あれは、まだ、小学生くらいの頃…
もう顔は覚えていないけれど、母が絵本を読み聞かせてくれたっけ。
中でも不思議の国のアリスが大好きだった。

アリスは好奇心から穴に落ちていくのだけれど、
本当に、面白いだけでウサギを追いかけたりするのだろうかって。

幼心に、そう思ってた。





父親がカーテンを開けて、その顔を現す。
心配した様子で?いいや違う。目に怒りと他人を見下す冷酷な光が宿っている。

「…先生、しばらく二人きりにしてもらえますか?なにぶん、数日ぶりに目覚めた娘との会話ですから」

担当医がローテーションの確認を終えたところで、父による制裁開始の合図。家庭内暴力の始まり、始まり!

いや、とは断れないお願いの言葉。
無慈悲にも、情け深い医師と看護師は、面会時間終了までごゆっくり、と下がっていく。

2人部屋? 隣は誰もいない。
そういえば病室が、6人部屋ではない。
そんなところにまで、この男は見栄を張るのか。


「千代里」


優しげに名前を呼んだかと思えば、打って変わって、笑顔が消える。


「息を吸うだけで害を撒き散らすお荷物が」


身体が金縛りにあったように、恐怖でかたまって動かない。
逃げなきゃ、逃げなきゃ、殺される。
また痛い目にあう!

アーロンの大きな手のひらを思い出す。
残虐さでいえば、あの男の方が何倍も上じゃないか。
どうして、こんな男に……!


「か、はっ」


伸びてきた両手に首を、気道を潰される。苦しい。痛い。

血液をとめられて視界が滲んでいく。


「ああ、この、クソ女が、手間をかけさせやがって、お前は本当に人に迷惑ばかりかける役立たずだよ、アバズレが!!」


あばずれ!
その言葉の通りだよお父様!

私はもう、あんたが知ってるキレイな身体じゃない。

男にすがって生き延びる、畜生以下の存在だよ!


「なんだ、その目は。死にかけて、あの世で反抗心でも養ってきたのか?」


意識が、遠のく。
海の音が聞こえる。


「もう、ムリ」


限界だよ。頑張れないよ。
あのとき、死ねたら良かったのに。

お父さん、どうして。
どうして頑張っても頑張っても認めてくれないの?

どうしたら、あなたに認めてもらうことができたの?

あたしのこと1度でも愛してくれたことってあるの?





あたたかい。腕のなか?
太陽の光で影になっている。
でも、わかる。

アー口ンだ。

神様。
最高の目覚めをありがとう。

「アー口ン、さん」
「千代里!」

骨が折れてしまうくらい、強く。
プールサイドで目覚めたばかりの千代里を、アー口ンは抱きしめる。

今ならもれなく世界が滅んでもいいと、千代里はきしむ身体の痛みで、思う。

海の匂いに包まれる。
深呼吸して吸い込んで、一生忘れないようにしようと、男の首に腕を回す。

「うわああああ…!」

思い出してしまったことに、くだらない自分の存在に、転げおちるように男なしではいられなくなっていく自分に、なによりも、そう自分のために、赤子のように大泣きをした。

ーー中身のない私を、彼はずっと抱きしめていた。


「ごめっなさ…めいわ、く、かけ」
「心配すんな、まだ昼にもなっちゃいねえし、今日は他にアポイントも入ってねえから」


なんで、こんなに甘いんだろう。
どうして。


「利用価値のない私を、なぜ…」
「俺のゴキゲン取りだよ。お前は。大した理由すぎるだろうが」


もっと。
この人の、役に立てたら良いのに。

こんな自分を変えたい。
変わりたいと、強く強く、希う。