Prelude Op.28, No.15 - Frederic Francois Chopin

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 翠が実家に帰ることになった。とは言っても一時的な物で、どうやら兄に泣きつかれたらしい。シスコン野郎が、と毒づいていたので、良いお兄さんじゃないですか、と言ったら頭を叩かれた。カイトのマスターは、手加減という物を知らない。
「さすがに今回は連れていけないぞ」
 翠の言葉に、カイトは素直にこくりと頷いた。元々、あれこれと外出するようには作られていないのだ。この間はなんとか大丈夫だったものの、本体であるパソコンから離れれば、存在が難しくなる。それくらい、カイト自身も承知している。
 しかし、あまりにあっきり頷いた為だろうか、翠の方が何度も、それで良いのか、と開いてくる。良いわけがない。一緒にいたいに決まっている。でも、物理的に無理なら、諦めるしかない。それとも、行かないでくれと言ったら、この人は側にいてくれるのだろうか。そこまで考えて、カイトは首を振った。翠を困らせたいわけではない。自分が我慢すれば済むことだ。それもほんの三日間。
「本当に、良いのか?」
 顔を覗き込んでくる翠に、心配ないと伝えたくて、カイトは微笑んでみせる。
「大丈夫です。――ただ、」
「ただ?」
「パソコンを、点けたままにしておいてくれませんか」
 なんだ、そんなことか、と初めて翠は安堵の表情を見せた。
 俺にとってはそんなこと、じゃないんですよ、マスター。
 心の中で、カイトはそっと呟く。
 せめて、あなたと同じ、空気の中に存在したいんです。

 トランクに着替えを詰めて、翠は旅立って行った。玄関先まで見送りに出たカイトを、何度も何度も振り返って、行ってしまった。昨日の翠はくどくどと、怪しい人物が来ても入れないようにとか、使わない時はガスの元栓を閉めるようにとか、夜は戸締まりに気をつけるようにとか、そういう子供に言い聞かせるような諸注意を並べ立てていたくせに、まだ心配でならないらしい。大体、こんな山の中まで訪ねてくるのは村上ぐらいのものだし、人間でないカイトがガス中毒になる筈もない。それでもまるきり的外れな忠告を、カイトは黙って聞いていた。翠に心配されているという事実が、嬉しかった。
 翠の後ろ姿が見えなくなって、ようやくカイトは家の中へと取って返した。この三日間はちょうど良い機会だから、家の大掃除をするつもりだった。萩倉家の至るところ、古びた楽譜や草紙、書き付けの束が山のように積み上げられていて、普段はとてもじゃないが手が出せない。これを機に、虫干しを済ませ、埃を一掃する腹積もりだった。
 そうと決まれば急がねばならない。三日あると言っても、余裕は無いのだ。カイトは腕捲りをすると、早速作業に取り掛かり始めた。

 ボーン、ボーンと十二回時計が鳴って、カイトはふと、昼食の用意をしていない事に気付いて青ざめた。慌てて台所に走る。手早く出来る素麺にしよう、茄子の揚げたのを添えて、と考えながら、鍋を火にかけた所で、はたと翠がいないことを思い出した。ごぽり、と音を立て、排水口に飲み込まれていく冷たい水を見ながら、カイトは知らず知らずのうちに唇を噛みしめていた。

 一心不乱に掃除を進めて、室内がいやに明るいことに気付いて顔をあげると、夜が白みはじめていた。いつもならば、翠に合わせて一応スリーブモードに入っている為、こんなに連続して活動したのは初めてだった。疲れることも、ましてや眠気とも無縁だから、本来はスリープモードなど無駄な時間なのだが、何故か、満足感もなく、薄っぺらな時間を過ごしてしまったような、虚しさだけが胸に巣食う。
 原因は明白だ。
 翠がいない。まだ一日も経っていないのに、こんなに、苦しい。

 不意に表情を消して、カイトは村上を見つめた。笑みを浮かべながら、村上は不思議そうに見返してくる。
「村上さんにとって、俺ってなんなんですか」
「何を聞くかと思ったら……嫉妬?」
「ちゃんと答えて下さい! 村上さんは……村上さんは、マスターのことが、好き、なんですよね?」
「好きだよ」
 びくり、と大きく、カイトの体が跳ねた。自分から聞いたくせに、まるで予想外の回答を寄越されたように焦っている。そんなカイトの様子を見て、村上は溜め息を一つ、ついた。
「君が聞いてる、好き、じゃないかもしれないけどね」
 それを聞いて、のろのろとカイトが顔を上げた。村上は目の前の蕎麦を左に押しやって、テーブルの上に上体を乗り上げた。ぐい、と一気に距離が狭まる。
「でも、友情とか恋情とか、憧れとか……そんな大進把な区分で、ぶった切れる程、単純な神経してないから。大体さ、愛してる、は必ず、好き、に勝つの? 誰かの、好き、は、誰かの、愛してる、より、ずっと強いかもしれないのに」
 吐息が感じられる距離まで詰められて、気圧されたカイトはぴくりとも動けない。すぅ、と村上の目が、値踏みするように細くなった。
「周りを気にするより、もっとすること、あるでしょ」
 それだけ言うと、村上は体勢を戻し、昼食を再開した。ずずっ、ずずっ、と蕎麦をすする音が聞こえる。カイトはへなへなと力無く、畳みへ崩れ落ちた。
「あ、ちなみに言っとくけど、俺、彼女いるから。いやー、これがまた程好く清純、程好く小悪魔のロリ顔巨乳なんだよね。俺的ストライクど真中。今世紀最大のクリーンヒット。ぶっちゃけ萌々です」
「……それはぶっちゃけ過ぎです」
 呆れたように突っ込みを入れるのと、村上がごちそうさまを言うのはほぼ同時だった。ここは立ち食い蕎麦屋ではない。早食いは将来のメタボへの布石だぞ、と思いはするものの、カイトは口には出さなかった。
「ふーっ、腹もくちくなったし、午後の営業行きますかー」
 立ち上がり、何事もなかったかのように襖へと向かう村上の背に向かって、カイトは再度問いかけた。
「じゃあ……村上さんにとって、マスターってなんなんですか」
 襖にかけていた手を離し、くるり、と振り返ると、村上は口角を上げた。得意気に。
「俺は、作家萩倉翠の一ファンで……萩倉翠の幸せを願う会副会長、だよ」
 さも当然、という風に、言ってのけた。
「あ、ちなみにシスコン兄貴こと会長は、俺なんか足下にも及ばないくらい手強いから、覚悟しときなね」
 そう言って、村上は楽しげな笑い声を上げて去っていった。

 夜から雨が降りだした。ぽつりぽつり、がばたばたと地面を叩く音に変わり、そうして少しも経たないうちにさぁーっと無音にも似た音の集合になった。
 大掃除も、結局徹夜で済ました為、ほとんど一日で終わってしまった。手持無沙汰でいれば、余計に耳につく、雨の音。それだけが静かに響く。
 窓を閉めていても、どこからかするりと滑り込んで来て、雨音はカイトの意識を揺らす。空気は微妙に湿っぽくて、重く体にまとわりつくよう。畳も水を含んで、ひんやりと冷たい。板張りの廊下はしっとりと艶めいて、奥の方から柔い光を発しているようにも見えた。
 朝になるまでに、上がると良いな、とカイトは思った。
 あちこちに出来た水溜まりで、マスターが困らないように。
 とても寒いので、押し入れから布団を引き出し、丸くなる。眠くなる筈がない、寒くなる筈がない。人間ではないのだから。それでも、体を縮めて、布団を被る。目が覚めたら、マスターが帰ってきていると良いのに。

 流星のように降る雨が、メロディを歌う。聞き覚えのある曲だと、カイトは耳を澄ませる。
「雨だれ、か」
 笑いを含んだ翠の声が、はっきりと思い出せる。
「以前、祖父が話してくれた。昔、ピアノの上手い男がいて、愛した女と住んでいた」
 ある日、女は出かけていったが、その内、雨が降りだした。雨はどんどん激しくなり、男は女が水かさの増した川で溺れてしまったから帰ってこないのだろうと、そう思って終いには泣きだした。
「そうして出来た曲なのだそうだ。滑稽だからか、これだけはよく覚えている」
 あの時、翠は笑って、カイトも笑った。今は、男の気持ちがよくわかる。

「カイト?」
 布団にくるまり、小さく小さく口ずさむ。ぼんやりとした意識の中、愛しい声とふわり、と小さな重みが降ってくる。
 歌うのをやめて、言葉を発した。
「……マスター?」
 これは、夢だろうかと、馬鹿なことを考える。眠ることのない体は夢を生み出さない。それでも、翠が帰ってくるには、まだ早い。夕方頃に帰ってくると言った。瞼の裏で感じる明かりは白い。
「マスター……好きです」
 目を閉じたまま、カイトは呟いた。
「好きです。大好き。愛してます。傍に、いたい。ずっと、マスターがお婆ちゃんになっても、ずっと、傍において下さい」
「……そしたら、老人介護でもしてくれるの?」
 ぽつり、と返事が落ちてくる。
「します。なんでもします。……マスターは、俺のこと、好き?」
 しばらく間が空いて、また、ぽつり。今度は冷たい手と共に。
「好き、だよ」
 カイトはゆっくりと目を開けた。青い目が、柔らかく形を崩す。
「ねぇ、マスター」

雨が、止んだら――

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2019/10/15

おわり

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