないんだ」
「それは、わたしに飽きたということですか」
「違う!」
 声を荒げた和泉守は、一瞬気まずそうな顔をして、天井へと視線を逃す。落ち着く為にか、あー、と息を吐き出して、そうしてもう一度、わたしを見下ろした。
「オレの気持ちとしては、正直言えば、アンタのことをまた抱きたい」
 けど、と和泉守は言葉を続ける。
「アンタはオレを拒否していい。アンタはアンタがしたいことを、すればいいんだ」
「そんなこと」
「できる」
 勝手なことばかり言うだけ言って、否定の言葉は聞かないとでもいう風に、和泉守は行ってしまった。その後ろ姿を、何も言い返すこともできず黙って見送る。残っていた大倶利伽羅も和泉守が離れたのを見届けて、さっさと自分の使った食器を持って台所へと消えてしまった。慌てて二人を追って台所に顔を出すと、同田貫が入り口に立ちふさがっていて、邪魔だ座っておけと追い返される。がちゃがちゃと水場の方から皿を洗う音がして、布巾をとってくれとか、これはそこの棚にとか、皆に指示を出す薬研の声が聞こえていた。わたしは代わろうと手を伸ばしたが、同田貫はその手にこんのすけを押しつけて、わたしを台所から追い出した。腕の中のこんのすけが、
「今日は何をされますか」
 と言ってわたしを見上げて、わたしはもう今までと同じ生き方はできないことをやっと理解したのだった。
 それから三日の間は、食事も、洗濯も、畑仕事も、全部、刀剣男士がやってしまって、わたしは皿を並べることも水をまくことも取り上げられて、こんのすけを撫でたりぼんやりと昼寝をしたりすることぐらいしかすることがなかった。その間も相変わらず和泉守は誉を取り続け、けれども夜にわたしの部屋に来ない。頭がおかしくなりそうだった。
 ついに耐えきれなくなって、畑仕事をしている山姥切の元に走っていって鍬を奪い取る。うわっと慌てた声を出した山姥切は、鍬の柄に手を添えたまま、布の下からわたしの顔を覗き込んで、
「やりたいか?」
 と真面目な顔をして聞いた。
「はい」
「なら、してみるといい。けど、あんたにこれは重すぎるから、もっと軽いのがいいな」
 間を読んだように薬研が近寄ってきて、歯が一回り小さい鍬をわたしに差し出した。薬研は笑って、ちょっと振ってみてくれ、と言う。あんなに口を酸っぱくして、触るな寄るなと言っていたのが嘘のようだった。恐る恐る鍬を降り下ろしたわたしは重さに少しよろけたが、それでも薬研は笑っていた。

 畑でできる仕事が少しだけ増えた。皆が戦に出ている最中、畑に水をまくのはわたしの仕事になった。洗濯物を取り込んで、畳むのも自由にしてよくなって、台所では包丁の使い方を薬研が教えてくれるようになった。近づくなと言われていた厩にも、顔を出すのは良くなって、名前を呼ぶと馬がこちらを向くようになった。
 全部、したくないなら、しないままでもいいと言われた。したい時に、したいことをすればいいと。
 今日の誉は誰だろう。きっとまた、和泉守に違いない。こんのすけを抱きかかえ、庭の畑に芽吹いた新しい命を見つめながら、今日こそ言ってみようか、と思う。愛しているかはわからない。妻なんて柄でもない。
 それでも今はただ、わたしはあなたと眠りたいのだ、と。

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2018/02/25

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