はぁ、はぁ、と切れた息を整えて、彼女はそっと氷のように冷たいドアノブに手を掛けた。ドアに付属したガラスは曇りガラスで、到底中は窺えない。

「失礼します…」

恐る恐る開けたドアの隙間から準備室の中を覗くと、部屋の奥にある机に向かって座り、無機質に時計を見つめる先生の横顔が目に入った。

「間に、合いました、よね」

躊躇いがちに声を発するが、返ってきたのは乾いた溜息だった。

「遅刻だよ」

ああ、と項垂れる彼女を内心愉快で仕方なく思うが、そこを冷たく彼は「入りなさい」と命令した。

ぱたんとドアを閉め、埃と資料集、本、教科書で壁の埋まる少し狭い準備室に、彼女は踏み込んだ。
いつからあるのやら、古くて壊れかけた雲のようにふかふかなベッドくらい大きい革張りの黒いソファ。その前には、来客などありえないはずだが、小ぶりなテーブルと二脚の一人用のソファがあった。
先生から1番遠い大きなソファの隅っこ、いつもの席に腰掛け、無駄な抵抗と分かっていても、言い訳を言わずにはいられなかった。

「だって先生、バトー先生がテスト前だって張り切っちゃって、授業延長したんですよ! 不可抗力」

です。と言い切る前に彼は

「言い訳はするな」

と静かに言い放った。
ひやりと背筋を冷たいものが這う。

彼女は彼が好きで仕方ないのと同時に、多少は恐怖も感じている。

第一に、昼休み終わって5分以内に準備室に来なければペナルティを課されるのである。これは三学期になり立候補した(周囲からは嫌々回された係と見なされている)現代文係のためで、昼休み後にある授業の手伝いという名目で呼ばれているのである。
罰と言っても、それは課題か授業中の指名が主。というか、それ以外の事を要求されたことはない。

なぜ罰を課すのかと不思議だった。
そんなことしなくても、彼女は真っ先に、たとえ嫌がられたって準備室に向かうつもりでいたからで、それはこの男も分かっているものだと考えていた。

時折、彼の思考が分からない。

「さて、今日は何の罰を与えようか」

ふふ、と愉快げに笑う顔に、やっと体の緊張を緩められた。

「テスト前なので、勉強系はパスでお願いします!」

わりと切実な問題である。
他の教科からも山ほど課題が出されている。

「そうだな……。
君は、どんな罰がいい?」

静かに問い掛けられた瞬間、ピンク色の妄想が沸き起こり、即座に打ち消した。

「グラウンド10週とか!」
「しかし、君の意見を採用しては罰にはならないな」
「えー、ここは日頃座ってばっかの生徒に運動を薦めましょうよー」

不服そうに口を尖らせる彼女は、彼からすると圧倒的にフツウの女子高生に見えた。あまり飾り気はないが、スカート丈は一端に膝上15cmを気取っている。彼女の足は確かに綺麗だ。よく長所を弁えている。

「ねえ、せんせえー」

だらしなく机に突っ伏して、自覚はないだろう甘えた声をあげる。

せんせい。彼女の声は彼の脳を耳から毒する。

そういえば、この娘からは一度も名前を呼ばれたことがないな。と、合田は思い至った。

「休み時間のあいだ、名前を呼ぶのは、どうかね」

思考より先に言葉になった、という感じだった。しまったと思いちらりと彼女を確認する。どうにも意外だったようで、ぽかん、という言葉が正に似合いな間の抜けた顔を彼女はしていた。

「呼びあうのは、確かに、恥ずかしいかも……」

更に彼女の頭では彼も名前を呼ぶことに変換されている。そうか、と彼はひとり心で呟いた。私も彼女の名前を呼ぶことは滅多にない。

「綺音」

舌に馴染む響きだ。と感慨深く彼はその低い声で呼び掛けた。
抵抗はなかった。クラス名簿を読み慣れているせいだろうか。

珍しく

それは珍しく、普段恥ずかしいことも平気でやってのける綺音が、真っ赤に頬を染めている。耳の先まで赤い。

いつものイタズラの仕返し、とばかり、嗜虐心に火がついた。

「さあ、綺音、次は君が呼びなさい」

何だかおかしなことになった。
形勢が逆転することは滅多にない。
彼女の反応が新鮮だ。

大きめのカーディガンからはみ出る指先をキュッとスカートの上で握りしめ、綺音はゆっくり、震えるように、

「ごうだ、せんせい」

と呼んだ。おや? と彼は椅子ごと身体を振り向ける。

「なんだ、君の中では名字が名前なのかね?」

そういえば、彼女は他の先生も直接呼ぶ際には「先生」とだけしか呼ばない。話にのぼる際、決まったあだ名だけしか呼んでいないようだし、友達同士の会話でも、名前を呼んでいるのを見たことがない。

「せんせいっ!」

真っ赤になって震える綺音は、耐えきれないといったように抗議の声を上げた。

「……そうだな、昼休みが終わるまでにまた先生と呼んだら、追加で罰を考えようか」
「だけと、先生は"先生"なのに…っ」

彼女の中には何やら不思議なルールがあるようだ。思い掛けず見つけた弱点に彼はほくそ笑む。

個人的な禁忌。
綺音は眩暈を感じるほどの鼓動を押さえつけて、嫌味な笑みを浮かべる先生に向かって、唇を開いた。

合田一人。最近は名前を聞いただけで、見ただけで、胸が焼け付く。重症だ。

「かず、……ど、せんせ」

虐めすぎたか、と思うのと、もっと、と思うのと。彼は立ち上がっていた。

「それでは聞こえない。先生もつけるんじゃあない。それでは、意味がないだろう」

この際、文句を言う中身はどうでも良かった。彼女は素直な子で、何を言っても大抵自分のせいだと受け取ってくれる。

綺音の目の前に立つ。
黒いコートが揺れる。

古いガスストーブの上に乗るヤカンが、かたん、と小さく音を立てた。

ここには暖房もない。

冷えた指ですっと顎の輪郭をなぞり、持ち上げる。綺音の体温は想像よりも温かい。特に今はーー熱い。

「無理です、せ……」

震えている。たかが名前を呼ぶだけで。

「呼びなさい」

少し語気を強めて叱るように命じる。

は、と息を吸う音。
彼女の甘い独特の香り。

香水とは違う、少女の匂い。

「か、ずんど……さん…」

禁じられた呪文を唱えるようだ。
そして、彼女のかすれた声は、やはりジワリジワリと脳を侵食していく。

「綺音、もう一度」

さっき、変なことを考えた罰なのだろうか……。彼女はくらくらと早鐘を打つ胸の上に手を当てた。携帯小説の読み過ぎかも。

変な期待、してしまう。

先生の声はずるい。
低い声は、いとも簡単に彼女の思考の全てを奪う。

ぱっと彼の手を払い、俯いて叫ぶように声を出した。

「一人」

しかし、出てきたのはか細い声で、こんなことでと悔しさと恥ずかしさで泣きそうになりながら、綺音は名前を呼んだ。

もともと人の名前を呼ぶのは抵抗のあるほうだ。たくさんの人たちとつるんでいたって、いつも名前を呼ぶこともないし。
名前を呼ばれることは多くても、彼から囁かれると、こんなにも破壊力があるなんて。

そっと彼の冷えた手が伸びる。
猫の頭を撫でるように、優しく髪を梳かれて、身体がびくりと小さく跳ねた。

あまりの恥ずかしさに硬直する。
まともに、先生の顔を見れない。

あれ、どうしたんだろう。
私はいつもは攻めまくる方なのに、とぐちゃぐちゃな頭の中で考えた。糸が絡まる。どうして、どうして。

「……っせんせ…!」

耐えられず、顔を上げる。

そこには冷ややかに、だが、確かに目にはどうしようもない熱情が篭った笑いを浮かべる彼がいた。

「言うことを聞かない口だ。
……また、罰を与えねば」

ねっとりと彼の指が唇をなぞる。
あ、と小さく声が漏れた。

緊張に固まる身体を見て、合田はさすがにやり過ぎた、と自嘲した。

彼女の耳元へそっと口を寄せる。
ふ、とかかる息に涙目になった綺音はどうしようもなく愛らしかった。

「スカートプラス7センチ。直し終わったら授業の準備をするからすぐ帰ってきなさい」

準備にはお昼も含まれる。
ばっと顔を引き離して、彼女は逃げるように「はい!」と大きな返事をして走り出した。

「綺音、廊下は走るなよ」

慌てる背中に声をかけて、彼は小テストの採点の仕事へと戻った。

「わかってます……一人せんせ」

ぴたりとドアを開けて止まったかと思ったら、それだけ言って彼女は走って行った。従う気はないらしい。

これからこの罰は選択肢に入れておこう。と、綺音の小テストに丸をつけたところで彼はふふ、と笑いをこぼした。