わるいこは 八日目

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ホラー
※友人とのプロット交換作品です

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 もはや確かめるまでもなく、窓の外は大雨だった。さすがに政府に何の連絡もせずに二日続けて休業にすることはできず、朝から演練と遠征に四部隊を出陣させていた。一番早いのは享保年間に派兵している第三部隊で、あと二時間半もすれば帰ってくる。それまでに今後の出陣計画を立ててしまおうと、審神者は一人、執務室で頭を悩ませていた。
「最初はあまり水が苦手じゃない浦島や千代金丸を入れて、様子見でいつもより戦線を下げて……ただ、そうするとうちの規模だと資源がなあ……」
 出陣で得られる資源量が日課任務より下回れば、すぐに資源は枯渇する。ある程度の貯蓄はあるものの、それはあくまで一時的に足しにできる程度の量で、潤沢とは言い難い。十分な資源を得るためには、戦線を押し上げる必要があり……とそこで思考が一回転して、結局何も決められずに白紙の書類をにらみつける。
「ダメだダメだ。ちょっとお茶でも飲んで来よう」
 一旦休憩にしようと、立ち上がって伸びをする。ぐっ、と両腕を天井に向かって突き出せば、肩がパキポキと軽い音を立ててほぐれていく。体の強張りをほぐすようにグルグルと肩を回しながら、審神者は執務室を出ていった。上台所へ顔を出し、くつろいでいた鶯丸に緑茶を一杯いれてもらう。ついでに包丁藤四郎からボーロを貰って、代わりに琥珀糖を一つ分けてやった。大げさに喜ぶ包丁の丸い頭をひとしきりなでまわしたところで、審神者は台所を後にした。手水に寄って、執務室に再び戻ってくるまでに、三十分かかったかどうか。
 そのわずかな時間で――執務室前の入側は血塗れになっていた。
「なッ……!」
 人一人殺したように、大量の血が床一面に広がっている。テラテラ光る血だまりは敷居をこえ、執務室の中にまで飛沫が散っていた。恐ろしくてはっきりとは確認できないが、つい先ほどまで事務作業にはげんでいた文机のあたりにまで、血は飛んでいるようだった。あまりの惨劇に声も出せずに審神者は入側に立ちすくむ。とにかく誰かを呼ばなければ、ときびすを返しかけた時、足元から、ザリ、と砂の混じった音がした。
 ふと思いたって、その場でゆっくりと呼吸をする。……鉄錆の臭いは、しなかった。
 はーっと長く息をはいて、審神者はその場にしゃがみ込む。近くで見ると、赤というより茶色に近く、砂粒の混じった、ただの泥水だ。冷静になればけっして血液には見えない。己の思い込みの激しさに、うなりながら頭を抱えてうずくまる。紛うことなき幻覚だった。
 しっかりしろ、と自分に言い聞かせながら、とにもかくにも水をふこうと執務室へと足を踏み入れ、隅にかけてある雑巾へと手を伸ばした。まずは机の上をざっとふき、書類に被害がないことを確認する。幸運なことに、柿渋の書類入れにしまっておいた紙類はすべて無事だったが、出しっぱなしの硯には泥水が混じってしまっていた。これは後で片付けようと思い直して、審神者は机の下をのぞき込む。案の定、そこも畳の色が変わるほどにグッショリと水にぬれていた。
「一体、何なんだ……」
 机の下へ頭を突っ込んで、畳の目に沿って雑巾を動かす。幽かに、ジャリ、と砂をかむような音がして、審神者は一瞬手を止めた。念のためにと雑巾を裏返し、再びふき始めようと手を動かしたとたん、ジャリ、とまた音がする。
「……」
 音は前方から聞こえてきた。息を殺して、ゆっくりと視線を上げていく。机の向こうに、誰かが、いる。まず視界にとらえたのは、十本そろった小さな爪。石膏のように白い足が、こちらを向いて立っている。それは小さな子どもの足のように見えた。足の爪には泥がつまり、甲も土で汚れている。まるでぬかるみを歩いてきたかのような足だった。もう少し視線を上げれば、傷だらけの膝下が見える。数えきれないほどの小さな切り傷や擦り傷には薄く血がにじんでいて、その上からまだ乾いていない泥がこびりついている。発達途上の華奢な線を描くふくらはぎの上を、血と泥の混じった黒い汁が垂れていた。
 これは……誰だ。足の大きさから考えれば短刀の誰かに違いない。けれども、どれほど成りが小さくとも、彼らは歴とした刀剣であり、ただ雨の中を歩くだけでこれほど傷つくはずがない。手入れの必要な刀剣は今現在、本丸にはおらず、遠征からの帰還もまだ一時間以上の余裕がある。
 考えるな、と頭のどこかで警告が走る。見てはいけない。考えてはいけない。これは、恐ろしいものだから。誰か、刀剣男士を呼ばなければ。
 不意に足首に横皺が寄る。目の前の人物が足を曲げてこちらをのぞき込もうとしているのだと、一拍後に気がついた。心の中ではとっくに盛大な悲鳴を上げているのに、現実では喉はカラカラに渇ききって、貼りついたように声がでない。情けないことに腰が抜けてしまったようだ。逃げることもできぬまま、死刑判決を待つ囚人のように目の前の光景に視線が縫いつけられる。
 机の天板から、白い布がのぞく。布もまた、泥にまみれて薄汚れている。ヒラヒラと揺れる布の前を、ボツン、と何かが落ちていく。それは畳の上に落ち、黒っぽい染みを残して消えた。ついで親指ほどの太さの縄が一本、ユラリと揺れながら現れる。手に持っているのか、肩にでもかけているのか。次第に長くなる縄の、無理やり千切られたような断面が、パラパラと数本の繊維を震わせている。布はいよいよ床について、足は完全に見えなくなった。足の小ささから言えば、そろそろ手が現れてもいい頃だが、審神者からはいまだに、波打つ白い布とその前に垂れる縄しか見えなかった。息を殺して見つめる先、黒っぽい液体がスーッと縄を伝って落ちて行く。端まで降りてきた液体は、表面張力で丸く膨らんだ後、いよいよ耐えられなくなって、また、ボツン、と布の上に落ちた。ゆっくりと褪せたような赤色が、広がる先から酸化して黒ずんでいく。その色合いでようやく、目の前の液体が血なのだと知れた。縄の結び目が、ブランと揺れながら現れる。あぁ、顔が、見えてしま、

「――主」

 不意に背後からかけられた声に、審神者は声もなく飛び上がった。まともに頭を天板にぶつけ、脳裏に星が飛んだ。痛みにのたうち回りながらも、なんとか机の下を抜け出して、涙をこらえて薄目を開く。ぼやけた視界の中に、あきれたような顔でこちらを見下ろす、見知った刀の顔があった。
「山姥……切……」
「あんた一体、なにしてるんだ」
「なにって……ッ!」
 はっとして審神者は身を起こした。慌てて机の向こう側を確認し、続けて室内をぐるりと見回す。まるで最初からそうであったかのように、執務室には、審神者と山姥切のほかは、誰一人いなかった。
「……いない」
「夢でも見ていたのか?」
 腕組みをして深いため息をついた山姥切に、審神者はばつが悪くなって、身を縮こませる。夢にしてはやけにリアルな白昼夢であったような気もするが、よく考えずとも付喪神だらけの本丸御殿に外部の人間がそうやすやすと侵入できるはずがないのだ。人間でなければ、なおのこと。そこまで思い至って、ようやく、審神者はほっと息をはいた。
「そう……かも。あ、あの、おかえり」
「ただいま」
 下から見上げる整ったヨーロッパ的な美貌が、ふっと相好を崩す。連日の豪雨の影響も受けず、山姥切は元気そうだった。身にまとう布の裾だけが、わずかに泥はねで汚れていた。
「俺が留守の間、何もなかったか? あんたは思いもよらない問題ばかり起こすからな」
「いやいや、いい加減、俺だって良い歳したおっさんなんだから。大丈夫、大丈夫。良い子で留守番してましたよ」
「本当に?」
 疑うような視線が室内に向けられて、審神者はうっとうめいた。
「いや、あの、これは俺がやったんじゃなくて……」
「まあいい、おおかた、猫でも入ったんだろ?」
「……そうかも、しれないな」
「ここは俺が片付けておくから、あんたは玄関に兄弟を迎えに行ってやってくれ。イノシシを獲ってきたんだ」
「……イノシシ!?」
 何事もないように口にされた土産に、審神者は思わず山姥切を二度見した。都会育ちの審神者にはとっさに想像できないが、イノシシを狩るのは相当労力がかかるのではないか。何より図体が大きい。暴れればケガもするだろうし、どうやって運んだのか見当もつかないが、山を下るのも一苦労に違いない。絶句する審神者をよそに、山姥切は涼しい顔で、
「今度は熊を獲ってくる」
 などと宣言した。
「いやいやいや、そういう話じゃないだろ」
「気にしなくて良い、これも修行だ」
 一体、何の修行をしているのか。武人としての修行だとばかり思っていたが、まさか狩りの修行なのか。そういえば、前回は鹿を獲ってきたのだった。確かに獲物が大きくなっているな、と一瞬、納得しかけたところで、審神者は慌てて頭を振る。
「えっと、じゃあ、俺は玄関に行くけど……山姥切は風呂にでも入ってこいよ。ここは後で自分で片付けるから」
「そうか。……修行の間、あんたがさぼってなかったか、戦績だけ確認しておく」
「うへえ」
 ニヤリと笑った山姥切に、審神者は再びうめき声を上げた。あれやこれやと不備を指摘される前に三十六計逃げるにしかずとパタパタと部屋を後にする。

 入側に立って審神者を見送っていた山姥切は、足音が遠退いたのを確認して、くるりと執務室を振り返った。修行に出る前とはずいぶんと異なる様子の室内に、表情を変えぬまま足を踏み入れる。
「俺が留守の間に、ずいぶんと好き勝手してくれたようだな」
 話す山姥切の右手が腰に帯びた刀に伸びる。山姥切の青の双眸は文机の向こうにヒタと向けられている。視線は逸らさぬまま、カチャリ、と鯉口を切る音がして、ずろりと二尺三寸三分の刀身が姿を現す。
「本来の役目を果たさないような『わるいこ』は、首を斬られても文句はないな?」
 振り上げられた刀の表面には――溶けたような顔を持つ、泥に汚れた布の上から縄で首を縛り上げられた、血塗れの子どもの姿がうつっていた。
 
「なにしてるんだ?」
 玄関に横たわる予想より数倍巨大なイノシシに目を白黒させながらも、数人がかりでなんとか下台所へと運び込み、手伝ってくれた刀たちを風呂へと追い立てて自身も着替えを済ませた審神者は、執務室へと戻ってくるなり、中庭で山姥切が何かを燃やしているのに出くわした。
 時折、枝でつつかれながら、パチパチと音を立てて燃えている物体は、既に真っ黒に焼け焦げて、元が何か判然としない。修行から帰ってきたばかりで、なにか燃やすものがあったろうかと首を捻りながら声をかければ、山姥切は、ああ、と気のないいらえを漏らした。
「修行に持っていった予備の布が汚れたからな。要らない書類といっしょに燃やしている」
「へー……って、書類は燃やしたら駄目だって前も言っただろ!」
 慌てて沓脱石に降りて突っかけを引っかけるが、手遅れなことは明らかだった。もはや影も形もない焦げカスにぐぬぬとうなり声をあげることしかできないが、とにかくひとこと言っておこうと審神者は口を開く。
「書き損じもシュレッダーにかけて、資源ゴミとして出すんだってば」
「燃やした方が早いだろ」
「資源回収とかで政府がうるさいんだよ……」
「そうか。次からは気をつける」
「そんなこと言って。このやりとり何回したと思ってるんだよ」
 見つめる先でわずかに燃え残っていた布端が、ジリジリと焦げていく。ふとそこに焼け色とは違う黒さを見つけたような気がしたが、それも横から出てきた枝に、ザクザクとかき混ぜられて、すぐに炎の中へと戻っていった。
「……そういえば、ツルツルボーズだったか」
「てるてる坊主ね。君ら兄弟はなんでそろってそんな間違え方をするのかな」
「もう作らない方がいいぞ」
 山姥切の視線はたき火へと向けられている。丸まった白い背中からはなんの感情も読み取れない。
 ふと先ほど見た白昼夢を思い出す。生白い作り物のような足の上、ヒラヒラと揺れていた布と、垂れ下がる一本の縄。
「……なん、で」
 喉が渇く。まさか、夢ではなく、あれは。
 パンッ、と山姥切が膝をたたいて立ち上がる。プスプスと煙を上げながら、炭の塊が崩れていく。ゆっくりと白い布が翻り、青い瞳がこちらを射貫いた。
「似たようなのがもういるだろ」
 ニヤッと口角が上がるのを見て、体から一気に力が抜けた。よろよろと地面に座り込む審神者を、近寄ってきた山姥切が見下ろしてくる。
「な、なんだよ、もう……怖がらせやがって……」
「怖がる要素なんてあったか?」
 わざとらしく小首をかしげる刀のスネをじゃれつくようにこずいてやって、審神者はヘラヘラと笑った。やはりあれは夢だったのだ。おおかた、落としてしまったまま片付けもしなかったてるてる坊主のことが頭の隅にひっかかっていたせいで、あんな悪夢を見たに違いない。そうやって理由をつけて納得して、審神者は日常に戻っていった。いつ終わるともしれない戦いの日々。戦場と切り離された本丸の日常。

 その次の日、雨は一滴も降らなかった。

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2022/05/30

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