地獄の底で会いましょう1

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一さに / ブラック本丸 / ほの暗い / 残酷表現あり

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「自分は陰陽庁妖魔対策局強硬処理課より派遣された陰陽師である。本日付でこの本丸の主となった由、心されよ」
 ぐるぐると唸る獣を横にして、それはあまりにも静かな自己紹介だった。獣の牙が鋼の刃と触れ合って、カチカチと音を立てるのにもいっかな興味のない様子で、いきなり訪れるや当然のように上座に坐した人間は殺気立つ男たちを相手に言葉を続けた。
「自分の職務は本丸及び本丸に所属せし刀剣男士の手入れ並びに式神としての再教育である。刀解は政府の意向により極力回避せよとの命だが、改善の見られない場合にはその限りではない。貴君等には協力をの」
「……ッ勝手に来て勝手な事言ってるんじゃねェよ!」
 バキンッ、と一際高い音がして、獣と組み合っていた男が後ろに跳ねとんだ。
 首を振って腰まである長い黒髪をばさりと後ろに流すと、やっとの事で牙から逃れた己が得物を正面に構え直す。ただし、その刀身はがたがたに刃零れしており次に組み合えば折れるのではないかという酷い有り様であったし、それを構える男もまた到底万全とは言えない状態であった。肩にかけただけの浅葱のだんだら羽織は血に汚れて黒く染まり、長い髪も所々が固まってもつれている。それでも瞳だけはぎらぎらと好戦的に光っていて、死ぬのも恐れぬ覚悟だけは見てとれた。
 相手を挑発するようにガチガチと牙を鳴らしながら主へと擦り寄る虎に似た白い獣を、男はきっとねめつけたまま己の背後へ視線もやらずに声をかけた。
「国広、やれるか」
「っ、勿論……僕は、兼さんの助手だからっ……ね!」
 広間にはこの男の他に四十余人の男がいたが、そのうちの一人がよろよろと立ち上がる。まだ若い、少年と呼べる歳の男だった。声をかけて来た男の、長髪に羽織袴という姿とは対称的に、短髪に洋装の上下をつけている。しかし、傷だらけである点は男と変わらず、手にした得物もまた、いつ折れるかわからぬような無惨な代物だった。
 上座の人間が広間に入ってきた時、彼は既に一度獣に斬りかかっていた。左腕がぶらりと不自然に垂れているのは、受け身を取る間もなく床に叩きつけられたその時に骨をやられたのだろう。男も少年の様子をわかっているのか、急かすこともなくじっと彼が刀を構え直すのを待っていた。ちゃきり、と少年が刀を構える。と、合図もなく二人の呼吸がすぅと合わさった。どちらともなく男と少年は腰を落とし、体を低く沈ませて、飛びかかる姿勢を取る。
「まぁ、待てよ」
 今にも斬りかかろうかという二人を止めたのは、広間奥に胡座をかく、二人より少し年嵩の細身の男だった。元は白かっただろう羽織は肩から袈裟懸けに赤黒い染みが滲んでいて、こちらも二人同様に傷は浅からぬ様子だった。
 顔色は白を通り越して青白い。血を流しすぎたのだろう、いつ死んでもおかしくないような見目に反して、唇は薄く弧を描く。その笑みは重傷者が浮かべるには穏やかすぎて、何も知らないものが見れば、気が違っているとでも思ったかもしれない。
「そいつの話が本当なら、正面からいくら襲いかかっても仕方がない。君らは若いから知らないかもしれないが、陰陽師ってのはそりゃおそろしい存在なんだぜ……なぁ、三日月」
「そやつの話が本当なら、な」
 隣に座った三日月と呼ばれた男が面倒そうにいらえを返す。よく見れば四十余人の男達すべてがなんらかの傷を負っていたが、そのうちでも特にこの男の傷が一番深かった。髪に、衣服に赤黒い染みがべっとりとこびりつき、まるで頭から血を被ったように見える。息をするのも億劫なのか、問われた以上に喋ろうとはせず、浅く息を吐いたきりぴたりと口をつぐむ。よく見れば首にぐるりと縄目の痣が巻き付いていた。
「そもそも俺達の差配は“審神者(さにわ)”が行うはずだぜ。審神者でもない人間が、ましてや陰陽師が主だなんだとは、話が違う」
「……その上、式神風情と一緒にされるとは我慢ならぬ。われらも末端とは言え神は神。陰陽師などに用はないわ」
 三日月の隣、長い銀髪から獣の耳をはやした男がうなりながら口をはさむ。開いた唇から覗く牙、手指の爪は鋭く尖り、人の形こそしているものの、どうみてもその容姿は人ではない。
 四十余人の男達はみなばらばらの姿形をしていたが、目に見えて異形をとるのはこの男だけだった。下は十を越えたばかりの少年から、上は二十の後半と見られる青年まで。和装洋装入り乱れ、髪の色もとりどりだ。
 ただその目鼻立ちだけは、皆種類は違えどすべからく整っていた。いっそ人であることを疑うような美貌。そういった意味で、ここにいるのは異形の集団だ。
「考え違いをされては困るが」
 自分を見つめる四十余組の美しい眸に臆すこともなく、上座の人間はやはり淡々と口を開いた。そう見えたのは、もしか男たちの思い込みだったのかもしれないが、けれども声の調子だけは先程となんの変わりもなかった。
「貴君等は神ではない」
 途端、場の殺気がぶわり、と膨れ上がった。自分を刺し貫かんばかりの無数の殺気に当てられても、なおも上座から言葉は続く。
「神祇官(じんぎかん)どもが何を言ったかは知らないが、貴君等の本性は妖怪であり、人に使役される限りは式神」
 言葉が終わるのを待たず、一団から小柄な影が六つ飛び出した。それぞれに抜き身の刀を持ち、上から下から右から左から、上座の人間目掛け斬りかかる。
 煌めく刃が揃ってひとつの首を狙う。如何に獣が強くとも多勢に無勢、すべての刀を折ることはできないだろう。次の瞬間には死体が一つ転がっているものと、誰もがそう思った、が。
 ――とす。
 とす、とす、とす、と続けて軽い音が続く。音はきっかり六つ分続いて、そしてまた静けさが戻った。
 はぁ、と上座から、息を吐く音がする。
 男たちは信じられないモノを見る目で“ソレ”を見た。
「……これ以上は無駄話のようだ。自分はこれで失礼する」
 ソレが立ち上がるのに合わせて、長いこと手入れもされていない畳がみしりと鳴った。乱雑に黒の外套の裾を払うと、ソレは後ろを省みることもせずにさっさと広間を後にする。その後ろを白い獣がするするとついて出ていった。小象程の大きさの獣はしかし、まるで実体がないかのように足音一つ立てはしない。
 後には呆然とする男たちと、畳に縦に突き立つ、六つの短刀が残されていた。

 誰もが目の前の光景を受け入れられず、口を開くのを躊躇っていた。そうして暫くの間続いた静寂を破ったのは、ふらり、と立ち上がった水色の髪の線の細い青年――一期一振だった。そのままなんでもない風に襖に向かって歩き出すのを、隣に座った薬研藤四郎が慌てて引き留める。
「おい、どこに行くつもりだ、いち兄」
「……厚達を、人形に戻してもらわなくては」
 少し腕を引いただけで、一期一振は体勢を崩してぽすりと床に座りこんだ。どうして留めたのかと、不思議そうに弟を見下ろす兄の様子に薬研は頭を抱えそうになる。頼りなさげにふらふらと左右に体を揺らす長兄は、はたして先程の光景の意味を理解しているのだろうか。
 本丸のほぼ中心に位置する大広間。その大半は板敷きだが、上座に当たる部分にだけ畳が積んである。そこに刺さる六つの刀をちらり、と薬研は横目で見た。六つの短刀――すなわち厚藤四郎、秋田藤四郎、乱藤四郎、五虎退、平野藤四郎、前田藤四郎の六振りは薬研藤四郎にとっては弟にあたる、刀匠を同じくする短刀である。自分と同じようにさっきまでは確かに少年の姿をとっていたのだが、こうして刀に戻された今は成す術もなく沈黙するだけの鉄鋼にすぎない。
「それは止めておいた方がいいな。あの調子じゃ、素直にハイそうですかと顕現してくれる保証はないぜ。それに、追い返されるだけならまだしも、いち兄まで刀に戻されたらどうするんだ」
「だが、薬研」
「大体立ってるのもやっとじゃねえか。あの人間に直談判するなら俺っちが行くから」
 そう口にしながらも、策もなしに対峙するのはぞっとしないな、と薬研は思った。
 薬研は鎌倉の生まれであるから、最盛期とは言えなくともそれなりに陰陽師というものを知っている。卜占を為し、星の運行を読み、祭祀を執り行い、式を伏せるのが陰陽師だ。ただしその多くは卜占と祭祀を主な生業としており、鬼神を侍らせ神をも操るような者は滅多にいない。少なくとも、ただの刀であった百年も、付喪神として過ごしたそれ以降も、薬研はそのような者を知らない。
 だが、先程の人間が従えていた大きな白い獣の力強さは。手も触れず、ましてやこちらの意思も関係なしに神を依代に戻したあの手際はどうだろう。噂に聞く稀代の陰陽師安倍晴明もかくやである。
「なぁ、鶴丸の爺さん。本当にありゃ陰陽師だと思うか」
 先程一同を止める声をあげた痩躯の青年、鶴丸国永に薬研は声をかけた。五条派の鶴丸国永、それに三条派の刀剣達や古備前の鶯丸は平安生まれの刀であるから、薬研より少しは物事に詳しい。
「おそらくは、な。あの獣には見覚えがある。あれは陰陽師が遣う式神だ。少なくともそれなりに腕に覚えがあるのは確かだな」
「なんだ、なにやら歯切れが悪いじゃねえか。あんたらしくもない」
「……どうもなぁ。只人ではないように思えてならないんだ。陰陽師云々はさて置いてだ」
 首を捻りながら鶴丸が唸る。薬研は陰陽師と名乗った人間の姿を思い浮かべた。
 彼の人は日々歴史修正主義者と呼ばれる異形と戦う自分達から見ても、得体の知れない格好をしていた。
 男か女かも判然としない、痩せた体躯と落ち着いた声。その身を包む黒衣はぴったりとした洋装で、縦に一列金色の釦が並んでいた。形はにっかり青江の着る服に似ているだろうか。顎下までの襟に白い手袋。喉仏どころか一片の肌も見せぬ体の線は男にしては華奢すぎて、女にしては円みがない。服と揃いの布で作られたらしい帽子は粟田口の刀が被るような前に庇のついた丸いもので、そこから溢れた黒髪は顎の辺りでぱっつりと一文字に切り揃えられていた。そうして、顔を覆った狐面。政府の遣わす式神の狐と同様に、赤い隈取りがされていた。
「これまでこの本丸には十二人の審神者が来たが、誰もあんな面は着けていなかった。俺達を余程警戒しているか、さもなきゃあちらに事情があるか」
「向こうの事情なんてどうでもいいだろ! 陰陽師だろうがなんだろうが、俺たちには関係ない!」
 叫んだのは和泉守兼定だった。生来の気の短さもあるだろうが、江戸の終わりに生まれたこの刀剣にしてみれば、なにをそう慎重になっているか、今一つ理解できないのだろう。
「兼さん、落ち着いて」
「だけどな、国広」
「陰陽師かどうかは関係ない。問題はあの人をどうやって追い出すかだ。そうでしょ?」
 止めているようで止めていない。和泉守の相棒を自称する堀川国広という名の脇差は冷静に見えて血気盛んだ。他の脇差は皆軽傷程度で済んでいるところを、この刀だけ重傷なのは、度々和泉守を庇っての結果だった。和泉守が絡んだ途端、主にさえ牙を剥く。いつなんどきも主の懐刀たれと作られた短刀である薬研には、その心情は理解に苦しむ。
「……あぁ、そうだ。下手に手出しをすれば、旦那も俺っちも厚達の二の舞だ。だから、いち兄も軽はずみな真似は……、っ!」
 薬研は慌てて立ち上がると、広間を飛び出した。優しかったがゆえにどうしても前の主を憎みきれなかった長兄の姿は、いつのまにかどこにも見えなくなっていた。

 形ばかりの挨拶が終わり、狐面の姿は屋敷の最奥、前任者の居室にあった。連れていた獣の姿はなく、その代わりに小さな狐が部屋の真ん中でおろおろと狐面を見上げていた。只の獣ではない証に赤い隈取りのついた狐は、外套を乱暴に脱ぎ捨てている狐面をうかがいながら、小さな声で恐る恐るといったように問いかけた。
「いかがだったでしょうか……」
「いかが、とは?」
「その……刀剣男士のみなさまのご様子は……」
 仮面越しでもわかる冷たい視線に、狐の小さな体が更に縮こまる。見るものが見れば憐れを誘う光景だろうが、狐面にとってはなにほどのものでもなかったらしい。軍帽を壁に掛けながら、ふん、とその様を鼻で笑う。
「刀剣男士、か。神でも妖怪でもない化け物を作り出した挙げ句、自分達の手に負えなくなった途端にこちらに泣きついてくるとは」
「私どもとて厚かましいとは重々承知のおねがいでございます! 何卒、お力をお貸しください」
「元より、自分は任務を遂行する為にここにいる。この期に及んで管狐ごときに頼まれる筋合いはない。お前も用が済んだのなら、さっさと塒(ねぐら)に帰るがいい」
 しっし、とぞんざいに手を振られるのに、ぴくんと狐が顔を上げた。
「そういうわけにはまいりません! 顔合わせの場こそ陰陽師殿のご要望に沿って、この場で待機させていただきましたが、これから先はこのこんのすけ、全身全霊をもってサポートをさせていただく所存です!」
 先程までの殊勝な様子とは一転、こんのすけと名乗った狐は力強くそう宣言すると、ぽすぽすと前肢で座布団を叩いた。きゃんきゃんと吠えたてるその様を、狐面は面倒そうに一蹴する。
「必要ない」
「いえ! いえ! そもそも陰陽師殿はなにもご存知ないではないですか。手入れの仕方に出陣も遠征も、ましてや刀剣の名前さえご存知ないと伺っております!」
「……自分とて、少しぐらいは……」
「ほう? たとえばどなたですか?」
 ここに来てやっと狼狽え始めた狐面の様子に、挑発的にこんのすけの目がきらめく。さあ、さあ! と追撃の手を弛めずにいるこんのすけに、言い逃れはできないと悟ったのか、がくりと狐面は肩を落として、観念したように一つの名前を口にした。
「……童子切、安綱」
「童子切殿は現在顕現可能な刀剣男士の中にはおりません!」
 ぴしゃり、と言い切ったこんのすけの顔は、心なしか得意気だった。表情こそ見えないものの、狐面の奥から恨めしげな視線を向けられても一向に応えない様子で、決まりですね、と尻尾を振っている。
「童子切安綱殿はおりませんが、同じ天下五剣の三日月宗近殿はおられます。この本丸にも顕現されていたかと思いますが、広間で顔を合わせた中に一際美しい方はいらっしゃいませんでしたか?」
「並外れて、というのはいなかったと思うが。そもそも天下五剣とはなんだ」
「……やはり、ご存知ありませんか」
「仕方ないだろう。刀は専門外だ」
 やっとまともに話をする気になったのか、床に落ちていたもう一つの座布団を引き寄せて、狐面は胡座をかいた。詰襟の軍服の上着は既に軍帽の隣に吊るされており、白いシャツ姿となった狐面はそれ以上は着替える気がないのか釦を一つ二つはずして、首元を緩めはじめた。開いた襟の間から、真っ白な首が覗く。狐の面は、いまだに被ったままだった。
「天下五剣とは室町の頃より特に名刀と呼ばれた五振りの刀剣の総称です。童子切安綱、鬼丸国綱、大典太光世(おおてんたみつよ)、数珠丸恒次(じゅずまるつねつぐ)、そして三日月宗近。この五振りで天下五剣です」
「どうせなら童子切に会いたかった」
「やけにこだわりますね」
「童子切には恩がある」
「……三日月宗近殿は天下五剣の中でも特に美しいと言われる名物中の名物です。どうか、三日月殿の前ではその様なことをおっしゃいませんよう」
「何故」
 助言を鼻で笑われて、こんのすけはまじまじと狐面を見返した。
 陰陽庁から派遣されてきた陰陽師。荒事専門と言われる強硬処理課の所属で、陰陽道の腕は超一流。伝えられた情報はそれだけで、年齢性別名前に素顔さえ教えられてはいないが、どうやら一流なのは陰陽道だけで、デリカシーや思い遣りというものはこの人間の頭にはないらしい。
 ぶっきらぼうな言葉遣いは年若い青年のもののようにも思えるが、顎まで伸ばした黒髪の艶やかさはまた、女のようにも見える。
 とはいえ、必要のない限り余計な詮索はしないように、と主から言い含められているこんのすけにはこれ以上の推測はできなかった。こんのすけの主が所属する神祇庁は陰陽庁と仲が悪い。
「どうして妖怪に媚びへつらう必要がある。自分は」
 狐面は急に言葉を切ると、廊下の方へ向き直った。こんのすけも慌てて耳をすませる。ひた、ひた、とゆっくりとこちらへ近づく足音が、一人分。
 忍んでいる訳ではなく、単純に歩みが遅いようだった。この本丸には重傷を負ったままの刀剣も多くいるからその内の一振りだろう。たまに立ち止まりながら、ようやく襖の前に立った人影は、迷う素振りも見せずに、陰陽師殿、と声を上げた。
「陰陽師殿……いらっしゃるのでしょう? 陰陽師殿……」
 どうするか、と狐面を見上げれば、じっと襖に目をやったまま、応える気配はない。
 そのままいらえがなければすぐに広間に戻るかと思われた刀剣は、しかしなぜかいつまで経っても立ち去ろうとしない。
「陰陽師殿、陰陽師殿」
 かれこれ、三分が経っただろうか。
 変わらぬ調子で呼び掛けを続ける刀剣に、気の長いことだと、次第に呆れの気持ちが沸き上がってきたところで、ふと、ここが最初の主を筆頭に十二人の審神者が殺された本丸であったことを思い出した。薄っぺらな襖一枚隔てて対面するには、あまりに危険な存在だということに思い至って、こんのすけの毛がぶわりと逆立つ。
 こんのすけは本丸付きではなく、審神者付きのサポート要員だ。そのために、このような事故案件ーーすなわち人間を害する刀剣男士が所属する本丸においては、余所者として審神者共々排除の対象とされる場合も多い。だが、仮初めの肉体が害されたところで霊体として主のもとに帰ればいいだけのこんのすけと違って、審神者たる人間は殺されれば二度と生き返らない。
 如何に有能な陰陽師とはいえ、それは同じだろう。
 緊張を露にするこんのすけとは異なり、狐面は胡座を崩しもせずに、落ち着いた様子でようやく口を開いた。
「貴君の名は」
「……私は、一期一振、と申します。陰陽師殿」
 誰だ、と狐面に仕草で尋ねられる。襖の向こうを刺激しないよう、こんのすけは小声で答えた。
「鎌倉時代の刀工、粟田口藤四郎吉光の太刀でございます」
「そうか。開けろ」
「こ、こんのすけがでございますか!?」
「お前しかいないだろう」
 ほら、と再度促されれば、もう従わざるをえなかった。こんのすけはびくびくと襖に近づくと、エイヤッとばかりに覚悟を決めて、前肢で襖を引き開けた。
 すーっと縁が擦れる音がして、長い足が現れた。以前の主に擦り上げられた過去を持つせいか、他の太刀に比べれば少しばかり低いが、それでもこんのすけにとっては首が痛くなるほど曲げなければ顔も見られないほどには背が高い。
 開けた途端に襲いかかられることも覚悟していたのに、見上げた顔は予想に反してぼんやりとして、心ここにあらずといったものだった。
「陰陽師殿」
「用件を述べよ」
 中空にさ迷う一期一振の視線はこちらを捕えてはいない。こんのすけにはなぜか、彼が目の前の襖が開いたことにも気づいていないように見えた。ぼぅと廊下に立ったまま、再度呼び掛けを口にした一期一振に、狐面は冷たくも聞こえる物言いで返す。それに、ぱちり、と一つ瞬きをして、ようやく一期一振の視線がゆっくりと中空から床に座る狐面へと落ちてきた。
「陰陽師殿……、弟たちを、戻していただきたい」
「弟?」
 そこでまた、狐面はこんのすけを見る。先ほどの顔合わせとはなんだったのだろうか。三日月宗近のことといい、今のこの様子といい、まともな挨拶も交わせていないに違いない。その相手が早々に訪ねてくることに嫌な予感を覚えながら、こんのすけは自分が持ちうるかぎりの情報を口にした。
「刀工を同じくする刀を兄弟刀と申します。粟田口藤四郎吉光は短刀の名手でございまして、吉光の刀には兄弟刀が数多くございますが、一期一振殿の言う弟とは、この場合、この本丸に顕現された薬研藤四郎殿、厚藤四郎殿、乱藤四郎殿、秋田藤四郎殿、前田藤四郎殿、平野藤四郎殿、五虎退殿の七振りでしょう」
「何故、最後のひとつだけ藤四郎ではないんだ」
「そこにこだわる必要はないと思いますが。五虎退吉光とも申しますね」
「……藤四郎ではないのか」
 なおも不満そうな狐面は放っておいて、こんのすけは一期一振に向き直った。
 一足先に本丸で待機していたこんのすけは刀剣男士達と顔こそ合わせてはいないものの、すくなからぬ時間の内にこの本丸の空気というべきものをすっかり感じ取っていた。何処もかしこも血と恨みがこびりついて、沼の底のように澱みきっている。特に大広間は、刀剣男士達が集っていることもあるのだろう、閉めきった襖の隙間からも、隠しきれない瘴気が溢れだしていた。
 これほどまでの怨嗟の主は果たしてもはや神といえるのか。元の顔も分からぬほどの、悪鬼羅刹のごとき面構えと化していることも予想していたこんのすけだったが、この一期一振の顔は今まで接してきたどの刀剣男士にも負けず劣らずの穏やかさで、それが逆におそろしい。腹の底がまるで見えない。
 腰には当たり前だが己が太刀を提げている。今のところ抜く気配はないが、さてどういうつもりでここまで来たのか。
「……一期一振殿、弟君がどうかされましたか」
 相手を刺激しないようこちらもゆっくりと言葉を発する。聞いているのかいないのか、一期一振の青い瞳がゆるゆると狐面からこんのすけに向けられる。
「人形(ひとがた)に、戻していただきたいのです」
 同じ言葉を呟いて、嗚呼、と薄い唇が、そこで初めて笑った。
「あるじさまは、きれいなかおのおとこは、きらいでしたね」
「……は?」
「はい?」
 一人と一匹の間の抜けた声が狭い室内に響いた。
「あの、すみません、一期一振殿、もう一度言っていただけますか?」
 冗談、まさか、このタイミングで?
 先程までとは違った緊張にこんのすけの毛が逆立つ。
 しかし、一期一振は一人なにやら納得した顔で話を進めた。
「斬りますか?」
 何を、と問う前に、腰の太刀に手が伸びる。すらり、と抜かれた鋼の煌めきに、こんのすけは思わず狐面の真正面に飛び出した。せめて初撃ぐらいは受けきるつもりだが、二撃三撃と続けられれば、所詮は狐の妖怪であるこんのすけには文字通り太刀打ちできない。あとは陰陽の業で、狐面自身がこの局面をどうにかしてくれることを期待するしかないのが心許ないが、元よりそんなことは覚悟の上だろう。
 初期刀を持たないこの人間の味方となるものは、こんのすけと、己自身しかいないのだから。
 こんのすけの細い眼が煌めきを追う。それは一直線に狐面へと振り下ろされ……ることはなく、かちゃりと向きを変えられて、一期一振自身に切っ先が向くように畳の上に放り出された。こんのすけの目と鼻の先で、金の柄頭がきらりと光る。
「どうぞ」
 ぞんざいに投げ出された刀の先で一期一振が笑う。
「目を刳り貫きますか、それとも鼻を削ぎますか。……耳を切り落とすでも、喉を裂くでも、構いません」
 白い喉を晒して、なんでもないようにそんなことを言う。
「どうぞ、あるじさまのお気のすむように」
 うっとりと、夢を見るような眸にこんのすけの背筋がぞっと冷えた。

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2015/09/03

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