Untitled - anonymous

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「きゃあああああ!」
 ああ、自分もまだこんな、若い娘のような叫び声を上げる事が出来るのだ。頭の片隅で微かに驚きを覚えながら、萩倉翠は近くにあった箒に手を伸ばした。竹製のつるりとした柄をしっかりと握りしめ、目の前の人物に向かって振り下ろす。躊躇などもってのほか。これは、明らかな不審人物に対する、当然の権利たる正当防衛だ。
「はじ……えっ! 痛っ!」
 いきなり部屋の中に現れた若い男は、にこやかな態度で何かを言い始めた途端に箒の猛攻にあい、慌てて頭を抱えて蹲った。翠は黙って、男の後頭部に容赦ない一撃を加え続ける。ちょっとでも油断したら逆襲が怖い。女の一人暮らしには用心深さが不可欠なのだ。大学時代も含めて、もう十年。嫌でも染み付いた考え方だ。今や、本気で心配してくれるのは若干シスコンの入った長兄くらいのものだとしても、だ。
 しかし、箒は失敗だったかもしれない、と翠は思った。埃で、前が、見えない。
 思わず咳き込みそうになった時、これも日頃の行いが良かったからか、インターホンの鳴る音がした。萩倉家を訪れる人間は少ない。お昼前の今頃となればほとんど一人に限られている。
「村上っ……! 不審者っ!」
 出せる限りの大声で、翠は二年来の担当の名を叫んだ。空気と一緒に埃まで吸い込んで、したたかにむせる。もちろん、箒を動かす手は止めない。
「だ、大丈夫ですか……」
 埃の向こうから聞こえる男の声は存外明瞭で、しかもこっちを気遣う余裕まであるとくる。悔しくないはずがない。翠はその方向を睨み付けた。ぶっちゃけ涙目だが、仕方ない。
 ばたばたと騒がしい足音が、段々に近付いてくるのに、すがるように耳をすませた。足音は止まる事なく、唐突に襖を開く音で打ち切られる。
「先生っ! ……って、ぶはっ!」
 村上、埃に撃沈。
「何やって……」
 それ以上は言葉にならなかった。もう駄目、もう無理。翠は箒を手にしたまま、その場に崩おれた。まさか援軍までノックアウトとは、埃、侮りがたし。意識を手放しかけた翠の身体は、畳より柔らかい何かに優しく抱き止められ、
「大丈夫ですか!? マスター!」
 ちょっと待て、マスター、ってなんだ!?

 部屋の換気を十分に行った後、翠は村上の隣で、見知らぬ男と向き合っていた。よくよくみれば無駄に整った顔をした男である。歳は二十代前半くらいか。今は迷子の子供のような、不安そうな表情で俯いている。時折、拗ねたように薄い唇を尖らすのは、どうやら無意識の癖らしい。
「それ止めろ」
 うざいな、と思っていたら、実際に口を突いて出てしまった。これは翠の悪い癖であるが、直せるとも思わないので、今のところ直す気がない。言われた男の方はきょとんとして、それから一気に赤くなった。音が聞こえたのはさすがに幻聴だろう。
「は、はい、気をつけます……」
 何故かフェードアウトする声。どうした不審者。そんな事で他人の家に不法侵入出来るのか。
「まあまあ」
 凝視していると、物慣れた様子で村上が間に入ってきた。村上はにやにやと謎の笑みを浮かべながら、翠の顔を覗き込む。
「先生ー、本当にわかんないんですかぁ?」
「こんな派手な男、一回見たら忘れるはずがないだろう! 初対面だっ!」
 びしりと指を突き付けた先にいる男は、およそ天然とは思えない青い髪と青い瞳を持ち、それが妙に似合うちょっと稀な美貌の持ち主。しかし、夏も本番真っ盛り、蝉の声が痛いほど耳を打つ一方で、だらりと長いマフラーに、所々切り替えの入った白のコートをきっちり着用はいくらなんでもいただけない。あまりにも不自然すぎる。茶色のズボンが見えていなければ、露出狂かと疑ったところだ。……もしかして、髪を黒く戻して、目もカラコンを取れば、意外に知った人物になったりして。いやいや、こんな若い男の知り合いなどいない、と翠は改めて首を振る。大体、顔の造作はそのままなのだから、わからない筈がない。
「ホントに?」
「知らんと言ったら知らん!」
 言い切った翠に、やっと村上は笑みを消した。
「マジですか、先生」
「大マジだが」
「うそん」
 短く呟いた後、何かに思い当たったように、はっ、と村上が息を飲んだ。その深刻な表情に、翠も思わず姿勢を正す。
「まさか……先生」
「な、なんだ」
「ついにボケちゃっ……イテッ! 何すんですか!」
「馬鹿も休み休み言え!」
「でも、今、多いらしいですよ、若年性痴呆症とか。特に先生の場合、三十路カウントダウンが迫ってきてるのに未だ彼氏の一人もいる気配無いし……」
 片手を頬に当て、村上がわざとらしく溜め息をついた。まだ二十代の筈だが、仕草が妙におばさん臭い。
「余計なお世話だ」
「いや、これでも心配してるんですよ? 心から。でもそうか、先生は二次元に興味があったんですね……ある意味納得」
「……は?」
 村上の言っている事がわからず、翠は思わず間抜けな声を出した。二次元ってなんだ。あれか、点と点を繋いだら線になって、線と線を結んだら面になるあれか。
「もー、いい加減、認めて下さいよう。これ、ボーカロイドでしょう?」
 村上がこれ、といって指差したのは、半ば放置状態になっていた、件の不審者である。いきなり話題にされて戸惑ったのか、しきりに瞬きをしている。よく見ると睫毛まで青かった。やけに本格的だ。
「そうだよね? 君、ボーカロイドだよね?」
「あ、はい、俺は男声型ボーカロイド、KAITOです。はじめまして」
 男はぺこり、と頭を下げた。
「……かいと?」
「ちょっとー、しっかりして下さいよ、先生。自分でインストールしたんでしょ? わかりますか? イ・ン・ス・ト・オ・ル。パソコンにCDを……」
「……あぁっ!」
 老人向けのパソコン講座みたいな口調になってきた村上の言葉に、一気になにかが繋がった。翠はいきなり立ち上がると、つかつかと部屋の片隅に設置したパソコンの方へ歩いていく。大量の本や紙切れに囲まれた中に、それは、あった。
「あ、パソコン変えたんですね」
 純和風の家の造りに馴染む、使い込んで艶の出た文机。その上に置かれた新品のデスクトップパソコンは不釣り合いの一言である。そして、その画面には。
「……ばっちりインストール完了してるじゃないですか」
「里佳が、これもインストールしろって、一緒にCD-ROMだけ送ってきたんだ……」
 現在大学三年生、目下就活中の身である妹の名前を口にして、翠は一枚の紙を村上に差し出した。セットアップの方法について書き込んであるそれの下方に、確かに「付属のCD-ROMをインストールすること」と書いてある。共に渡された空のCDケースはなんの装飾もないシンプルな物で、どうやらわざわざ入れ換えたらしい。なんの前置きもなしに、いきなり若い男が出現するのだ。どっきりにしたって、心臓に悪すぎる。
「……だがしかし、なんで人間が出てくるんだ」
「人間じゃありませんってば。ボーカロイドですよ」
「ボーカロイドだかアンドロイドだかアンゴルモアだか知らないが、どうして実体があるんだ。おかしいじゃないか。いつの間に日本の科学はそこまで進歩したんだ」
「流石にアンゴルモアは時効です……って、そんな事、俺に聞かれたって知りませんよ。本人に聞いて下さい」
 翠の視線に促され、カイトが喋り出す。話の前に軽く咳をする所など、変な所で人間臭くて、これがプログラミングされた人工物とは到底思えない。喋っても美形とは、なんともはや、羨ましいを通り越していっそ妬ましい……ではない。ということは、いつの間にやら、先進科学技術は不気味の谷まで制覇したのだな。いや、不気味の谷はロボット工学だから関係ないか。
「えーっと、詳しい説明は結構専門的になっちゃうんですけど……」
 滑らかな口調で話し始めたカイトは、そこで一旦言葉を切った。窺うような眼差しは、人間そのもの、というか、空気が読める分、そんじょそこらの人間よりハイスペックかもしれない。感心しつつ、翠は村上に顔を向けた。ここ数年、身内以外は村上としか話していないせいか、なんだか妙に気恥ずかしいのだ。いや、ただでさえ何か、キラキラしているし。
「だって。村上、お前、理系だっけ?」
「俺の最終学歴はアホ大の史学部卒です。先生もご存じでしょ?」
「私は日本中世文学専攻の大学院卒だ」
「ばりっばりの文系ですね。そういえば、この前、テレビで言ってたんですけど、結婚相談所で最後まで残るのって、高卒男性と大学院出女性なんですって」
「不満なら、私じゃなくて上司に言え」
「やだなー、先生の下で不満なんかあるわけないじゃないですかー」
 けらけらと声を立てて村上が笑う。村上の言動はいつもどこか胡散臭い。
「……説明始めても良いですか?」
 やけに疲れた口調で、カイトが言った。

 かくかくしかじかふんふんはあはあなるほどなるほど。
「……で、つまりどういう事だ?」
「さぁ、偏差値は先生の方が高いんだから俺に振らないで下さいよ。よっ、頭脳労働者!」
「それは褒めてるのか?」
 曖昧な笑みで村上が答えを誤魔化す。こんな風で出版社勤めなんか出来るのか、とたまに翠は本気で心配になる。しかし、もう二年になるがリストラされる兆しはない。出版業界には不況の波がモロに来ているというのはガセだったのか。
「つ、つまり、超高音波により空気中の電子に振動を与え……」
「で? 結局、お前は何が出来るの?」
 無謀にも再度の説明に挑戦しようとしていたカイトの言葉は、簡単にスルーされた。心なしか寂しそうだ。全く手が込んでいる。
「歌が、歌えます」
「……は?」
「えっと、ボーカロイドというのはデスクトップミュージック製作を目的とした音声合成エンジン及びミキサシステムの複合ソフトなんです。音声合成には周波数ドメイン歌唱アーティキュレーション接続法を使用しているので、より人間に近い、自然な歌声が得られるのが最大の特徴です」
 翠の困惑を別の物と勘違いしたのか、すらすらとカイトは製品紹介を述べ始めた。呆気にとられている翠を余所に、カイトはふわりとはにかむような笑みを見せる。
「俺、マスターの為に精一杯歌います。これからよろしくお願いしますね」
 下げられた頭。人ではあり得ない青い髪が、さらりと音を立てて流れた。

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2019/10/15

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