あれは、まだ、小学生くらいの頃…
もう顔は覚えていないけれど、母が絵本を読み聞かせてくれたっけ。
中でも不思議の国のアリスが大好きだった。
アリスは好奇心から穴に落ちていくのだけれど、
本当に、面白いだけでウサギを追いかけたりするのだろうかって。
幼心に、そう思ってた。
*
父親がカーテンを開けて、その顔を現す。
心配した様子で?いいや違う。目に怒りと他人を見下す冷酷な光が宿っている。
「…先生、しばらく二人きりにしてもらえますか?なにぶん、数日ぶりに目覚めた娘との会話ですから」
担当医がローテーションの確認を終えたところで、父による制裁開始の合図。家庭内暴力の始まり、始まり!
いや、とは断れないお願いの言葉。
無慈悲にも、情け深い医師と看護師は、面会時間終了までごゆっくり、と下がっていく。
2人部屋? 隣は誰もいない。
そういえば病室が、6人部屋ではない。
そんなところにまで、この男は見栄を張るのか。
「千代里」
優しげに名前を呼んだかと思えば、打って変わって、笑顔が消える。
「息を吸うだけで害を撒き散らすお荷物が」
身体が金縛りにあったように、恐怖でかたまって動かない。
逃げなきゃ、逃げなきゃ、殺される。
また痛い目にあう!
アーロンの大きな手のひらを思い出す。
残虐さでいえば、あの男の方が何倍も上じゃないか。
どうして、こんな男に……!
「か、はっ」
伸びてきた両手に首を、気道を潰される。苦しい。痛い。
血液をとめられて視界が滲んでいく。
「ああ、この、クソ女が、手間をかけさせやがって、お前は本当に人に迷惑ばかりかける役立たずだよ、アバズレが!!」
あばずれ!
その言葉の通りだよお父様!
私はもう、あんたが知ってるキレイな身体じゃない。
男にすがって生き延びる、畜生以下の存在だよ!
「なんだ、その目は。死にかけて、あの世で反抗心でも養ってきたのか?」
意識が、遠のく。
海の音が聞こえる。
「もう、ムリ」
限界だよ。頑張れないよ。
あのとき、死ねたら良かったのに。
お父さん、どうして。
どうして頑張っても頑張っても認めてくれないの?
どうしたら、あなたに認めてもらうことができたの?
あたしのこと1度でも愛してくれたことってあるの?
*
あたたかい。腕のなか?
太陽の光で影になっている。
でも、わかる。
アー口ンだ。
神様。
最高の目覚めをありがとう。
「アー口ン、さん」
「千代里!」
骨が折れてしまうくらい、強く。
プールサイドで目覚めたばかりの千代里を、アー口ンは抱きしめる。
今ならもれなく世界が滅んでもいいと、千代里はきしむ身体の痛みで、思う。
海の匂いに包まれる。
深呼吸して吸い込んで、一生忘れないようにしようと、男の首に腕を回す。
「うわああああ…!」
思い出してしまったことに、くだらない自分の存在に、転げおちるように男なしではいられなくなっていく自分に、なによりも、そう自分のために、赤子のように大泣きをした。
ーー中身のない私を、彼はずっと抱きしめていた。
「ごめっなさ…めいわ、く、かけ」
「心配すんな、まだ昼にもなっちゃいねえし、今日は他にアポイントも入ってねえから」
なんで、こんなに甘いんだろう。
どうして。
「利用価値のない私を、なぜ…」
「俺のゴキゲン取りだよ。お前は。大した理由すぎるだろうが」
もっと。
この人の、役に立てたら良いのに。
こんな自分を変えたい。
変わりたいと、強く強く、希う。
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