綺音は最近、ぼーっとすることが増えた。
彼の触れた感触が、全く消えない。消えないどころか、気を抜くとよろしくない妄想をしてしまう。

最近は恥ずかしくて、まともに先生の顔を見れない時もある。

先生はどうなんだろう。
いつも余裕で大人ぶって。

いや、彼は大人の男性なのだが。

やらしい夢を見ることまであって、ここの所、綺音は自分の身を恥じていた。なんてフシダラなんだろう。

教務室に入って、何ともなしに暇そうな先生を物色する。
いつも通り、バトー先生がどこか暇そうな素振りを見せていた。

「先生」

おずおずバトーのところへ行って声を掛けると、おお! 綺音じゃないか、なんて明るく先生は彼女を手招きして仲の良いというトグサ先生の椅子へ座らせた。

「ねえ、先生、やっぱり大人はみんな経験豊富だよね?」
「そりゃま、お前らより無駄に長く生きてるからなあ」
「……私が言いたいのは、男の人の女性経験のこと、なんですけど」

ぶーっ! 盛大にバトーは飲みかけたコーヒーを机に吹いた。

丁度その時。たたたっと音がして、トグサがガラリと教務室のドアを開けた。

うっわ先輩(トグサは何故かバトー先生とは言わず、先輩と言う)、汚いっすよ。と呆れたように笑って彼は机に近づいてきた。
あっと綺音は立ち上がろうとするが、それはすぐ制止される。

「大丈夫だよ、綺音ちゃん。俺、この書類取りにきただけだから」

そういえば。とティッシュをバトーに渡しながら、トグサは首を傾げた。

「先輩を吹かせるって、いったい何を聞いたんだ?」

あ、それはね。綺音はちょっと恥ずかしそうに、先程と同じ質問を彼にした。

「えっ……と、まあ、人によりけり、なんじゃないのかなあ」

そういうトグサの机には、幸せそうな家族写真が飾ってある。

ちらりとパズの方を見て、素子の方を見て、何とも言えない表情を彼は浮かべた。

「やっぱりふつーはありますよね、経験」
「綺音、お前どうしたんだ」

バトーは義眼なのに包み込むような優しい視線で綺音を諭す。

「そういうのが気になる年頃だろうが、自分の身体は大切にしろよ」

どうやら、年上の恋人と関係を持ち掛けている設定になったらしい。慌てて綺音は違うんです、と付け加えた。

「先生方を見てて、何となく、思っちゃって」

まあ嘘ではない。

「綺音ちゃんは、誰か大人の人を好きになったんだ?」

意外だなー、とサイトーが話に入ってくる。イシカワは逆に教務室に入り浸れるくらいだ、と優しく笑った。
全く、あなたは教務室のプリンセスね。なんて素子まで乗っかってくる。

パズが俺でよければ話してやるぞ、などと言い出し、ボーマがそれを全力で止めにかかる。

見目麗しいが表情に乏しいクゼは、それをくすりと微かに笑って見守る。

恐らく、校長室でアラマキも聞き耳を立てているに違いない。

綺音はちらりと、今この場にいない合田の席を見て、彼もあるんですかね…? と控え目にそれとなく聞いた。

と、その瞬間、教務室に爆笑が巻き起こる。校長室からも失笑が聞こえた。

綺音は訳もわからず、恥ずかしくて顔を俯ける。

それを見て、バトーは綺音の頭を犬にするようにぐしゃぐしゃ撫でた。

「お前は悪くない、ただ、な」

くっくっとまた堪えられないように笑うバトーを見て、たまらずトグサを見上げる。あはははは、と軽く笑って、彼は違う違うと手を振った。

「綺音ちゃん、あいつは別物なんだよ」

ははは、と笑っている中で、ボーマだけ曖昧に、いや、笑っていない。

「どういうこと?」

経験に違いがあるの? とパズの方を見るが笑い過ぎていて話にならない。
素子はクールな顔に戻っていたので彼女のコメントを期待する。

「彼はね、所謂魔法使いよ」

その発言にまた爆笑が起こる。むう、とその笑いが合田を馬鹿にしたものだと感じられてきて、何か不服な気分になる。

「ごめんな、三倉。バカにしてるわけじゃないんだ。ただ、ちょっとな」

イシカワが渋そうなコーヒーを一口飲み下して、ふうと息をつく。

「あんまり綺麗な話じゃないが、まあ、お前も高校生だしな」

軽く笑って、そのあとは丁寧に綺音に付き合ってくれた。

「童貞って言葉、知ってるか」

いちおう、と綺音は最近バカっぽい男子たちが騒いでる話を思い起こした。
それは、要するに、彼は経験ナシってこと?

「どうして分かるの?」
「まあ、ちょっと見てりゃあな」

ボーマがやめてくれー、と頭を抱えた。

「おめぇは違うだろ」

バトーがすかさず突っ込むが、ボーマはどうも失ったのが遅かったと見える。

「よくわかんない、や」

むう、とまた唸ると、大人になってきゃわかると、教務室全体が温かいエールを送ってきた。何やら、変な空気である。

「どっちにしろ、綺音ちゃんの恋、うまくいくといいね。辛いことがあったら、俺でよければ話聞くよ」

トグサは彼女の華奢な肩をぽんと叩いた。

「先生、ありがとう」

自然と口元が綻ぶ。
みんな優しいな。と思うと同時に、ちょっとだけ切なくなった。

まさか、その合田が好きだとは、言い出せないし、バレてもいけない。

別に付き合っているわけでは、ないけど。何となく。

そして、ガラリと教務室に噂の張本人が帰ってきて、皆めいめいの仕事に戻り始めた。その様子に、合田は怪訝そうに眉を顰める。

「おや、また君は来てたのか」

綺音に気が付いた彼は、後で話せよ、という顔をしたが、到底話せそうにないやと彼女は必死に良い言い訳を考えるのだった。