Wiegenlied Op.49, No.4 - Johannes Brahms

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 ジリリリ、と高い音が廊下を走る。掃除をしていた手を止めて、カイトは電話を取りに走った。この家に暮らし始めてもう数週間になるが、電話が鳴るのを聞いたのは初めてだった。床に積み上げられた紙の山を上手く避けながら、手を伸ばして受話器を取る。
「もしも」
「あっ、翠! あたし、あたし、木皿、覚えてる? 大学院で一緒だった! 久しぶりー、元気? それでさー、これ、馬場から聞いたんだけどー、上崎教授覚えてる? あの人さ」
 スピーカーから、怒涛のように言葉が流れ込む。口を挟む隙間もない。それでもこのままではさすがに不味かろうと、カイトは無理やり声をねじ込んだ。
「あのっ」
「……あれ、翠じゃない?」
「ええっと。ご友人の方でしょうか? 今、代わりますね」
  マイクの部分のを手で覆って翠を呼ぼうと首を回す。すると、すでに後ろに立っていて不機嫌な顔で手を差し出していた。
「……もしもし? あ、サラか。……は? 旦那? 冗談じゃないし」
 話しながら、片手で追い払われる。ちょっぴりいじけながら廊下を後にするカイトの耳を、翠の硬い声が追い掛けた。
「 ……死ん、だ?」

 電話を終えて居間に戻って来た翠はどこかおかしかった。お茶、と言ったきり、ぼんやりと窓の外を見据えている。 ことり、と音を立てて置かれたグラスにも、気付いていないようだ。強い日差しが、庭の木立からくっきりと濃い影をつける。
「……マスター」
 声をかけても、振り向かない。
「マスター、さっきの電話、なんだったんですか?」
 うだるような暑さの中、忙しなく啼く蝉の姿を見つけようとでもするように、じっと庭を睨み付ける。翠の白い喉を、玉の汗が、滑り落ちる。
「マスター!」
 一際大きな声を出せば、やっとびくりと肩を揺らした。驚いたようにカイトを見て、それから卓の上に置かれたグラスに目を落とす。何度か瞬きした後、あぁ、と小さく呟き、何かを誤魔化すように慌てて口に運ぶ。今にも取り落としそうな危うい手つきに、思わずカイトは手を伸ばした。
「危ないです、マスター」
 包んで、気付く。
「……震えてる?」
 かっ、と翠の頬に朱が上った。振り払うようにグラスを置くと、突然に立ち上がる。急な運動についていけない華奢な体かふらりと傾いだ。つられて立ち上がったカイトが、手を伸ばすが、今度は、避けるように払われた。
「表服、どこに仕舞ったかな」
 独り言のように呟いて、翠がわざとらしく目を逸らす。立ち去りかける背に向かって、カイトは思わず声をかけた。
「誰、ですか、亡くなったって」
「お前には関係ないよ」
 明らかな拒絶の言葉に、カイトは目を見開き、動きを止める。少しずつ、近付いたと思っていた距離は、実は自分の思い上がりでしかなかったと、はっきり示されたようだった。カイトの動揺が伝わったのだろうか。翠は瞬間、視線を揺らしたが、結局背を向けて部屋を出ていく。
「言っても、わからないよ。お前の知らない人だから」
 優しく諭すように、しかしどこか言い訳のように溢された言葉は、かたりと襖の閉まる音で、無理やりに打ち切られた。

「おじゃましまーす。貴女の村上が昼飯たかりに来ましたよーう」
 実に図々しい科白と共に、玄関の戸がかたんと開く音がした。翠が応じる様子はない。もしここで、嫌そうな顔をしながらも出てきても、やっぱり悔しいに決まっているけれど。カイトはテーブルに顔を伏せたまま眉を寄せた。
「あれー、いないんですか?」
 自分が出ていくべきだとわかっているが、動きたくなかった。そうこうしている内にばたばたと廊下を歩く音がして、からりと襖が開けられる。
「先生は?」
 むすりと不機嫌な顔を作ったまま、カイトはのろのろと視線を上げる。胡散臭い笑顔と瞳がかち合う。
「…….探し物中です」
「ふーん。ちなみに今日の昼食は?」
「……ぶっかけうどんです」
 結局そんなことしか気にならないのかと、力イトが溜め息を吐いた時だった。
「てゆーかさー、悩みがあるなら、聞かないけど」
 ぺたりと畳に座り込み、テーブルに肘を突いた村上が嫌そうに言った。いつも浮かべている得体の知れない笑みが引っ込んでいる。
「聞かないんですか」
「だって、君、今すっげー聞いてくれオーラ出してるじゃん。正直うざい、っていうか」
「度量の狭い男は嫌われますよ」
 対するカイトも遠慮がない。男二人でしばし睨み合った後、先に根負けしたのは村上だった。大きく大きく溜め息を吐いて、降参、とでも言う風に片手をひらひらと振る。
「あーもう、わかったわかった。お兄さんがなんでも聞いて差し上げましょう。何々、まさか、今、先生が探している何かが不機嫌の原因でーす、とか言わないよね? 中学の時の憧れの先生の写真だったり、高校時代にもらったラブレターだったり、大学で出来た初めての彼氏と行った奈良旅行のお土産だったりとか言わないよ、ね?」
「全く違うけど意味的に近い所突いてる感じです……って、奈良旅行ってなんですか!? ラブレターって!? なんでそんな事知ってるんですか!」
「いや、ぶっちゃけ想像ですけど。先生、仏像オタクだし。藤里毘沙門天は俺の嫁、だし。旅行なら奈良か東北かなー、って」
「ぶ、仏像オタク……」
 はっきりした目鼻立ちを持つカイトにとっては、衝撃的な事実だった。思わずぺたぺたと自分の顔を触り出したカイトに、村上が面倒くさそうな目を向ける。
「で、結局、何探してんの?」
「……喪服です」
 カイトの返答を聞いて、少しの間考えこんでいた村上だったが、はっとした様子で顔をあげた。
「ま、まさかの喪服デート?」
「ちょっと黙っててくれますか」
「うわ、ひどーい」
 けらけらと村上が笑う。相変わらずの不真面目さに、さすがにカイトも後悔し、話を打ち切ろうと口を開く。
「もう、い」
「何、それじゃ、死人に嫉妬してるの? マジウザいね、君」
 唐突に、村上の口調が変わった。一気に部屋の温度が下がる。視線の高さは大体同じ筈なのに、見下されているように、感じられる。
「死人に勝てる訳ないじゃん。あっちはちはもう思い出。良い事ばーっかズームインで、失敗、欠点はそういえばそんな事もあったわね、 で微笑ましいエピソード扱いされて終了。もう死んでるからこれ以上仲が悪くなる事もない。言うなれば、一種の偶像崇拝ってトコ?」
「違う! そういう事じゃなくて……!」
 まくし立てる村上に向かって、カイトが言いつのる。
「そんなんじゃ、ないです。ただ、マスターが、何にも話してくれない……から」
「俺だって知らないよ、先生の交友関係なんか。今だって、超シカトされてるし」
 呆れたように、だが先程よりは幾分か優しい声で、言い聞かせるように村上は言った。しかし、カイトはむずがる子供のように首をふる。
「でも、だって、村上さんは俺よりずっとマスターと一緒にいて、マスターの事も知ってて……」
「俺が羨ましい?」
 テーブルに頬杖を突いたまま、村上が聞いた。一瞬呆気にとられたカイトだったが、しばらく考え込んだ後に、素直に頷いた。
「羨ましいです」
 真っ直ぐに見つめられながら言われた言葉に、村上は虚を突かれたように固まったが、すぐににやりと笑みを浮かべた。そのまま手を伸ばしてぐちゃぐちゃとカイトの青い髪をかき回す。
「そーかそーか。素直で結構。嫉妬するなら俺にしときなさい。十倍健全だから」
「や、やめっ、やめてくださいっ!」
「だからって、君に話すことは何にもないけどぉ!」
「なんですかそれ! けち! いけず!」
 ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てるカイトを村上がのらりくらりと言いかわす。 唐突にかたん、と襖が開く。
「何やってんの、お前ら」
  黒のワンピースを片手に翠が現れた。呆れ返った視線を向けられ、カイトは慌てて髪を直す。絡まった髪はそう簡単には戻らない。そんな中、にやにや笑いを続けていた村上が口を開いた。
「先生ぇー、カイトくんも連れていってあげてくださーい。さっきから拗ねちゃって、手に負えないんですけどぉー」
 なんてことを言うのだ。さっ、とカイトは顔を赤くした。ワガママだなんて、絶対に思われたくない。いつでも聞き分けのよい、翠にとって面倒臭くない相手でいたかった。村上を睨み付けようとして、不思議そうな顔をした翠と視線が合う。
「行きた」
「お昼にしましょう! すぐに持ってきますね!」
 翠の言葉を、遮るように立ち上がる。 襖に手をかけた時、村上の声が追ってきた。
「俺は共有なんてしないんだよ、カイトくん」
 振り返れば、思いの外、村上は真面目な顔をしていた。
「欲しいものは、自分で手にいれなくちゃ」

 予想に反して、意外とあっさりと翠はカイトの同行を許した。条件も、普通の恰好をする事と、青い髪を隠す事、外ではマスターと呼ばず、翠と呼ぶ事。それだけだった。
 村上が文句を言いながらも用意してくれた、黒の鬘と喪服を身に付けてカイトは初めて萩倉家の外へと出た。普段は庭までしか下りたことがなく、翠と村上以外の人間を見たこともない。楽しみなような、不安なような、複雑な気持ちだった。
「行くよ」
 翠の声にはっと瞬くと、慌てて坂を駆け降りる。山の中腹に建てられた家から下の町までは、歩いて二十分もかかった。近くに民家はなく、すれ違う人影もない。
 翠は、人間が嫌いなのだろうか、とカイトは思った。
 なら、三日と空けず訪ねてくる村上や、今から行く葬式の主などは、彼女にとって、余程特別な人間なのだろう。
 それが少し、悔しい。自分が人間なら、傍にいるのを許されている、特別な存在だと自惚れる事も出来たのに。

初めて乗った電車は、平日の昼間ということもあってがらがらだった。オレンジ色の布が張られた、座席に隣り合って二人揺られる。たまに肩がぶつかって、それでも口を聞かない。翠は持参した文庫本から、視線をを上げようとしなかった。
「何……読んでるんですか?」
 沈黙に耐えきれなくなって、カイトが問いかける。黙って翠は表紙を示した。
「草の花」
「そう」
 ことん、と頭をすり寄せるようにカイトの肩に持たせかけて、翠が呟く。
「だって、一人で死ぬのはあんまり寂しいもの」
 それから、五つ、電車に揺られて、目的の駅についた。

 白地に黒の文字で上崎家と書いてある提灯が、あち、こちに吊るされていた。それを日印に、翠は歩く。まるで来たことの無い町を歩くようだ。それでもなんとか、公民館らしき葬儀場に着くことが出来た。若い者もいれば、年老いた者もいる。故人は生時、交友が広かったようで、入れ代わ立ち代わり弔問客が訪れる。カイトも翠の後ろを、やや俯き加減で付いていった。髪は鬘で隠しているとはいえ、瞳を見れば、その鮮やかさから、日本人でないことなどすぐわかる。翠は自分の連れがボーカロイドであることを、極力隠しておきたいようだった。田舎だから、と彼女は言った。 珍しいからと、余計な注目は浴びたくない。
「この度は御愁傷様でございます」
 一足先に受付へと向かった翠はお悔やみの言葉を述べながら、香典を差し出した。開かれた帳簿に、すらすらと、住所と名前を記していく。
「あちらの方は」
受付に立つ、中年の男性にちらりと視線を向けられて、カイトは咄嗟にお辞儀をした。ばさり、と自分のものでない、黒の髪が落ちる。ずれないよう、今度はゆっくりと頭を上げた。
「私の連れです」
 翠が答えて、帳簿に続けて名前を記入する。気になって覗くと、住所は同じで、萩倉海音と書いてあった。その字面をまじまじと眺めてから、翠は眉をひそめたが、結局直そうとはしなかった。
「おいで」
 行って、式場の方に歩いて行ってしまうのを、カイトは小走りで追わなければならなかった。

 写真で見る故人は、カイトの想像とは違っていた。想像していたのはもっと――そう、若くて、翠と同じような歳の、そこそこに整った顔をした、軽薄な感じの男だった。女の子のウケが良さそうな、如何にももてる、そんな男。村上が、翠の前だとやけにおどけてみせるから、そんな風に思ったのかもしれない。
 とにもかくにも、彼はそんな男ではなかった。男ではあるが、若くはない。翠とは父子程離れているように、カイトには見えた。顔立ちは整っているという以前に、しかつめらしく歪められ、こちらを睨んでいるようだった。冗談など一言だって口にしないような。笑い声など、一生立てたこともないような。そういう印象を、カイトは受けた。
 恐ろしい人。
 彼が、翠の特別であることが、信じられなかった。
 事実、祭壇で花々に囲まれる、遺影を見る翠の目は厳しかった。憎い敵を見るような、そんな目をしていた。初めて見る翠の表情に、カイトは息をするのも忘れてしまいそうになる。
 涙一つ溢さぬまま、翠は、式場を後にした。

 また、行きと同じように、がたりごとりと電車に揺られる。二人以外に乗客はいない、がらんとした車内。翠は文庫本を読んではいなかった。ぼとり、と翠の頭がカイトの肩に落ちる。
「……好きだったんだ」
 唐突に、翠の声が車内に溢れる。
「好きだったんだよ、私、あの人のこと」
 それが、先程見た遺影の人物であることに、カイトはすぐには思いあたらなかった。あまりにも、想像と違った。憎しみの、視線を向けていた。特別な存在であるとは思ったけれど、好きという感情と結びつくような間柄とは見えなかったから。
「今日見たら、やっぱり好きだった……悔しい」
 あんな男を。そう言って翠はカイトの肩に頭を押し付けた。自分を消そうとしているのではないかと思うくらい、強く、強く。
「あんな男……今日、ね、言ってやろうと思ってた。奥さんに。でも……私、人が良いから、さ」
「マスターはやさしいから」
 はは、と力無く溢された呟きを拾って、抱きしめる。やさしく、壊れないように。
「……翠って、呼びなさいよ」
「翠、さん」
「……結局さ、あの人が一番好きなのは、自分白身だった。知ってたんだよ、そんなこと。前から、わかってた」
 また、独り言のように、翠は言葉を溢し始めた。気配もなく、それでも確かに、肩の辺りがしん、と冷たいのをカイトは感じていた。
「今日は、疲れた」
 二人っきりの車内に、翠の言葉が頼りなく落ちた。
「良いですよ。眠っても。着いたら、起こしますから」
 声もなく、ただこくりと頭が上下する。掛かる重さに、カイトは小さく囀ずった。
「それは、何?」
「子守唄です。あなたが穏やかに眠れるように」

 聞き覚えのある、柔らかな旋律。ふわふわと、くるみこむような温かさ。
 これは誰の曲だったろうか、と翠はカイトの服を掴む。すぐ上から笑い声が降る。
 子守歌といえば、ブラームスですよ、マスター。

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2019/10/15

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