Vexations - Erik Satie

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 歌うしか能のない機械に食わせる電気代はない。
 起動早々箒で叩かれ、不審者呼ばわりされ、危うくアンインストールされかけた挙げ句の果ての能無し発言。ボーカロイドから歌を取ったら、一体何が残るのだろう。存在全否定も良いところだ。
 それでもカイトは引き下がった。炊事洗濯掃除に庭の水遣り、回覧板でも犬の散歩でもなんでも遣ります、だからどうかここに置いて下さいと泣きすがった。実際のところ、萩原家の庭は放置状態で水遣りなど必要なかったし、回すべき回覧板は存在しなかった。唐突に立ち上がった翠の、ちょっと犬買ってくる、の嫌がらせにも、犬アレルギーの村上による必死の説得で事なきを得た。
「マスター、おはようございます」
 そうして、夜が明けた。
 朝八時、前日の指示通り、翠を起こしに部屋へ向かう。何故か遠くに転がっている目覚まし時計を乱暴でない仕草で止め、柔らかい口調で目覚めを促す。
「……あと、一分」
 もぞもぞと、更に布団の中へ潜り込みながら翠が弱弱しく寝言を言う。カイトは少し眉を下げ、困った顔を作りながらも、言われた通り一分待った。
「一分経ちました、マスター」
「うそだ」
「嘘じゃありません」
 一応、体内時計には自信がある。歌を歌うには、正確な時間設定が必要とされるのだ。
「起きて下さい、マスター。朝食が冷めてしまいますよ」
 そう言って、待つ。ちゃんと聞こえているだろうかと、カイトが不安になった時、くぐもった声が聞こえてきた。
「……起こして」
「え」
「起こして」
 二回言った。はっきり言った。これは寝言なのだろうか。いや、ほとんど間違いなく寝言だろうが、本気にしても後で怒られない寝言だろうか。手を出しかねているカイトの目の前で、布団がまるで、別の生き物のようにくねった。
「はーやーくー」
 カイトは、覚悟を決めた。
 べりっ、と布団を素早くめくると、中央付近に縮こまっていた翠の上体を起こさせて、そのまま持ち上げるようにして立たせる。うとうとと舟を漕ぐ頭が、時折ぐらりともたれ掛かってくる度に支えながら、手早く服を整えた。寝間着にしているらしい浴衣は幸いさほど乱れてはおらず、合わせを軽く引っ張るだけでなんとかなった。布団は後で畳む事にして、ふらふらと揺れる翠の手を引き、カイトは洗面所へ向かう。蛇口を捻ってぬるま湯を出すと、タオルを濡らし、優しく翠の顔を拭った。おとなしくされるがままになっている翠が、気持ちよいのか目を閉じたままふわりと笑う。
 どきりとした。
 昨日はずっと不機嫌な顔をしていた人。笑う事などないと勝手に思っていた。少なくとも、自分の前では、このままずっと笑ってくれないのじゃないかと。
 笑うと自分より、幼く見えるのに気付いて、不安で一杯だった昨日より、もっと苦しくなったのは、どうして?

「はい、あーん……」
 優しく促す声がする。ぼんやりともやのかかった思考のまま、翠は素直に口を開いた。小さくほぐされた魚の身が、口内に滑り込む。反射のように口を動かすと、噛み締めた先から、適度な塩味と旨味が広がった。美味しい、と呟くと、誰かが良かった、と笑う。なんだか体がふわふわするのを、強くはないがしっかりとした力で支えられる。こんなに甘やかされたのは久しぶりだ、と思う。誰だろう、この、優しい手の主は。
「……おかあ、さん?」
 心当たりを口にして、うっすらと目を開く。

 瞬間に、逃げたくなった。

 翠とカイトは見つめあったまま、しばし固まった。ご飯茶碗を持ったままスタンバイしているカイトに、先ほどまでの声の主は紛れもなく目の前の青年なのだと思い知る。翠はまさかの夢オチを切望した。
「あ……あの……マスター?」
 というか、起きた記憶もないのに、なんでここまで移動しているんだ。うん、夢だ。夢にちがいない。っていうか夢でないと怖い。
「マスター、起きられたんですか?」
 顔を覗き込まれて、翠は頭を抱えてうずくまった。
「......ばか」
「 え、 え!?」
「何してんの、お前……」
 眉を寄せて困った顔を作った後、カイトは口を開き、何も言わず、閉じた。窺うように視線を寄越され、途端に気分が悪くなった。
「言えば」
 自分でもびっくりするくらい、低い声出た。カイトも目を見開いて翠を見つめている。気まずくなって、顔を逸らす。言い訳のように言葉を接いだ。
「私が怒るとか、喜ぶとか、そういうのは私が決めるよ。だから、お前の勝手な憶測で言葉をしまいこむのはやめろ、苛々する」
 言い終わると同時に、嬉しそうにカイトが笑った。
「じゃあ言います。マスマーが言ったんですよ? 起こせって」
 咄嗟にカイトの方を向く。 馬鹿にするでもなく、無関心を装うでもなく、ただにこりと笑うカイトがそこにいた。頬が一気に赤く火照るのが自分でもわかった。
「なっ……だっ……おっ……!」
「マスター、落ち着いて喋って下さい、ね?」
「だ、だって、お前、普通はしないだろ! その、いくら私が言ったからって……!」
「マスターがいくら言っても起きてくれないからです」
 余裕のある笑みでゆるりと笑うと、カイトは右手を伸ばしてきた。思わず身を引いた翠の後を追って、口の端にそっと触れて、去っていく。
「付いてます」
 口元に寄せた指先を、ぺろりと舐める舌が赤すぎて、翠は思わずカイトを殴っていた。

「お邪魔しまーっす……って何歌ってるんですか? それ」
 昼飯を漁るつもりで、ちょうどお昼前に現れた村上は、玄関先まで現れたカイトに向かって首を傾げた。カイトは回ったような笑みを浮かべるが、村上の問いに答える事はなく歌い続けている。不思議に思いながらも、村上は促されるまま家に上がった。
「先生ー、歌わせる予定なんてないって言ってたのに、気が変わったんですか?」
 そんなに暇なら、その分早く原稿上げて下さい、と続けようとしたところで、ひょいと廊下の角から翠が現れた。不機嫌オーラ全開の翠に、村上はぎょっと足を止めた。
「な、なに怖い顔してんですか、先生。婚期逃しますよ」
「うるさい、村上。ただ飯食らいの癖して」
「いつもに増して機嫌悪いですね。あ、まさかあの日……」
「帰れ。今すぐ帰れ。即行帰れ」
「や、やだなー、冗句ですよ。じょーく! ……マジでどうしたんですか?」
 何も答えず、部屋へ戻ろうとする翠の背に、冗談めかして言い掛ける。
「まさか、ボーカロイド相手にどーにかなっちゃった、とか?」
 びくり、と翠の背中が見てわかる位大きく跳ねた。思わず、マジかよ、と呟く。
「え、えーっと」
「別にやましい事は何もない! 何もないから!」
「……まぁ、人生色々ありますよね。うんうん」
「慰めモードに入るなあああ!」
 不意に翠が口をつぐんだ。視線の先をたどると、カイトにこにこしながら立っている。対照的に、翠の顔からは見事に表情が抜け落ちていた。
「……ご飯出来たの?」
 口はずっと動かしたまま、カイトはこくりと頷いた。そのまま踵を返し、去っていく。姿が消えた途端、変な声を出しながら、翠がへなへなと床に崩折れた。
「めっちゃ緊張してるじゃないですか、先生」
「……目が覚めたら、男にあーん、って飯食わされてたらどうする?」
「あ、なーんだ」
 途端、村上がつまらなそうに口を尖らした。
「それだけですかー?」
「お前、それだけって……、何を期待していたんだ! 吐け! 吐いてしまえ!」
「きゃー、暴力反対ー」
「きゃーとか言うな、気色悪い」
 ぎゃあぎゃあと騒ぎながら、二人は居間へと向かう。すでに食卓には、昼食の用意が完璧に整えられていた。氷の浮かぶ器に盛られた素麺は目にも涼しく、美しい。各々の席の前には、だしの入った小ぶりの器と、薬味、天ぷらとだし巻き卵の載った皿が並べられている。
「お、美味しそうじゃない」
 先に座っていたカイトはやはり、相変わらず歌を歌っていた。村上の言葉にも、笑顔のまま頭を下げるに止める。ふ、とおかしな事に気付いて、村上が首を傾げた。
「なんで同じ歌、歌ってるの?」
 カイトが誤魔化すように笑みを深めた。翠へと視線を移すと、素麺をすすり、素知らぬふりを決め込んでいる。
「先生ー、どうしてですかー?」
 ねえねえ、としつこく迫れば、翠は思いっきり嫌そうに顔を歪める。それでも続けていると、唐突に箸置いて、部屋を出て行ってしまった。いくらも経たないうちに戻ってくると、一枚の紙をひらりと村上の方に放って寄越した。
「なんですかこれ……楽譜?」
 少し黄ばんだ古い楽譜。何人もの手を経てきたような。
「先生、楽器する人でしたっけ?」
「私のじゃない、祖父のだ」
「そういえばこの家、お祖父さんの物だったんでしたっけ」
「他にも色々ある」
 頷きながら座り直すと、翠は近くの紙の山から、また別の楽譜を取り出して見せた。同じような紙の山は家のあらゆる場所にある。全てが全て楽譜では無いだろうが、集めればかなりの量になるだろう。
「先生のお祖父さんって、何してた人でしたっけ」
「売れないピアニスト。金持ちのパトロンがついてたから、生活には困んなかったみたい」
「で、先生はその遺産で売れないエッセイストやってるわけですね」
 うんうん、と勝手に納得してみせる村上を余所に、翠は昼食を再開する。
「で、これなんなんですか?」
「何って何」
「楽譜です。何て読むんですか、これ。しかも、随分短いみたいですけど」
 角張ったゴシック体で印刷されたタイトルらしき文字列を村上が指差す。ちらり、と翠はそちらに視線を遣ると、
「ヴェクサシオン」
 短く、答えた。
「ふーん……誰ですか」
「サティ」
「あぁ、ジムノぺディだ」
 カイトが聞き慣れたフレーズを、繰り返し歌っている。
「基本メロディ自体は一分と短いが、それを八四〇回繰り返す事で完成する」
「八四〇回……って、十四時間!?」
 それ、完璧な嫌がらせですよ、と村上が呟く。ちょうど食べ終わった翠が、手を合わせ、立ち上がった。見下ろす姿勢で、にやりと笑う。
「当然だ。ヴェクサシオン――嫌がらせ、だからな」
 残された村上の前で、歌い続けるカイトが食器を集める。嫌がらせ、という割には嫌がっている風はない。大体、ボーカロイドというくらいなんだから、歌うのか苦痛な訳がないのだ。翠は、妙なところで抜けている。そして多分、カイトもこれが不器用な照れ隠しである事に気付いている。
 先生の面倒くさい性格を理解出来るのは、身内以外じゃ自分くらいだと、こっそりと自負していたのに。
「……ちょっとむかつく。先生も気にしなきゃ良いのに」
 伸びきった素麺をすすりながら、村上がぼやく。軒先に吊るされた風鈴が、ちりん、と高い声で答えた。

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2019/10/15

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