地獄の底で会いましょう2

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一さに / ブラック本丸 / ほの暗い / 残酷表現あり

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 当たってほしくない予想ほどよく当たるものらしい。
 本丸中を駆け回り、最後の望みを託して訪れた奥の廊下の突き当たり。長く閉ざされていた筈の審神者の部屋の襖が僅かに開いて、そこから見知った青いマントの裾が覗いていた。ぼそぼそと聞こえてきた紛れもない兄の声に、薬研の全身からざっと音を立てて血の気が引いた。
 夢と現を行き交いして生きる兄にとって、陰陽師だ審神者だのはあまり意味を持たないことなのだろう。どんなに言い聞かせたところで無駄だとはわかっていたが、せめてここにだけは来てほしくなかったのだが。とはいえこうなってしまったものは仕方がない。そろりそろりと足音を殺して襖へと忍び寄り、薬研はそっと室内を伺った。
 なにを話しているのかまでは聞き取れないが、声から推察するに部屋にいるのは兄の他に陰陽師と名乗ったあの人間と、こんのすけという名の狐の式神だけのようだった。式神の、人の子どもより少し低いぐらいの声を聞きながら、戻ってきていたのかとなんとはなしに思う。
 新しい審神者とともにやって来ては、審神者が死ぬといつの間にか居なくなっている。斬ろうと思えばいつでも斬れるが、斬ったところで益にもならねば害にもならない、人に追従することしかせぬあやふやなモノ。式神とはそういう“モノ”なのだというのが、この本丸の刀剣達の共通認識だった。そんな存在と同格に扱われるのは薬研とて確かに気分の良い話ではないが、今はそんなことよりも長兄のことである。
 兄には悪いが弟たちのことは自業自得だ。相手を見定めることもなく真正直に正面から飛びかかるなど、打撃の低い短刀の戦い方ではない。それに人形に戻すにしても、この得体の知れない陰陽師を頼るよりは、次に来るだろう審神者に望みをかけた方がいくらか交渉の余地がありそうだった。和泉守あたりがすぐに殺してしまわなければ、の話だが。たとえこの先、刀のままずっと顕現できないとしても、薬研としては兄さえ無事であればなんの問題もない。
 無闇矢鱈と刀解をする気はない、と陰陽師は言った。弟たちも刀に戻されたとはいえ、刀解まではされていない。しかし、あの陰陽師の言う“改善の見られない場合”がどの程度の言動を指すのか、その境界がわからない今、あまり反抗的な態度をとるわけにもいかないだろう。そう、冷静に思考を巡らせられていたのはそこまでだった。
「ならば、貴君の刀は折っても良いな?」
 仮初の筈の肉の体に巡る血が、一瞬のうちに沸き立った。
 腰に差した自分自身を反射的に鞘から引き抜くと、部屋の中へ声もかけずに踏み込んだ。入ってすぐの場所に座る兄の襟首をひっつかみ、自身の倍はある体を間髪入れずに後ろへ投げ飛ばす。
 どすん、と重い音が廊下に響いたが振り返りはしない。これしきの衝撃では中傷状態は悪化しないとわかっている――いつの間にか自分よりも兄の怪我の状態にばかり詳しくなってしまった。
 一気に開けた視界に、ぽかんとこちらを見るこんのすけと、胡座をかいて、やはりこちらを見る陰陽師が映り込む。狐面のせいで表情は判別できない。ただ、その手に見覚えのある長物がある、それだけで充分だった。
 進んで弟たちの二の舞になるつもりかと、何度も死線をくぐり抜けた薬研藤四郎という刀が嘲笑う。けれども、人としての体はこんな時に少しも言うことを聞かない。次の瞬間、自身も刀に戻されるかもしれないとわかっていながらも、衝動に突き動かされるままに薬研は刀を振るった。戦に慣れた体は最も少ない動きで敵と認識した相手の首を落とすために動く。だんっ、と大きく踏み込んで、白い首筋に向かって己の鋒(きっさき)を真っ直ぐ突き出す。
「止めろ」
 狐面の向こうからくぐもった声が聞こえた、と思った刹那、突如襲ってきた背後からの衝撃に薬研は受け身をとる間もなく床に叩きつけられた。顎から落ちた体を起こす暇も与えられぬまま背中を強く押しつけられる。圧迫された肺からぐぅと悲鳴混じりの吐息が漏れた。思わず握りの緩んだ右手から、するりと刀が抜き取られて、しまった、と思う間もなく間髪入れずに手の甲に鋭い痛みが走る。
「……ッつぅ!!」
 己自身によって床に縫い付けられた右手の手袋に、見る見るうちに血が滲む。柄のぎりぎりまで刺し通すその手際は鮮やかで、容赦の色は微塵もない。咄嗟に引き抜こうと動いた左手は後ろ手に捻り上げられて、強制的に顔が上を向く。
 無理矢理に上げられた視界の中、こちらへ歩み寄る陰陽師が見えた。その手には、細かな傷にまみれた二尺八寸三分の太刀の姿。それをぐい、と突きだして、
「殺せ」
 短い命令に、背後で兄が息を飲む音がした。
「陰陽師殿っ! おやめください!」
 こんのすけが見かねたように口を挟む。しかし陰陽師はそちらをちらとも見ずに、言葉を続けた。
「なんでもすると言ったのは嘘か」
 視界の端で、手袋に包まれた兄の右手が震えていた。突きつけられた己自身を、受け取るべきか受け取らぬべきか、迷うように右手が何度も宙をさ迷う。はぁはぁと荒くなる呼吸。あ、う、と意味のない言葉が唇からひっきりなしに漏れている。
 これはまずい。薬研は無理矢理身をよじり、声を上げた。
「っ、退け! いち兄!」
「動くなッ!」
 陰陽師の初めて聞く怒声に、びくんと兄の体が跳ねた。兄は“主”に逆らえない。おそらく弟たちのことを頼みにきたこの場面では尚更だろう。けれども薬研を殺すことは兄にはできない。薬研藤四郎もまた、一期一振の弟であるから。
「おゆ……るし、ください」
 ぱた、ぱた、と上から涙が降ってくる。それがまるで今にも崩れ落ちそうな兄の心の欠片に思えて、薬研は唇を噛みしめた。兄を折るわけにはいかない。が、兄をかばって自分が折れれば、兄の心は今度こそ壊れてしまう。
 薬研藤四郎はもう二度と、折れるわけにはいかない。
「……彼も、貴君の弟か」
「は……い。私は折れても、構いません。ですが、弟、は……」
「駄目だ!」
 兄の言葉を遮って薬研は叫んだ。縫い止められた右手が痛むのも無視して、上半身を更に後ろに反らした。陰陽師と目線が合うように。兄を背中にかばえるように。
「あんた! 頼むからここは見逃してくれ! 命令だったら俺っちがなんでも聞く!」
 目の前に迫る白足袋に、すがりつくように頭を下げる。自尊心もなにもない。畳に額を擦り付け、大声を張り上げた。
「この通りだ! 大将!」
 しばらくの間、沈黙が部屋を支配した。
 張り詰めた雰囲気に、知らず流れてくる汗が目に染みる。それでも息を飲む音を立てることさえ躊躇する状況で、頭を下げたまま、薬研はじっと次の言葉を待っていた。
 さすがにはいそうですか、と兄と二人見逃してくれるほど甘くはあるまい。本気で刀を向けたからには、やはり自分は弟たちと同じく刀に戻されるのだろう。だが刀解されないだけましとはいえ、そうなれば兄はどうなる。兄一人助かったところで、他の弟たちのいないこの状況で誰が兄を守ってくれる。記憶の焼けた鯰尾、骨喰は兄弟の自覚が薄く、刀匠の異なる鳴狐は完全には信用ならない。だからといって、粟田口より他の刀は当てにならない。
 せめて、刀に戻すのならば兄も共にと願ってみるべきか。
「……化生(けしょう)にも親兄弟の情はあるか」
 一瞬、誰が発したのかわからぬほど、それは哀しげな声だった。
 思わず起こした視線の先、狐面が泣きも笑いもせずにこちらを静かに見下ろしていた。面が表情を変える訳はないがつい、その顔立ちに変化がないかを探ってしまうほど、先程の声は哀しみに満ちていた。
 人間風情が何を感じようと、今更気にするようなことでもないだろうに。
「なんでも聞くと、そう言ったな」
「あ、あぁ」
 こくりと頷く薬研に、陰陽師は淡々と問いかけた。大広間の時と同じ、事務的な感情の見えないしゃべり方に、一瞬垣間見せた哀しみは、幻だったのかと疑いたくなる。
「そこの兄を殺せと言ったら貴君は殺せるか」
「それ……は……っ」
 殺せるわけがない。言葉につまった薬研を見て、陰陽師は更に言葉を重ねた。
「兄弟と言っても同じ血が流れるだけの他人、ましてや貴君ら妖怪にとっては単に所縁あるだけの存在ではないか」
「……大将、はっきり言っちゃどうだい。俺っちに一体何をさせたいんだ」
 このままでは鼠をいたぶる猫も同じだ。もう陰陽師にも薬研が一期一振を殺せないことがはっきりとわかっているはずだし、また一期一振が薬研を殺せないこともわかっているはずだった。そこを何度繰り返し問われたところで、応えが変わるわけでもない。
 眉間に皺を寄せた薬研を見下ろして、ふむ、と陰陽師は考える仕草を見せた。
「では、兄弟以外なら殺せるか。たとえば、そうだ、三日月宗近を殺せと言ったら」
「三日月の旦那をか?」
 大広間にいる傷だらけの刀剣の姿を思い出す。知らぬ仲ではないが、兄弟を捨ててまで庇いたてする相手ではない。おそらく向こうもそうだろう。
「兄弟以外なら構わんさ。誰であろうと殺してやる。あんたがそう命じるならな。これでいいか?」
 薬研の言葉に、よろしい、と陰陽師は頷いた。
「貴君の兄にも、弟にも、同じように誓わせろ。兄弟殺し以外の命にはすべて従うと。自分に式神として従属を誓うと」
 自分の一存で兄弟の命運を決めることは少しばかり躊躇いもあった。だが、ここで頷かなければ今度こそ、陰陽師は自分たちを折るだろう。
 それこそ、なんの躊躇いもなく。
 一つ、息を深く吐いた後、薬研は陰陽師の狐面の目のあたりをじっと見つめて言葉を紡いだ。
「誓う。この身の折れるまで、藤四郎の眷族はあんたに従属すると、薬研藤四郎の名において誓う」
 言い終わった途端に、ぎゅっと心臓を掴まれたような、強烈な痛みが薬研を見舞った。ぐっ、と小さく息を吐いて、これで本当に逃げられないことを悟る。
 審神者との関係が、ただ刷り込まれた好意によって縛られた臣従というものであったのなら、これは比喩ではなく、まさしく命そのものを握られた隷属だった。逆らうことは死ぬということ。これより先、薬研藤四郎という付喪神の命運は目の前の陰陽師の胸三寸となってしまった。
「動くなよ」
 そんな簡単な命令にも、体は顕著に反応した。爪の先までぴしりと凍りついたように動かない。
 これが式神か、と今更ながらに不安が募る。
「そう怯えなくとも何もしない」
 右の手首を足袋に包まれた小さな足が踏みつけた。わずかに屈んだ陰陽師が、刀の柄に手をかける。
「おい、大将、」
 嫌な予感に慌てて口を開くも、時すでに遅し。手首にかかる重みが増す。そのままの勢いで、陰陽師の肉付きの薄い手が、薬研の手の甲を貫く短刀をぐいと一気に引き抜いた。あまりの勢いのよさに、ピッと狐面にまで血が跳ね飛ぶ。
「……ッ!!!!」
 空気に触れてじりじりと、開いた傷口が焼けたように痛み出す。いまだに背中に乗ったままの兄のせいで、体を丸めて痛みを逃すことさえできない。
 歯を食いしばって痛みに耐える薬研を他所に、陰陽師は呑気とも言える調子でひらひらと短刀をためつすがめつして眺めていた。
「傷が入っている……これは、どうすればいい?」
「アァ……もう、ちょっと見せてください」
 チョコチョコと部屋の隅からこんのすけが陰陽師に近寄ってくる。ほら、と差し出された薬研を見て、あからさまに顔をしかめた。
「まったく、手加減なさらないから」
「自分のせいだと言いたげだな」
「そうとは言っておりません。これは……軽傷ですから、手入れが必要ですね」
「手入れ」
 頭上で交わされる会話は、どうにも心許ない。まるで、初めて刀を手にしたような口振りに、痛みをこらえて薬研は口を挟んだ。
「大将。 まさかとは思うが、あんた手入れは初めてか」
「刀を触ったことはある」
「……つまり、ド素人ってことだな」
 はぁ、とついた溜め息に、不信感がありありとにじみ出ていることを感じとったのだろう。こんのすけが慌てたように尻尾を振り振り、声を張り上げた。
「だ、大丈夫ですよ、薬研殿! 不肖、このこんのすけがしっかりサポートいたしますので! さ、陰陽師殿、手入れ部屋へ参りましょう。一期一振殿に退いてくださるよう言ってください」
「手入れ部屋」
「そうです。手入れを行う専用の部屋がございます。手入れ道具も既に揃っておりますから、まずはご移動を」
「手入れとは具体的に何をするんだ」
 座布団を引き寄せ、陰陽師は床に胡座をかいた。手にした二振りの刀もガチャガチャと床に直接置いて、どう見ても素直に手入れを始める気配はない。納得するまでは頑として動かないという構えに、こんのすけも渋々といった様子で床に座り直した。
「……先に、一期一振殿を退かしていただいてもよろしいですか。さすがに傷にさわりましょうから」
「あぁ」
 陰陽師がひらり、と片手を振る。それだけで薬研の背から重みがひいた。痛む右手をかばいつつ、薬研は体を起こして床に胡座をかいた。手だけではない、背中も、無理に捻りあげられた腕も、どこもかしこも痛かった。兄はいつの間にか部屋の隅にいて、いつもと同じぼんやりとした顔つきで立っている。
「まったく、兄弟殺しなど人倫に悖る行いです。いくらなんでも言って良いことと、悪いことがございますよ。こんのすけも冗談とわかっていつつも、思わず肝が冷えました」
「冗談で言ったのではない」
 なんの温度もない声に、ぐぅとこんのすけが唸った。冗談で済ませたい気持ちはわかるが、この陰陽師は冗談なぞ言うようなかわいらしい人間には到底見えない。黙って先を促す陰陽師にそれ以上の説教は諦めたのか、はぁ、とひとつ大きく溜め息をついて、こんのすけは話を元に戻した。
「……手入れの、話でしたね。手入れというのは、刀剣男士の体力回復の唯一の方法となります。重要な作業となりますので、よく覚えておいてください」
「つまり、自分では気を補えないということか」
「端的に言ってしまうと、そうです」
「聞いてはいたが、いよいよ半端なモノを作ったな」
「大将、あんた、ちぃとばかり俺っち達に当たりが強すぎるんじゃないか。刀に恨みでもあるみたいだぜ」
 狐面がこちらを向く。
「それを言うならば貴君らの方だろう」
 それは――当たり前だろう。最初の主の非道ぶりは大広間の刀剣達の姿を見れば明らかだ。戦にも出さず、ろくに手入れもせず、それどころか。
 黙りこんだ薬研に興味が失せたのか、陰陽師はまたこんのすけに視線を戻す。途中で話の腰を折られた形になったこんのすけの方がよほど薬研を気にしていたが、それでも陰陽師に命じられれば、話を続けないわけにはいかないらしい。
「えー、それでは、こほん。基本的に刀剣男子の手入れの仕方は、日本刀の手入れのそれと同じとなります。陰陽師殿は日本刀の手入れのご経験は」
「ない」
「……ですよね。要約しますと、日本刀の手入れというのは、刀の表面についた汚れを拭き取って新しい油を塗る、という作業でして、具体的に言うと、目釘を目釘抜きで取り外し、柄を外した後、はばきを」
「聞くが」
 床に置いていた薬研藤四郎を手にとってくるりと回すと、陰陽師はその刃にすっと指を滑らせた。細い指が己の上を伝うその様に、思わず目を惹き付けられる。
 最初の主から手入れを受けたことはある。その手が今と同じように己に触れたことはあった筈なのに、その時には感じなかった、魂を直接撫でられたかのような錯覚に襲われて、薬研の背がぶるりと震える。
「そこの子どもは“この”刀の付喪神ではないのだろう」
 そこで漸く、陰陽師が何を言いたいのか理解した。粟田口藤四郎吉光の打った薬研藤四郎は本来たったの一振りしかない、そのことを言っているのだろう。
「そ、それでも、“この”薬研殿は“その”刀の付喪神でございます!」
「これが刀、か」
 陰陽師はそこで何を思ったか、顔全体を覆う狐面を持ち上げた。鼻から下の、顔半分が露になる。白い肌に、紅でも塗ったような朱色の唇。口許に短刀の刃を近づけると、小さな口をわずかに尖らせて、フゥ、と息を吹きかけた。
 変化は一瞬で起こった。
「っ、治ってら……!」
 体の中を暖かい風が吹き抜けたかと思ったら、次の瞬間にはすべての痛みがひいていた。慌てて持ち上げた右手の傷も、痕も残らず消えている。
「手伝い札より早いんじゃないか? 一体、どうやったんだ、大将」
「陰陽師殿! 刀剣男士には刀剣男士の、手入れの仕方というものが」
 感心する薬研とは裏腹に、こんのすけが怒ったような声をあげる。もし仮に、先ほどの動作、単に刀に息を吹きかけるというそれだけの行為で手入れが済んでしまうというのならば、こんなに良いことはないと思うのだが。通常の手入れは、時間もかかれば資材もかかる。それはこんのすけも百も承知の筈で薬研のように感心すれど、目くじらを立てる理由など何一つないはずだ。
「お前の言う手入れは、使役の心得のない者が行う形骸化した儀式だろう。単に気を補うだけならば、その手順になんの意味もない」
「ですが、刀剣男士のみなさまにとっては、慣れ親しんだ手順です。審神者が手づから手入れをすることで交流を図ることもできるかと……正式な手入れの仕方は学んで損はございません!」
「考え違いをされては困るが」
 ふたたび面を被りなおし、顔を隠した陰陽師はなおも言い募るこんのすけをぴしゃりとはねつけた。
「自分は審神者などになる為にこの本丸に赴いたのではない。手入れにしても必要であるからしたまでである」
 そうして、ホラ、と薬研に短刀を差し出す。受け取った自分自身は電灯の白い灯りの下でもキラキラと輝いて見えた。
 刃こぼれどころか、傷ひとつ、曇りひとつないその様は、まるで今さっき鍛ち上げられたかのように美しい。刀だけではない、人の体さえも最初の主の手入れを受けた時よりも、それどころかこの本丸に顕現した時よりも身軽くなったような気がする。陰陽師が言うように、手入れがただの儀式であるのなら、その理論を知る陰陽師のやり方の方が数倍効率的で効果的であっても納得がいく。
「……陰陽師殿」
 言い足りなげなこんのすけを放って、陰陽師は太刀を手に取った。二尺二寸七分に磨上げられてはいても、鉄と鋼でできた刀身はそれなりに重さがある。それを事も無げに持ち上げて、やはり薬研を扱ったときと同じように、くるくると弄ぶ。
「これは?」
「重傷……、いえ、ギリギリ中傷というところですね。……いかがされます」
 刀の状態を確認すると、こんのすけは自分の役目は終わったとばかりにぽすんと座布団に座り直した。もはや、正規の手順で手入れをさせることは諦めたらしい。薬研もこの陰陽師に手入れの仕方を仕込むのは難しいのではないかと思う。
「これを直すのは面倒だな……こちらへ」
 ひらひらと陰陽師が片手を振る。一期一振を呼んでいるのだと気づいて、薬研は慌てて立ち上がった。部屋の隅に突っ立っている兄の手を引き、無理矢理陰陽師の前に座らせる。
 ぺたんと座り込んだ一期一振のぼんやりとした顔を、陰陽師が覗きこむ。
「綺麗な顔の男は嫌いか、と聞いたな」
 その言葉を聞いた瞬間、ざっと全身から血の気がひいた。
 頭のうちから響く、女の高い笑い声。物の壊れる音に、兄の啜り泣く声。
 体を恐怖に強張らせた薬研に気づきもせず、陰陽師は続けた。
「綺麗な男は好きだ。だが――貴君の顔はそれほど美しくはないな?」
 ふふっ、と陰陽師が笑う。おもむろに外された狐面の下から白いかんばせが現れる。朱色の唇、すっと通った鼻筋、やなぎの眉に切れ長の瞳は燃えるような橙。刀剣男士にも負けぬ美貌に、薬研は息を飲む。
 これが果たして、ただの人か。
 美しい人は一期一振の顎をとるとにこりともせずに顔を近づけ、ぺろり、と唇を舐めた。
「なっ……!?」
「陰陽師殿ッ!?!」
 突然の暴挙に、薬研とこんのすけは思わず腰を浮かしかけ、けれども止めようと伸ばした手の先で少しずつ傷が治り始めているのに気づいてはっと顔を見合わせた。そうしている間にも見る間に腕に走った裂傷が塞がり、煤けた肌から汚れが剥がれるように落ちていく。
 そのうちに舐められるばかりだった一期一振の唇がおずおずと開かれて、陰陽師の舌を自分の咥内へと迎え入れた。二人分の舌が絡まり、くちゅり、と水音が狭い部屋の中に響く。次第に熱を帯びていく口づけに、ただただ戸惑っていたのが、段々と気まずさが勝ってくる。なにがどうして兄のこんな姿を間近で見る羽目になったのだか。ちらりと横をうかがえば、こんのすけもまた居心地悪げに俯いて畳の目を数えていた。
 短刀は護身の為に寝所に持ち込まれることも多いとはいえ、いくらなんでも身内の色事を、それもこんな至近距離で見せつけられるなど想定外だ。頭を抱えたくなる弟心をまるで無視して、当事者二人の口づけは更に激しさを増していく。
「んんっ……はぁ、ん……っ」
 絶え間ない水音に混じって、兄の荒い吐息が否応なしに耳へと流れ込んでくる。ぶらりと体の脇に下げられていた筈の兄の手は、いつの間にかしっかりと陰陽師の腕を掴んでいて、今や細い体にほとんど覆いかぶさるようにして夢中で唇を貪っている。陰陽師から始めた口づけだったが、今となっては兄の方が積極的に唇を合わせているようだった。
 こんな兄の姿は見たことがない、いや、むしろ見たくはなかったと、再び現実逃避を始めた薬研の目の端で、兄の手が不埒に動く。
 腕をなでさすり、胸へと伸びた右手に、流石にそれはまずいと薬研が血相を変えるより早く。
「調子に乗るな」
 べりっ、と音を立てる勢いで、陰陽師自身が一期一振を引き剥がした。つぅと、口元から伸びた銀糸を人差し指で乱暴に拭うと、さっさと狐面を被りなおす。隠された美貌に、惜しいと思ったのか、それとも安堵したのか。咄嗟に覚えた感情がどちらだったのか、薬研にはわからなかったが、少なくとも兄にとっては前者だったらしい。赤く染めた頬を隠しもせずに、陰陽師へともう一度腕を伸ばす。薬研は今度こそ立ち上がって、急いで兄を陰陽師から引き離した。
「あるじ、さま」
「貴君の損傷の治癒に十分な気は渡したと思うが」
 先程までの熱烈な口づけが嘘のようにその声はどこまでも冷たい。それでも兄は気にせず笑っていた。相変わらずの浮世離れした、どこかふわふわとした笑顔であったが、その目は確かな熱情を秘めて、目の前の狐面を見つめている。
「誓います。この身の折れるその日まで、私はあなたの傍に侍りましょう」
 まるで愛の告白のような甘さを含んだ兄の言葉を聞いてもなお、ただ、よろしい、と陰陽師は言った。 

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2015/09/03

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