番外編 十字星日 -cross wish day-


 足元がずぶ濡れ二人は、十一月の冷たい風に吹かれながら、イギリス海岸を後にした。
柵に足をかけ、来た道を戻る。体温が奪われ足が動かなくなる感覚に頭痛を生じ始める。互いに黙ったまま。
「そう言えば、お前は何処に泊まるんだ?」
沈黙を破ったのは泉希の方だった。このまま一人宿泊施設へとも思ったのだが、道中でまた同じようなことをされてはずぶ濡れになった意味がない。ましてや、ここまで来た意味も……。
「あー…、駅から十分くらいのとこにある宿だけど」
「駅? この状態でバスは流石に……、はぁ…結構距離あるな……」
「別にオレの事は放っておいていいよ。…ってかなんでみずきちゃんが花巻(ここ)に居るの?」
凄く謎なんだけど……という顔をして見てきた。
「放っておけるわけないだろう! お前……本当何考えてるかわからない」
目を伏せる泉希に気まずそうな表情を浮かべる幸稔。来た時に降りた里川口のバス停へ着いた。しかしこんな状態でバスに乗るのは気が引ける。ここまでは駅から八分の距離だ。この寒さと車での速度と考えると徒歩ではそれなりにかかると判断した。この時期、いや冬の東北の寒さは異常だ。冷たさが突き刺すようで、体力もあっという間に奪って行く。











「とりあえず、その宿までは付き合う。拒否権はないからな」
大きく曲がった道路を歩く。風景は白っぽい緑で溢れている。日本の風景といった所だろうか。普段ビルなどの建物ばかり密集した土地を見ている為、こういった風景は新鮮ではあった。体を突き刺す冷たさがなければいいのだが。
 二人は暫く歩いた。見ている風景は徐々には変わっていくが大体は同じ。冬が近づき緑の色もうっすらと落ちているそんな少しばかり寂しいような色味。三十分くらいは歩いただろうか? 結構な距離を歩いた。手ももう冷たくて今ならある程度の温度のものなら触れるだけで凍らせることが出来るのではないかと錯覚するくらい、指の感覚もなくなっていた。
 視界に日本庭園を思わせる風景が見えてきた。新花巻駅だ。
(やっとここまでか……)
安堵で息を吐く。空気にそれが乗り、白い靄を浮かべ消える。
 不意に、頬に熱いものが触れ泉希は顔を上げた。
「お前顔冷た……」
幸稔の手だったようだ。
「お前、なんでそんなに手熱いんだよ……異常……」
「顔色悪そうだったから……、大丈夫か?」
「顔色など悪くはない。もうすぐ駅だ。お前が泊まる場所まであと少しだろう、無駄に体力使うな」
「……みずきちゃんはもう少し自分のこと考えた方がいいと思うよ」
「お前に言われたくはない」







さっきまで死のうと、川の中に入って行った死にたがりの彼に呆れを感じた。どちらにしろ早めに宿に辿り着かせ、手が温かいとはいえ、体を温めなければ凍傷を起こしそうだと思った。まだ足元は濡れている。完全に乾いたとしても、冷たいには変わりはなさそうだ……。
 ぐいっと片手が引かれた。
「今度はなんだ!?」
「宿まで、手繋いでてやる。本当顔色悪そうだし、手もこんなに冷たいとかないだろ。……ちょーうざい」
ふいっと顔を背ける幸稔。
握られた片手が異常なまでに熱を感じる。温かい……。
けれど、その手を握り返すことが出来ず、ただ彼の好意に手を振り払わずに、ただ握られていた。
心のどこかでこの死にたがりの彼の親友(カムパネルラ)に本当になれるのだろうかと、ふと考えていた。

 駅周辺の建物を通り過ぎ細い道をいくつか通ってその宿に着いた。
「うっわ……」
(高そう……)
目の前に現れたその宿に思わず声が上がった。一体こいつはいくら使ってるんだと白目をむきたくなる泉希だった。風情ある日本家屋、というか……歴史を感じるような佇まい。瓦屋根に木造、オレンジ色の温かい光がいっそう風情を感じさせた。そんな宿だった。
「じゃあ、私はこれで。二十五日にちゃんと学校に来いよな」
握られていた手を外して、駅の方へ戻ろうとした泉希を彼は引き留めた。手に再度熱が伝わる。
「みずきちゃんは何処に泊まるんだ?」
「私は安いホテルを探す予定だ。あまり余裕はないからな」
そう言う彼に幸稔は彼を引き寄せて、宿の中に入った。
 意味が分からない。
宿の中に入ると暖房器具の温かさが体を一気に包んだ。不思議な感覚だった。
「私はこんな高い所には泊まれない!」
いらっしゃいませと和装のお姉さんたちが頭を下げて挨拶をしているのを横目に、抵抗した。
受付で予約していたとか手続きが始まる。
「あの部屋で特に布団とかは用意しなくてもいいんで、もう一人泊まる事って出来ませんかね?」
部屋の代金、夕食や朝食の料金などが入っている。一人増やすことは出来ないのは承知だった。けれど予約した部屋は多少広い、もしかしたらという期待が彼にはあった。
「私は他を探すから手を放せ」
手を振り払った。彼の翡翠色の瞳と目が合った。
「受付の人も困惑しているだろう、私の事はいいからお前はさっさと体を温めて休め」
バタバタと玄関へ走っていく泉希。ぽかーんとした様子で幸稔は彼の後ろ姿を見つめた。微かに息を吐いた。そして小さく呟いた。
その言葉は受付の女性だけがかろうじて聞き取れた。
「その子を呼び戻して」
従業員たちは外に出て行った泉希を追った。

 「とりあえず、部屋は二人部屋ですがご予約はお一人様ですので、空きがない場合は寝具の追加は出来ません。日帰りの温泉もございますのでそちらをご利用ということであれば、温泉の方もご利用いただける様お伝えしてください」
受付の対応に正直驚いた。
つまり空きがあれば寝具も貸し出してくれるらしい。何よりこんな無茶な願いを聞き入れてもらったことに正直驚きを隠せないでいた。
有難うございます……頭を下げた。こんなわがままを言ったのはいつぶりだろうか……。
それから暫くして、従業員の男二人に両脇を抱えられるような形で泉希が戻って来た。その顔は不服を通り越して苛立ったものだった。
「私はこんな高そうな場所に泊まれるほど、お金がないと何度言っている!」
「みずきちゃん、受付のお姉さんが了承してくれたんだ。オレなんかと一緒は嫌かもしれないけどさ。まず、みずきちゃんも体を温めた方がいいと思うよ。オレなんかよりずっと顔色よくないし」
泉希の顔色は白いを通り越して青ざめていた。今にも倒れるのではないかと不安を感じさせられるほどだ。
「お客様をお部屋にご案内して、すぐに温泉へのご案内も」
若い女性がそう声を上げた。それに周りの女性がてきぱきと動き始める。
「ちょ、私はまだ――」
「まだ顔冷たいじゃん。好意に甘えなよ、みずきちゃんって本当堅物だね……」
宿は暖かいのに何でというような表情をして、連れて行かれる泉希の頬に触れた。オレンジの光のあたたかな空間の廊下を歩いて、角を曲がった少し先にその部屋はあった。
"座敷童子(ざしきぼっこ)の間"

ドアを開けると小さな踊り場があって、その先に障子戸がある。そこを開けると畳みの敷かれた和室の部屋が広がっている。それでもそこまでは広くはないが二人部屋にしては広いくらいだった。
渋々と泉希も中に入ったのだが、ザワッとした感覚に泉希は部屋に入るのを躊躇った。
「やはり私は遠慮する」
「なんで?」
「私はこういうのは苦手なんだ………」
こういうの? と幸稔は首を傾げた。泉希は踊り場までは入ったが部屋にはまだ一歩も足を踏み入れていない。和室の匂いが嫌なのだろうか? と考えたがその部屋に肩を落として溜息を吐いた。
「みずきちゃんこういうの駄目なんだ……。ってか怖くはないよ?」
部屋の奥にたくさんのおもちゃが置かれた部屋。かなり有名で人気のある"座敷童子の間"なのだが、彼にとっては有名云々人気云々は関係なかったようだ。
「お前が言うように温泉は……仕方ないから考えるが、その後は適当にホテルを探――」
踊り場でそう言う泉希を強引に引き込んだ。
「部屋の案内有難うございます。すぐ支度するんで、待っててください」
幸稔がそう言って一旦従業員たちの視界から消えた。

 「ほら、みずきちゃん。さっさと温泉に行くよ」
「私は……」
「いいから、着替えはあるんでしょ? ホテルに泊まるって言ったんだし」
「私はいい……お前だけ行けばいいだろう」
「………」
「後で、でいい」
「……みずきちゃんはオレの親友になってくれるんじゃないの?」
「………。そのつもり、だ。私なんかで……いいのなら……」
「だったら……」
「だから、後でちゃんと行くと……」
青ざめた顔が苦痛を浮かべる。この表情は見たことがあった。いつも女子に追いかけ回されている時に時々浮かべているものだ。
「いいから、行くよ」
鞄から着替えを出し、幸稔は泉希の手を引く。だが一向に動こうとしないので彼の鞄を持って出て行く。
その時、慌てたような表情でこちらに手を伸ばしてきたが、軽くよけた。
待たせている宿の従業員の元へ顔を出す。お待たせしましたと頭を下げる幸稔。
従業員は温泉へと案内する。その後ろの方で泉希が苦虫を噛み潰したような表情を浮かべてついて来る。
「こちらが男性の湯、こちらが女性の湯です。うちはこうして案内しないとどちらがどちらか分からないので、お気をつけください。混浴もございますのでよろしければ是非。雪が降っていれば最高の混浴露天風呂になります」
左側を男性、右側を女性と従業員は示した。ドアも引き戸タイプで風情のあるものだった。
従業員が頭を下げてその場から去っていく。それを見届けると泉希は彼に手を伸ばした。
鞄を返せそういう意味でだった。けれどその手が鞄を掴むとそのまま彼は泉希を引き寄せ、手首をしっかりと掴んだ。
「さて、さっさと入ろうぜ」
「だ、だから私はっ」
「ここまで来たんだから」
入ろうぜと男湯の方へと引き込んだ。木を組んだ和風の作りの脱衣所。多数の宿泊客がこちらを見て手を止めている。
(だから………嫌なんだ……)
一気に寒気がした。身体中がざわついて鳥肌を立たせるようなそんな感覚。小刻みにその体は震えだす。身体が拒絶反応を起こしている。
家のシキタリの為、この長い髪は何処に行っても大体女に間違えられる。それに、名前も……余計に女のイメージを植え付けていく。
掴んだ手首から微かにその感覚を感じた彼が、悪かったと振り返って頭を下げた。そして持ってきた彼の鞄を差し出した。
「無理に連れてきて悪かった。ちゃんと後で、来るんだろう? それだったら戻ってもいい……。オレが部屋に戻るまで宿(ここ)に居てほしい」
そう言った幸稔の顔を泉希は見ることが出来なかった。ただ黙ってその鞄を受け取ると男湯を後にした。
 このまま、宿を出て安い宿泊施設を探そうかとも思った。
渋々部屋に戻った。約束といえば約束に取れる言葉を言われたから。けれども部屋に一人でいるのもつらく感じた。なんせ、そういう雰囲気の部屋だからだ……。
奥の部屋にたくさんのおもちゃが並んでいる。ぬいぐるみにラジコン、積み木にかるた。おもちゃという部類にあてはめられるものの大半がそこには散らばるように、けれども乱雑ではなく置かれていた。
溜息が出る。心なしか寒い。川に入ったままのズボンのせいだろう。しかし脱ぐわけにもと考えたのだが、明日同じものを着ていればいいかとズボンを穿きかえた。幾分ましだと思う。
それでも寒さが変わることはなかった。
そうしている内に何故だろう、眠気がやって来てその場に倒れるように意識を手放した。
畳の匂い。家の畳とは違い匂いを強く感じた。そんなことが頭の片隅にふっと流れて消えた。


 温泉の方では、幸稔が温泉に浸かっていた。
温泉だというので物凄く熱い。家の風呂が温いくらいだ。寧ろ熱湯風呂ってこんなんじゃないだろうかと考えるほどだ。慣れれば結構心地いいものだが。
透明の温泉、特に色味はついていない。けれど温泉独特の硫黄の香りがする。そこまで強いものではない。
(みずきちゃん大丈夫かな……)
ザバッと手で湯をすくい顔を洗う。冷たかった顔には沁みるくらい熱を感じた。これは嫌でも体は温まると確信する。
温泉に浸かる者たち。その中で先程の泉希のことを話す客が居た。
温泉とはいえ狭い空間だ。声が反響して、温泉を流すかけ流し口の水音ではっきりとは聞こえないが、なんとなく彼の事を話しているのだけはわかった。
「さっきの子、彼氏に無理矢理連れて来られた感じかな」
「だって、彼女すっごい顔色良くなかったし」
「若いって青春だね〜」
ゲラゲラと笑い声が響く。
(……はぁ…やっぱりか。それでみずきちゃん行きたくないって……)
「言ったんだよな……」
顎が唇が鼻がと、どんどん湯に沈んでいく。
(オレがわがまま言ったから……)
ザバッと顔を上げた。
――危うく溺死出来るところだった。
けれど、のぼせ気味にはなっていた。頭がふらふらする。胸がズンズンっと痛い。心臓がびっくりするくらい脈打っていて息苦しい。


脱衣所に戻るとさっさと着替え、部屋へと向かった。走ると余計にふらつくような感覚に襲われたため、速足で向かう。
"座敷童子の間"
部屋には電気がついていて、けれどもしんと静かだった。もしかして居ないという気もした。けれども、部屋に入ってすぐの辺りで泉希は倒れていた。
「みずきちゃん!?」
慌てて彼を揺すり頬に手を当てた。温泉で温まった手が触れた時驚いた。
彼はやはり先ほどと同じで冷たかった。温泉に入る前でさえ温かった幸稔の手が温泉でさらに熱を帯びた。その温度差に驚く。けれど彼は眠っているようだ。それには一時的な安堵を覚えた。
「みずきちゃん、こんな所で寝てたら本当に風邪ひく……」
少し考えてふすまを開けた。そこには寝具が畳まれ重なっていた。このまま彼を寝かせて置いたら本当に風邪をひきそうだったので、布団を敷くことにした。本当は起こして温泉に連れて行くのがいいのだろうけど、まだ温泉にはそれなりの人数の客が利用している。それならせめて温かくしておかなければという結論に至った。
 どうして彼はこんなに冷たいのだろうかと不思議に思っていた。
部屋の中は暖房が入っていて暖かいのだ。それなのに外から来た時とさほど変わらないのだ。
「みずきちゃん……。みずきちゃんは知ってる? 座敷童に会うと幸せになれるんだってさ」
布団に横にさせた彼に、おそらく聞こえていないだろう彼に幸稔は語るように言った。
 しんと静かな部屋、この部屋を訪れる人は幸せを求めて泊まりに来るのだろう。幸せになれた者がお礼におもちゃを置いて行くのだろうか? 幸せになりたくておみやげとしておもちゃを持って来て置いて行ってるのだろうか?
けれどもこの部屋に泊まったからといって確実に座敷童に会えるわけではない。会えずに帰っていく者も多いらしい。この部屋を予約したのは、何故だろう。


「……名前は幸せを祈ってるような名前なのにな。それに本当はオレここには居なかったはずなのに」
イギリス海岸であのまま、イメージだけでのケンタウルス祭のカラスウリのあかりを流した後、そのまま入水して終わるのだと考えていた。イギリス海岸からなら、もしかしたら小説にあるような銀河鉄道に乗ることが出来るのではないか、そこで死とはどんなものだったかくらいを考えられるのではないかと、何処かで考えていた。
頭の中で、情景が反芻する。
何故彼がこの花巻に居たのか、はっきりとした答えは聞いてない。そう思った瞬間彼が自分にそう言った時の事を思い出した。

 『昨日の事だ。昼にも聞いたが明白な答えは聞いてない』
死にたいと思ってると素で言って、それに対し答えを求めた彼の姿が浮かぶ。
(オレもみずきちゃんと同じか……、ちゃんとなんて答えてないし。みずきちゃんにだけ答えさせるのはきっとずるいんだろうな)
 そこへ失礼しますという女性の声がして数秒置いて戸がスッと小さく擦れる音と開く。
和装の女性従業員だ。
「紅葉さま、夕食はいつお持ちいたしましょう?」
「あ……、そういえばそうですね。すみません、すぐに持ってきてもらっても大丈夫ですか?」
「かしこまりました」
頭を下げ戻ろうとする彼女がふと視線を止めた。彼女の見ているのは先に敷いてしまった布団だった。
「すみません、勝手に……」
「あの、彼女さん大丈夫でしょうか?」
(やっぱりそういう反応になるのか……)
「本当は温泉に行ってもらいたいんだけど、嫌がってて。あの、一番お客さんが温泉に居ない時間って何時くらいですか?」
話がややこしくなるのが目に見えたので、聞きたいことを先に聞くことにした。
「ご利用のお客様が比較的少ない時間は今からですと……、夜中になってしまいますね。零時過ぎ辺りくらいからご利用のお客様は少なくなりますが、宴会で来ていらっしゃる団体のお客様がいらっしゃいますとそこそこ混みます。後は早朝近く四時五時辺りも静かに入れますよ」
「有難うございます。それと、彼女じゃなくて、彼男なんで」
えっというように目を丸くする女性従業員。うちの学校の女子の目がおかしいという訳ではなかったということを再確認させられた気分になった。これは彼が毎回毎回ストレスだろうなと。
「オレも紛らわしい呼び方してたのもありますよね。すみません」
「いえ……。こちらこそすみません。それで、彼は……顔色あまりよろしくなさそうですが」
「この部屋暖かいのにずっと顔も冷たいし、分からないんですよね」
見てると本当に寝てるだけみたいだから大丈夫だと思うと素直な気持ちを伝えた。従業員はそうですかと納得したようなしてないような曖昧な表情を一瞬して、夕食の準備をいたしますと言って、部屋を後にした。再び二人きりになる。

物音ひとつ……、

ぱりっ



なんか音がした気がした。ネズミでも居るのだろうか。耳を澄ますがもうその音はしなかった。
 泉希は眠ったままだ。
ふと顔は外に出ているので冷たいのは譲って、他は大丈夫なのだろうかとふと不安になった。こんな感情もう殆ど感じた事はなかったので、気持ち悪い。
布団にそっと手を突っ込んだ。中はあまり温かくはない。だからといってひんやりとしているかといえばそうとも言えない。けれど人が寝ている布団にしては寒すぎると思った。手探りで彼の手を探した。
布団の重みが手に圧し掛かって来る。そして、彼の手に触れて驚くしかなかった。やはり彼の手は温かった。此処に来た時よりかは微かに温かさを感じる程度にはなっていると思う。
温泉に入ってからだいぶたったので、温度も適度に変わっていっていた。
(冷え性でも流石に布団温まらないとか……あるのかな? いや、流石にないだろう。というか色々とめんどくさそうだし、冷え性とかはなさそうだよな。昼も持参の弁当に購買ってくらい食うやつだぞ……)
起こして温泉に引っ張っていった方がいいのだろうかとも考えたが、よく眠っているので起こすのもなんだか気が引けてしまい、そのまま彼が起きるのを待つことにした。
どちらにしても夕食の準備をしているので、今すぐには無理だった。
 それから三十分くらいが立った頃だ。先程と違う従業員がやって来て夕食を運んできた。
丁寧に並べた品の説明をしてくれる。結構ボリュームがありそうな夕食だった。主に海の幸がメインかと思っていたが山の幸もふんだんに盛り込まれていた。夕食までは宿泊に入れてはいたが朝食は適当にという形でも不自然ではないと、予約には入れなかった。夕食付で一泊九千ちょっとは、なかなかいいかもしれないと思った。
「来れてよかったかもしれない……な」
箸を止めてそう小さく呟いた。本当はここには居ない筈だったから、なんとなくそう呟いてしまった。

食事を終わらせるとある程度片づけをする、あらかた食べたが残したものもあるのでそれを一つの皿にまとめておく。東北の方は海に近いのも山に近いのもあって、かなり豪華な夕食となった。焼き魚に刺身、キノコの和え物や青物の入った味噌汁。考えれば考えるだけ、ここに居ることがおかしく思えて来て、泣きそうになる。
 相変わらず彼は眠ったまま起きる気配を感じなかった。これではまるで眠り姫だ。きっとそんなことを言ったらまた怒って殴られそうになるのだろうかと、考えて苦笑い。
「眠り姫よりか、白雪姫の方が合いそう」
色白の彼を見て微かに笑った。けれど本人にはその自覚はない。
泉希の傍に座って、問うように独り言。
「みずきちゃんは、どこで呪いを受けたの? 毒りんごを食べたの?」
不安という感情がこんなにも気分が悪く、胸に圧し掛かって来て苦しいものだと久しぶりに感じたせいでどうしたらいいのかわからなくなる。
 ――二十三時。
結局彼は目を覚まさなかった。
じきに夜が来る。朝を連れて来るまでの長くて短い夜が来る。
(流石にオレも眠いかもしれない)
体の方が休息を求めてきた。このまま寝てしまってもいいと思ったのだが、思いの外寒かった。暖房は勿論入っている。
元々ここに泊まる予定だったのは自分の方だ。けれどここに居るのは彼のおかげだとぐるぐるし始め、彼を起こさないように少し体をずらして、狭い布団にもぐりこんだ。
布団の中は本来ならば温かい筈なのだが、どうにも肌寒い。かれこれ数時間は寝ているはずなのに、布団の中も彼自身もそれほどまでに熱を発していないようだ。

「本当、ちょーうざい……」
体温のない彼が不安で、それでも遠慮がちに泉希の体を抱きしめるようにしてみた。
 少しでも彼に体温が渡ればいいと思った。あまりにも冷たすぎる彼にこちらが不安になるなんて、幸稔は思いもしなかった。どうしてこんな気持ちになるのかもわからない。今までにこんな気持ちに、不安という気持ちを抱いたことはきっとある筈なのに、それが思い出せないでいた。本当に久しぶりの感覚、そんな不安定な感情が腕の力を微かに強めた。
肌寒さが徐々に和らいでいく中、
 ――不思議なくらい早くに眠りに落ちた。


 なんだか窮屈な感覚に意識が浮上する……。
すっと開いた瞳は青闇を映す。光の落ちた電気と天井。
体が動かなくて冷汗が流れる気分だった。けれども、視線だけを動かして、ぎょっとした。
隣には幸稔が、こちらに手を回して眠っていた。
(な、なんでこんな……)
混乱しかけた頭がすっと冷静を取り戻す。
 彼が温泉に行ってる間、待っていたのだが……それから……?
とりあえず、彼は自分の寝床を自分に貸したため、こんな状態になったのではないかとすぐに理解した。
(私は何してるんだか……)
はぁっと溜息を吐く。しかしこれでは動けない。トイレに立つにも、だ。
そんなことを思った時だ、
「……みずきちゃん?」
くぐもった声が耳を貫いた。寝言かと思ったが、違うようだ。
サワサワと布の擦れる音がして、翡翠の瞳と目が合う。彼にも自分が見えているのかはわからない。目が慣れるのにも時間は掛からない。
「……」
「……」
起きたんだ、と彼は言って回されていた手が離れて行った。
「じゃあ、用意して行こうか」
布団から出るとこちらに振り返って手を差し出してきた。
「……何処へだ?」
「後で行くって言っただろ」
そう言われて、今更と呟いたがそのまま手を引かれ体を起こされた。
さっさと用意をして、部屋を後にする。
部屋の外の廊下は静まり返って怖いくらいだった。
従業員や他の客がちらほら居た。だがとても静かだった。





 浴場へやってきた。
引き戸を開けると、目には眩しい明るさが目に痛みを与える。
微かに温かい空気が漂う脱衣所。ほら、早くと幸稔に手を引かれ、呆然とする。
「今はそんなに人居ないし、さっさと温まって来い!」
そう背中を押してきた彼に、煮えきらないような気持ちのまま服を脱いでこっそりと浴場の戸を開けた。
湯気で辺りははっきりとはしないが、人は居なさそうだった。
息を吐いて、手早く体を洗って温泉に浸かった。
――熱い……。
体がおかしくなるというくらい温泉が熱く感じた。温泉とはそういうものだと思うのだが異常なくらいに思えた。
「そんなに私は冷えていたのだろうか……?」
入ったはいいが動くとその湯の温度で呼吸が苦しくなるような感覚、手足が痺れているような感覚に陥りその場から動けずにいた。温かいのに、熱いと感じてしまう、そして動けばその湯の温度と抵抗で更に体に負担がかかるようなふわふわするような、グラグラするような感覚。
(温泉は長居しない方がいいんだったよな……)
もういいだろうと体を起こした時だった。
「もう少し浸かってれば」
ちゃぽっと水音がして、波打つ。
「お前……」
「何だよ、折角なんだしもう一回くらい入ってもいいだろう。……ちょーうざい」
顔を鼻の頭辺りを残し沈める。
「……ボキャブラリー少なっ」
じっと泉希の方を見る幸稔に何だよという表情を浮かべる。
「いいから、もう一回浸かる!」
ザバッと顔を上げたかと思ったら手を引かれ体また温泉へと戻された。
静かな温泉はやたら声が響いた。
「あっついんだから、もういいって。十分温まったって!」
「本当かよ、これでまた冷たかったら……どうしたら温まるんだよ……。みずきちゃん……」
「別に気にすることではない。私の体質なだけだ」
「体質って、お前色々と生活きっちりしてそうだし、そんなのないと思うんだけど」
「……」
はっ? というような表情をして固まる泉希。
「だって、なんか弁当とかちゃんとしたの食ってるみたいだったし、生活とかもきっちりしてて風邪とか引かないようなタイプだと思ってさ」
「私のこれは普通だ。寒い所に行って冷たくならない方がおかし……い……。まぁ、迷惑をかけてしまったのは確かだ。すまない」
なんでみずきちゃんに謝られなければならないのだろうかと、自分の気持ちを言葉に出来ずグルグルする。
「でも、そろそろ上がらないと。温泉は長居するものではない」
泉希がそう言って上がり脱衣所へと戻って行く。それを数秒遅れて追いかけた。
 体からは湯気が上がる程度にはなっていた。だが。
「なんでみずきちゃん、こんなに体温上がらないんだよ!」
「おまっ、今、夜、夜中だぞ」
静かにしろとばかりに焦った表情を浮かべる泉希、幸稔はそんな彼にお構いなしにさっさと部屋へと戻り、暫く空っぽになっていた布団に泉希を寝かしつけ、わずかなスペースに自分の体も捻じ込んだ。
「私は別に布団じゃなくても……」
「バカか! みずきちゃん低体温なのに布団なしとかあり得ないから。けれどオレも寒いからそこは……我慢しろよな」
(元々オレが泊まる予定で予約してた部屋だし……)
「いや、我慢とかそんなではなく……。まずこの部屋はお前が泊まるために用意した場所であって私は関係な――」
「とりあえず寝る! で、明日帰る」
「……あ、ああ」
半ば強引に事を決められ言葉につまり同意をしてしまった泉希。今日は大人しく寝るしかないと腹を割った。
狭い布団に男が二人。これって青春って言えるのだろうか? と疑問を抱きつつも目を閉じた。
体温の高い彼の温度が、狭い空間を快適なものに変えていくようだった。
ぺちっと何かが手に当たったような気がしたと思うと、手が握られた。
「なんだ?」
「……どうせまた冷たくなるんだろ?手くらい握って寝てやるから、体温上げる努力しろよな」
「……余計なお世話だ」
「白雪姫……」
「おい」
「眠り姫」
「おい!」
「……吸血姫?」
「お前は何を言っている!」
振り返れば翡翠色の瞳。幸稔の目は何処までも澄んでいるように見えるのに、彼自身は暗く何かに沈んでいくようなそんな感じを漂わせている。
「ナニって、みずきちゃんのこと?」
色白いし、声かけても起きなかったし、手冷たいしと例を挙げていく幸稔に一発入れて、眠ることにした。
「痛っ」
「お前が悪い。私をそんな風に言うから」
それ以上は振り返りもせず目を閉じた。幸稔が何度か話しかけてきたが無視をした。
けれども彼はその手を離さない。…手を伝ってくる確かな熱を感じながら……、数時間の眠りに落ちる。


 翌日。
冷たい空気に起こされる。
手は握られたままだ。けれども部屋の異変に泉希は顔を布団の中に突っ込んだ。
暖かい空気の流れているそこ。動いたことで彼が目を覚ました。
「……みずきちゃん?」
握られた手を引っ張られるが、顔を上げることは出来なかった。
不信そうに彼が泉希の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か?」
えっというような表情をしてすぐに、何でもないと布団から顔を上げ、立ち上がる。繋がれたままの手を忘れて。
どしゃっと派手に布団の上にこけた。
「手、離してくれないか?」
「その前に、本当は何かあったんだろ?」
「何もない」
「嘘だ」
「何もない」
「何でもないってば!」
「いや……。もうオレ、何も言ってないけど……」
かあっと顔を赤くして、泉希は手を振り払い部屋を出て行く。
 部屋に残された幸稔は何が何だかわからずにいた。
幸稔は手を見つめた。微かに低い温度に少しは彼の役になったならいいなと思った後、ハッとして彼の後を追おうとした。のだが、部屋の前で、従業員さんとぶつかった。
「すみません。あの、お連れの方が暫くそっとしておいてほしいと伝えてほしいと言伝を」
「……? みずきちゃんが。わかりました、わざわざ有難うございます」
「それと、こちらを」
そう言って差し出してきたのは、飴だった。
(……飴?)
「テーブルに置いておいてほしいとのことです」
「はぁ……」
イマイチ理解が出来ないとばかりに従業員から飴を受け取るとしかたないと、部屋に戻った。

















 ぱりっ


 ぱたぱたぱたた……




「暫くってどれくらいだよ……」

 あはははは……

「子供の声……?」
体を起こし隣の部屋の窓辺を覗こうと立ち上がった時だった。隣の部屋におもちゃを見つめている童を見たような気がした。思わず目を瞬かせたが、何も居なかった。
「気のせい……か?」
後ろ姿ではあったが髪を垂れ流した代赭色(たいしゃいろ)の半纏を着た童。

 ガタッという音がして身を震わせた。
そこには顔色の悪い泉希がため息交じりに戻って来た。
「みずきちゃん!?」
目を閉じて、機嫌が悪そうな顔を貼り付けたまま、何を思ってか口を開いた。
「お前に頼みがある……」
「そ、その前にいきなり部屋から出て行って言うことないのか?」
「……心配…? かけたか……。すまない」
「いや、心配もしたけど!」
何だ? と不思議そうな顔でこちらを見て来る彼にああもうっと顔を引き寄せた。
「また顔色悪いし、冷たいし……。心配しか出来ねぇよ」
小さな呼吸音。
「……会えた、みたいだな」
小さな声。
「何か言った?」
「早く帰りたい……」
「みず……――その前に、頼みたい事ってなんだよ、泉希」
耳を疑った。彼が普通に自分の名前を呼んだことに。思考が停止したとはこの事だと思う。
違和感の残る彼から呼ばれた自分。
いや、また今度でいい。とこの時は言った。本当はすぐにでも頼みたかった、けれどどうしてかそれを止めてしまった。この部屋がそういう部屋だったから、そういうものは持ち込まない方がいいのかもしれないと、なんとなく思ったのかもしれない。

 ――髪を垂れ流した 代赭色の半纏を着た赤い顔の童がこちらを伺うように、部屋と部屋の間の襖から見ていた。







 二人は宿を後にする。
「ちょっと待ってて、部屋に忘れ物」
「別に私は先に帰って構わないだろう」
「だから! あー、すぐだから! 三分で戻る!」
そう叫んで走っていく幸稔を見送ると、何事もなかったように泉希は宿を出て行った。

 "座敷童子の間"。
畳の和室の奥の部屋。たくさんのおもちゃが置かれた部屋。
「きっとオレは会えたんだろうな」
鞄からクマのぬいぐるみと持ってきていた金平糖の瓶を置いて、部屋を後にした。

 ロビーに戻るとそこに彼の姿はない。既にチェックアウトは済ませていたので、宿の従業員たちに挨拶をして急いで宿を出た。十一月の冷え込みが体を覆う。新花巻駅まで走った。
息が詰まりそうになりながらも、マラソン大会に似た感覚を感じながら、駅まで走った。
新幹線の乗車までまだ時間はあった。でも、さっさと行ってしまった泉希が気になって仕方なかったのだ。
(待っててって言ったのに……)
悪態を吐きながら、ホームへと駆けこんだ。
息が上がっている体を落ち着かせようとするが、急に止まるものではない、呼吸は乱れる一方だった。
ホームで彼の姿を探す。
まばらな人で埋まるホーム、その中に彼を見つけ、声をかけた。
「……待って、てって……、言ったのに……」
「お前、何そんな走って……?」
「泉希を追っかけてきたからだよ!」
驚いた表情で幸稔を見る泉希。目を微かに伏せ
「な、何で呼び捨て、なんだ? いつもみたいに私をからかったように呼べばいいだろ」
「いや……、オレのせいでお前に嫌な思いさせてる部分もあったなとか……、思ったりしなかったり……」
言葉を濁しながら幸稔もまた目を伏せた。
 一日旅行も終わりを告げる。
ホームに上野行きの新幹線がやって来る。
冷たい北の風ともお別れだ。
「どうせ学校で会うだろう……、わざわざ走って来なくても」
ドアが開くと泉希はさっさと乗り込んで行った。自由席の車両へと。
(あ、帰りは座って行けそう……)
空いている席を確認し、そちらへ向かおうとしてその体は反対側へと引っ張られた。一瞬心臓が飛び出そうになるような驚きがあったが、首だけが後ろを向く。
「何をしてる。私は帰りくらいは座りたいのだ!」
バタバタと暴れる泉希をめんどくさそうに引っ張り、指定席車両へと連れ込んだ。
「座りたいならここでいいだろ」
半ば強制的にシートに座らせた。勿論彼は目をぱちくりしていて状況が呑めていない様子。
その横に幸稔がドカッと腰を下ろした。発車までまだ時間は長い。
鞄から切符を取り出しその一つを泉希に渡し、さっさと目を瞑った。
昨日は夜中に温泉に入ったのもあってか、凄く眠気を感じていた。横で泉希が何かを言っているのを聞きながら、幸稔は三時間の眠りに入ろうとする。
「おい、私だって自分の切符が……」
これ以上言っても無駄だと諦めて、暫く座っていた。


(発車する少し前に戻ればいいか、あー…また座れないのか…)
首をがくりと落とすのだった。
ふと、眠りに入りそうになっているであろう彼の頬に視線が行った。
あの日見た生々しい傷は薄くはなっている方だが、それは残っていた。保健室で見たあの躊躇いのない傷。彼が死にたがっていた理由は本当に彼が言った、なんとなくなのかもしれないが、今隣に彼が居ることにわずかながら安堵感を抱いている自分がいた。友達だったとかいう訳ではないが、今は……。

――一応はカムパネルラ(親友)、なんだよな?



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