チュウが駆けてくる。
血相を変えて、崩れた千代里に、大声で叫びかける。


「おい! 大丈夫か!」


真っ先に気を使う言葉に、少なからず千代里は安堵していた。
そして安堵したことに、胸が痛む。


「…だいじょうぶ」


あの男が、元凶だと、震える指で海を指す。
それが、何を意味するか、分かった上で。

吹き飛ばされた男は、もう立ち直って船を出していたが、チュウがそれを許すはずがない。


「すまない、少し遅くなった。ここへ来る前に、通報を受けたって海軍が結構な数で」


ああ。
彼は逃げるための時間を見据えて、そこまで手を回していたのか。


「…パークに戻って、男を捕まえたって報告する」
「分かった。気をつけろよ。アーロンさん、今までにないくらい、キレてるからな」


アーロンの仕事を進める背中を思い出す。
何もかもが泡沫となって消えた。

なのに、彼の計画が遅れてしまうことに、ホッとしている。

こんなことを考えていることがバレたら、今度こそ殺されるかもしれない。
だけど。

村民たちの顔を、見てしまって。
手当をしてくれた布を握りしめる。

あたしは、やっぱり、人間だ。





パークに戻ると、黒々と炎の消えたばかりの煙が上がっている。
そしてアーロンの怒号が聞こえる。

門の隙間から、赤い血がドロドロと流れ出している。

開けなきゃいけないのに、開けられない。
悲鳴が聞こえる。

銃を打つ音と、硝煙の匂い。


怖い。
初めて、彼らに心の底から恐怖を抱いている。


バン!
と人が吹き飛ばされて門が開く。

咄嗟に避けたが、掠めただけで地面に思い切り叩きつけられた。
肺が爆ぜたかのように痛い。肋骨がきしむ。

立ち上がると、血を浴びた魚人の影が太陽を背に二人に伸びる。

アーロン。
目が、完全にキレている。

ーーあたしのこと、分かるのだろうか。


「お前…… 千代里か。どこへ行ってた」
「元凶の人を捕まえに」

フン。と一蹴される。
後ろから、チュウの声がかかる。

「アーロンさん、こいつ」

ぶらん、と首から捉えられた男が、揺らされる。


大虐殺の幕が上がる。
その引き金をひいたのは私。

この舞台を最後まで見届けるのが、せめてもの義務というものか。

青年がアーロンの手に移る。

ああ、綺麗。
人を殺すことを何の苦もなくこなすたくましい筋肉に、美しい身体のライン。

己の拳だけで人を雑巾のように捻り潰して痛ぶる姿から、普段どれほど、ブレーキを踏んだ関わりをされているのか納得する。

殺しはしないで、何度も何度も傷ついた部分を痛めつける。
奥歯に指をかけて抜いたかと思うと、脳みそが飛ばない程度に顔を殴る。

あーあ、綺麗な顔が台無し。


目を背けると、パークはまるで喜劇のようで。

なんだか、コミカルなパフォーマンスを見ているようなのだ。
ぎゃー、ぐえ、と人が上げる断末魔がテンポ良すぎて、笑えてくる。


人では、こんな化物集団、
かないっこないのに。


血が海に流れていく。
数十分とかからないうちに、皆殺しは終わった。

「千代里!」

返り血を浴びたアーロンが殺気立った顔で、呼びつける。

無意識に下がった足を、叱咤する。


「念の為に確認するが、お前、俺たちを裏切ったり、してないよな?」


ぞく、と全身が粟立つ。
反射的に涙が浮かぶ。


「…どうして。あたしがそんなこと、するわけないじゃない」


村の人たちの亡骸を背にして、事もなげに言おうとしたのに、声が震える。
怖い、怖い、この人が怖い。

クロオビの言葉が脳裏に蘇る。
虜囚の話ーー


「アーロンさん、庇うわけじゃないが、敵襲を知らせたのも千代里だし、この男だって、こいつが引き留めてたから逃げられなかったんだぜ?」


チュウが頭を足で小突く。
うう… と呻く青年はまだ生きている。


「…だが、こいつを最初にここへ入れたのは千代里だ」
「それは確かに落ち度だった。書類をきちんと確認していれば、嘘を見抜けたと思う」


嘘みたいに身体が震えてしまう。
そうだな、とアーロンに火傷を手当した布ごと腕を掴まれる。痛みに顔が歪む。


「人間の女は底が知れねえからな。てめェのためなら、どんなことだってできる」


ビクとも腕が動かない。
本気で怒ったままの目に射すくめられて、腰が砕けそうなくらいに、怖い。


「そんなこと……」


ない、と言いかけて呻く青年の恨めしい視線に言葉が飲み込まれる。



「お前は、同胞じゃねェからなあ」
「アーロンさん、痛い」


ンン? と顔が近づく。
腕に込める力が強くなる。

ひどい、とも言えなかった。
その通りだ。

ただ、命乞いをし続ける存在。


「俺が、怖いか」


息がかかるほどの距離で、男の鋭い歯がカチカチと音を鳴らす。

こわい。

どっちへ転んでも、この人の機嫌は、もう良くならない気がする。


どうしてだろう。
ずっと前から、なんとなく、何かが噛み合ってないというか、何かが引っかかっているような気がしていた。


私が、どっちつかずなことも。
お見通しなのだろうか。


アーロンの視線から逃げるように目を閉じる。
息遣いを感じる。返り血の匂いがする。

腕を掴む力は、それでも骨を折りはしない。
こんなときに、こんな化物に、なぜ。

なぜ、縋り付くような悲しみを感じるのだろうか。


「こわい、よ、」


目蓋を開けて、アーロンの怒りを全部飲み込むつもりで、怒りに満ちたその目と対峙する。
自由な方の手で、そっと腕を掴む彼の手の甲に触れる。


「すごく、怖い」


それでも。決めた。
私は最後まで逃げない。