部屋が別れるにあたり、千代里は持ち物を整理している。
まったくもって、自分が何も持っていないことを痛感する。
そして、どれほど、今まで持ち合わせていたものが必要なかったのかも。
水着と、シャツと、お小遣い。
基礎化粧品などの必需品。
生活するのに必要なものだけ。
「準備するほど物は持ってないだろう?」
入り口に寄りかかり、アーロンは千代里を見下ろす。
起きたばかりで朝の支度をすませた彼は、いつもよりラフで、なんだか色っぽく感じるのは、惚れた弱みと言うものか。
「うん。水着以外、持ってるものも、アーロンさんにもらったものばかり」
「お前は本当に無欲だからな」
「だって」
あなたがいれば欲しいものなんてない、だなんて昭和歌謡曲みたいなクサイ台詞を吐きかけて、舌先まで出かかった言葉に急ブレーキをかける。
「なんだ?」
「…欲しいって、思わなかったんだもん」
「それを無欲と言うんだ」
あきれ返った低い声が、飽きもせず千代里の心臓をふわふわとくすぐる。
胸の奥にまで染み込むような、そして離れない麻薬のような。
ーーでも。
あたしは、この人のモノじゃ、なくなってしまった。
「あたしは今のままで良いのに」
「言った通りだ。約束は守る」
「…個室まで与えるなんて、やりすぎ、というか、他の人だってこんなの、認めないんじゃ」
「ここで俺に刃向かうヤツはいない。むしろ、お前に言った事を守らないようでは、示しがつかなくなる」
「そう言われたら、仕方ないかなって思うけど」
気が進まない。
そして、あんまり事も無げに話を進めていく彼に、愛想を尽かされたわけではなくとも、距離を取られてしまうことが、怖い。
何か機嫌を損ねた?
邪魔だった?
もう、私のこと、いらないの?
そんなはずは、ないのだけれど。
「…浮かない顔だな。普通はもっと喜ぶことだぞ」
「そう、なの?」
本当に分からない、という顔をする。
まったく千代里の思考回路が分からない。アーロンは腕を組む。
自由に、限りなく近づいたのに。
少なくとも、最低限の人権を取り戻したのに。
「お前な…俺の奴隷でいたい、と言っているんだぞ。分かってるのか?」
荷物をまとめ終わった千代里の手が、膝の上で握り締められる。
「お前は権利を勝ち取った。俺の慰みモノじゃなくなるんだ」
ますます浮かない顔になっていく。
せっかく、かつてない恩情をかけているというのに、イライラしてくる。
「…言いたいことがあるなら言えよ。なにが不満だ。思春期の子育てなんざ、する気はねえぞ」
びく、と身体を震わせる。
こいつはマイナスの感情変化にはとても聡い。
もう強姦もしないし、好きなときに好きな場所にも行ける。
別室まで与えるというんだ。それをどうして喜ばない。
「…じゃあ、言う」
生意気にも、涙目になりながら、睨んできやがる。
上目遣いが、まるで誘ってるようで、不意に込み上げた劣情を抑え込む。
「あたし、アーロンさんと、離れたくないの」
絞り出された掠れ声。
予想しなかった答えに、意味がわからず言葉が脳をぐるぐる回る。
離れたくない。だれと?
ーーオレ、と?
「は、?」
「側にいたい」
絶句する。
今まで、彼女はあくまでもご機嫌とりで合わせていただけだと思っていた。
少なくとも、自分が少女を気に入ってしまったことは自覚していた。
それに嫌気がさして、衝動的な感情のはけ口としていたことも。
千代里はそれを自覚して媚を売っているのだと思っていた。
事あるごとに、嫌味を言ったし、辱めることも意図的にやってきた。
いったい何が起こった?
聞き間違いか?
この女、トチ狂ったのか?
「な、なにを、お前は」
なぜ、声が、震える!
動揺しているのか、俺は。
良い年したオッサンに、こんな何周りも年が離れたニンゲンの少女が。
一方的に、犯していたバケモノだぞ?
「あたし、力不足だった?」
むしろ俺はお前が、と言いかけて飲み込む。
それだけは、口にしてはいけない言葉。自覚してはならない想いだ。
この種族にプライドを持つ以上は。
絶対に。
絶対にそんなことはあってはならない。
「……そんな、今生の別れでもねェだろうが。お前を、少しは認めたから、昇格させてやるってだけの話だ」
心が揺らぐ。
揺らぐはずのない憎しみが、思い出したようにチクリ、チクリと痛む。
この女が、恐ろしい。
少女の種を、人間を裏切った女だと自分をなだめすかすが、それすら彼女の覚悟に飲み込まれていくような…
「アーロン、さん」
珊瑚色の唇から零れ落ちる名を呼ぶ声が、耳から脳を侵していく。
これ以上はダメだ。ダメなんだ。
劣情が収まらない。
いますぐに、噛んで、壊して、啼かせて、許しを乞わせたい。
「力不足な、わけねェだろ…」
身体を掬い上げ、ベッドに力の限り叩きつける。
息のできない千代里を組み敷いて、曲げた関節ごと腕を噛み、血を舐める。
痛い顔。泣き顔。
涙を舐めると塩の味。
「俺は、お前を、殺したいほど」
ふ、と笑う千代里。
首を絞めても、儚く微笑む。
なぜだ。
どうしてだ。
やわらかくて、温かい感触が、頬を包む。
千代里の手のひらが、頬をなぞる。
「だいじょうぶ、だから」
はっ、と泣いていることに気がつく。
はらはらと大粒の涙が、千代里の胸元に、ぼとぼと落ちていく。
「千代里」
首を絞める腕から力が抜ける。
こいつはいつだって、何をしても、俺を責めることがない。
忘れた、何かを。
ただ許されたい一心でいた何かが。
ーー解ける。
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