1.


 冷めきったミルクティーを免罪符に駅前のカフェに居座り続け、はや数時間が経過しようとしている。
 カウンター席に数枚のレジュメを広げ、顰めっ面でそれを睨む少女──関祈里(せきいのり)は、無意識に手の中のボールペンをくるりと回した。
 一月八日、外が寒いからか、それとも冬休み期間だからか、カフェ店内は学生を中心に満席とまではいかずともそれなりの客数がある。
 ほどよい雑音とBGMがゆったりと流れる空間で、大学一年目の祈里は数日後に迫った後期期末試験に向けて単語を詰めこんでいるところだった。一年目から留年は笑えない。
 あまりに同じ箇所を凝視し続けていたせいだろうか、目の前のレジュメの無機質な文字が脳の裏で踊りはじめて、これはいけないと目を閉じる。その瞬間に、隣から野次が飛んできた。
「おーい、寝るなよ」
「寝ないし。ちょっと休憩してるだけ」
 あっそ、と言いながら、きっとその顔はにやついているのだろう。見えないながらにその男の顔を想像しながら、祈里はまたペンを回した。
 祈里の隣の席に座り、教科書を眺めているこの男の名前は塩谷蓮(しおやれん)である。
 高校生の頃からの腐れ縁であり、テスト勉強しようぜ、と駅前まで祈里を呼び出した張本人だ。そろそろ親戚以外の人に会いたくなった、とも言っていた。気持ちは分かる、と了承したのが二日ほど前のことになる。
 それにしても、わざわざ異性である祈里を呼び出すだなんて、こいつに友達はいないのだろうか。なんて、半分ほどは冗談だが、祈里がそう思ってしまったのはきっと自然なことだろう。まあ、その辺りの事情に興味はこれっぽっちもないのだが。
 それに、友達がいないのは祈里の方だ。それこそ、同学年の友達らしい友達なんて蓮くらいしかいない。口が裂けても本人には言わないが、きっと蓮だってそのような認識を持っているに違いない。きっと、祈里を哀れんで口にしないだけだ。
「なあ、テスト終わったらどうすんの」
「どうするって?」
「いや、なあ?」
 なあ、と言われても分からない。祈里と蓮の付き合いはもう四年目、高校一年のときからになるが、正直なところ、祈里にはなぜこの男が自分なんかと一緒にいたがるのかがさっぱり分からなかった。
 関祈里は平凡な人間だった。勉強は中の中。顔も取り立てて良くはない。運動や人前が苦手。
 唯一自慢できることと言えば読書量くらいだろうか。おかげで速読は得意だし、作文の類も苦に思ったことはない。それにしてもやはり地味すぎる、と祈里は内心で苦笑した。
 あるいは、だからこうして祈里に構っているのかもしれない。何も持たない祈里が哀れで、同情を誘うから。ただし、もし本当にそうなのだとしたら、ありがた迷惑というやつだ。
 そもそも、初めて交わした言葉も、仲良くなったきっかけも思い出せない。きっとそれくらいに自然なものだったのだろう、よもやそこから三年連続で同じクラスになろうとは、あのときの祈里は考えもしていなかったが。
 しかも大学、さらには学科まで同じだ。ここまで来ると運命のようなものすら感じるが、祈里と蓮に限ってそれはない。そう祈里は断言できた。
 関祈里と塩谷蓮は、なんとなく仲の良い、そんな関係なのだ。少なくとも祈里はそう考えている。
「春休みじゃん」
「そうだね」
「あいつ、受験生だろ? ってことは、あいつも春休み長いだろ。どっか誘ったりしねーの」
 あいつ――考えるまでもなく、祈里たちの一つ年下、同じ高校に通っていた後輩である、浅岸佑弥(あさぎしゆうや)のことだ。
 祈里とは中学から同じで、その頃から祈里が一方的に想いを寄せている相手でもある。そしてどういうわけだか、蓮と話すようになった当時から蓮にはこのことを知られてしまっているのであった。
「いや、いやいや……なんて言って誘うの。絶対断られる」
「誘ってみなきゃ分かんねーだろ」
「いや、ていうかわたしは眺めてるだけで充分っていうか、そんな、付き合いたいとか、そういうのじゃないので……」
 はあ? と蓮が思いきり顔を顰めた。祈里は逃げるようにミルクティーのマグに手を伸ばす。ちなみに、蓮のそれはとっくの昔に空になっている。
「分かんねーな。好きって、それだけで我慢できるもんか?」
「……わたしだって、分かんないし」
 そう言って祈里は拗ねたようにふいと蓮から顔を背けた。むしろ、こっちが聞きたいし。そんな言葉を、呑み込みながら。
 祈里にとって、恋愛というのは未知のものに等しい。本やドラマといったフィクションからなんとなくのイメージこそ持っているものの、友達がいないせいで実際にそういう色恋の話を聞く機会はないし、自分が当事者となれば話は全く別だ。
 現に祈里は生まれてこの方、誰かとお付き合いなるものをしたことがない。告白をしたこともなければ、されたこともない。好きという感情を抱いたのだって、四年以上前、佑弥に対してが初めてのことだった。
 確かに、佑弥が誰かほかの女子と仲良くしているところを見かける度にもやもやとした。その隣にいるのがわたしだったらと思った。しかし思うだけで実行に移そうとは思わなかった――勇気がなかったというのも、そうなのだが。何より、彼の隣にいる自分が。自分が、彼を笑顔にできる自信が。なかったのだ。
「とにかく、今のままでいいんですよ。うん」
 ただ、彼を好きだという気持ちに偽りはない。少なくとも祈里はそう信じているし、それは誰にも否定されたくない。関祈里を構成するものの一つにこの思いがあるのだと、祈里はそう考えている。
 しかし蓮はいまいち納得できないようで、不満そうな顔で祈里を見ていた。
「あいつと最後に会ったの、いつだよ」
「……五月?」
「半年以上前じゃねえか……」
 確か、佑弥の所属するテニス部のインターハイの地区予選の応援に行ったきりだ。それも、会いにいった、というよりは、単に見にいった、と言った方が正しい。
 とある筋から彼の所属するテニス部の試合のある日程を教えてもらって、その会場が家から徒歩十数分の近所であったこともあり、散歩ついでだと己に言い聞かせて足を伸ばしてみたのだ。
「もっとアタックしろって。顔忘れられても文句言えねーぞ」
「それは、嫌、だな……」
「ほらあ、嫌なら連絡しろってー」
 そのうち後悔しても知らねーぞ、と蓮は続ける。この塩谷蓮という男は、高校のときからこうして祈里の恋を応援し、何度も背中を押してくれているのだった。
 祈里の何がそんなに蓮の気に入ったのかは不明だが、それでもこうして話を聞いてくれる存在がいるというのは有難いものだなと、祈里は密かに彼に感謝をしている。絶対に本人には言ってやらないが。
「で、でも、SNSではずっと相互いいねしてる!」
「地味だなー……」
 蓮はその声に呆れを滲ませながら、大袈裟にがっくりと肩を落として見せた。よよよ、と下手な泣き真似まで始める。
 俯いた彼の金髪頭を見て、祈里はそれをどこか遠い存在のように思った。
 高校を卒業してすぐに染められた髪、にこにことよく笑う明るい性格。高校の頃はいつも友人に囲まれていたし、大学に入ってからも見かける度に違う人と一緒にいる。
 塩谷蓮は太陽のような人だと、よく思う。だったらわたしはさしずめその辺りに無造作に転がる石といったところだろうか。
 祈里は胸の辺りまで伸ばされた無難な暗い茶色の髪を指先で触りながら、そんなことをぼうっと考えていた。さて、最後に美容院に行ったのはいつだったか。
「祈里がそんなので、俺は心配だよ」
「いや、ていうか余計なお世話……」
 話はまだ終わっていなかったらしい。気恥ずかしくなりながら、祈里はマグカップに口をつけた。そろそろ残りが心許ないなと、頭の隅でお代わりの文字がちらつく。
「そもそも祈里、そんなSNSに投稿してねーじゃん。最後に投稿したの、それこそいつだよ」
「……」
「覚えてねーんじゃん」
 フォロワーの少ないSNSに、一体何を投稿しろと言うのだ。心の中で呟きながらマグを持った指先を回せば、底に僅かに残ったミルクティーがたぷんと揺れる。
 どうして塩谷は、わたしなんかに構うのだろう。飽きずにそうも考えていた。
 結局、それからさらに一時間ほどカフェに居座って、ついに祈里の飲んでいたミルクティーが底を尽きたところで店を出た。
 祈里が本屋に寄りたいと言って、そこで用事を済ませてから駅の改札前で解散をする。帰りの手段は祈里が電車、蓮が自転車だ。律儀に見送りをしてくれるだなんてあいつもなかなか丁寧な男だと、祈里はこっそり笑った。
 外の寒さとは対照的に、車内は暖房がよく効いていた。足元のヒーターが心地良い。
 ふと目に入った向かいの座席に座る二人の女子高生が、一つのイヤホンを片耳ずつに着け、一つのスマートフォンの画面を覗き込んできゃっきゃと盛り上がっていた。 
 楽しそうなその様子を見て、どうして自分にはあのような友達がいないのだろうと考える。答えはすぐに出た。必要性を感じられないし、そうこうしているうちに友達の作り方を忘れてしまったからだった。
 こんな調子で、社会に出たときにどうするのだろう。漠然とした不安をかき消すように、目を閉じて、開ける。
 この土日と月曜の祝日で冬季休暇も終わりだと、意味もなく点けたスマートフォンの日付の表示を眺めながら思う。つまり、期末試験も目前だということだ。気が滅入る。
 家族と車を使って少し遠くへ足を伸ばしての初詣に行ったとき、『勉強頑張ってるので単位をください』と願ってはみたが、果たして祈里の努力は無事に報われるのだろうか。報われてくれないと、今までの勉強時間が無駄になってしまう。
 気休めの軽い気持ちでのお願いではあったが、単位が懸かっているとなれば神頼みもしたくなるものだ。
 蓮と待ち合わせた駅である織古(おりふる)駅から、祈里の住む町の最寄り駅である白旦(びゃくだん)駅までは四駅ある。 
 車窓の向こうを眺めながら手持ち無沙汰に十数分ほど電車に揺られていると、車内アナウンスがようやく白旦駅が目の前であることを知らせた。
 祈里は外の寒さを思って陰鬱な気持ちになりながらも、ゆっくりと立ち上がった。電車が停まる。
 人の疎らなホームへと降りながら、祈里はマフラーに顔を埋めた。吐き出す息は白く、低いヒールがコンクリートを鳴らす。
 一月上旬の、日が短いとはいえまだまだ明るい昼下がりに、傍の自動販売機のコーンポタージュを未練がましく睨みながら祈里は改札を抜けた。残念ながら、祈里の財布は先ほど済ませてきた買い物のせいで随分と軽くなってしまっていた。
 断じて親戚から回収したお年玉を使って豪遊をしたというわけではない。むしろその八割は貯金に回したし、さっき買ったものはずっと追いかけている作家さんの新作とその他諸々で、あくまで必要経費なのだ。
 誰へともなく脳裏でそんな言い訳を並べ立てていると、目の前でチンと地上階からやってきたらしいエレベーターが到着した音がした。ただ横目で見るだけのつもりだったのが、中に乗っていた客の姿に覚えがあって、祈里はついその足を止めた。ドアが開いて、乗客と目が合う。あ、と二人ほぼ同時に声が漏れた。
「ヒナちゃん!」
「祈里先輩、お久しぶりです」
 ヒナちゃん、と呼ばれた少女は手慣れた様子で乗っている車椅子をこぎ、箱の中から出てくるとにこりと微笑む。祈里は靴音を鳴らしながら早足で少女に駆け寄って、「久しぶり!」と数段高くなった声で返した。
「え、ヒナちゃんどうしたの、あ、もしかして補習?」
「そうなんですよ。私たちの冬休みなんて、一週間でさよならでした」
「はー、進学クラスは大変だねえ……」
 ヒナちゃん──鷲宮秀那(わしみやひいな)は、祈里の一つ年下の後輩である。幼い頃から両足が不自由で、歩行が難しいことからこうして車椅子に乗って生活をしているのだそうだ。あまり踏み込んだ事情は、デリケートな問題かもしれないと思って聞いたことがない。
 そしてこの白旦駅は、私立白旦高校──祈里と蓮の母校であり、また現在は秀那や佑弥が通っている。ちなみに件の五月のインターハイ予選もこの高校で行われた──の最寄り駅でもある。
 秀那が着ているのが見覚えしかない制服であることからも、高校からの帰りであることは自明だろう。
 秀那は数週間後の共通テスト、及び一か月後に迫った大学の一般入試の対策のため、また彼女の在籍するクラスの方針もあって、世の学生たちが猫のように炬燵で丸くなっているこの時期も学校に通っているというのだった。
 秀那は長い黒髪を揺らしながら僅かに首を傾けて、「ほんと、私ったら偉いですよね」とお茶目に言った。全くだ。
 普段は母親が送り迎えをしてくれていると聞いているが、その母親の仕事のタイミングの都合でたまにこうしてひとりで下校をすることがあるらしい。それは仕方のないことなのだが、秀那はきれいな顔をしているから、道中で変なやつに絡まれないだろうかと勝手に不安になってしまう。
「本当に偉いよ。あ、コーンポタージュ飲む? 奢っちゃう」
「えっ、良いんですか? なら、私はオニオンスープを奢ってしんぜましょう」
「あら、結構ですわ。ヒナちゃんは誰よりも頑張ってるんだから。おばさんが甘やかしてあげないといけないんですのよ」
 互いに妙な口調で、祈里はカバンから財布を取り出しつつ先ほど一瞥をくれてやったものとは別のメーカーの、きっぷ売り場の脇にあった自動販売機にコインを入れた。秀那も車椅子をこいで、祈里の後を追いかける。
「おばさんって、先輩……私と一つしか変わらないじゃないですか」
「なんかね、最近老いを感じる。本当にね、制服が眩しいよ……」
「ちょっと、ほんとにおばさんみたいなこと言わないでください」
 くすくすと笑う秀那に、祈里は「切実なんだけどなあ」と遠い目をした。祈里の指先でピ、と音が鳴る。
「ヒナちゃんも覚悟してないとだめだよ。大学に入った瞬間、一気に老けるから。本当に」
「ふふ、肝に銘じておきます」
 ガコン、と鈍い音を立てて缶が受け取り口に落ちた。祈里は屈んでそれを手に取って、秀那に差し出す。
 ありがとうございます、と眉を下げて秀那が缶を受け取った。その折れそうに細くて白い手をぼんやりと眺める。わたしと違って、きれいな指だ。そんなことを思いながら。
「そうだ、先輩こそ今日はどうしたんですか。散財ですか?」
 秀那の黒目がちな大きな瞳は、祈里の手にある書店の袋に向いている。かさり、と小さな音を立てながら、祈里は苦く笑った。蓮と一緒にいたことは、話すことでもないだろう。
「……好きな作家さんの、新作の発売日だったの」
「あー! 例の! いいなあ、私も読んでみたいなあ」
 缶でささやかな暖を取りながら秀那が言った。祈里が過去に何度もおすすめだよと言って聞かせた作家だったから、秀那もそのことを覚えていたのだろう。
 祈里は立ち上がってカバンを肩に掛け直し、首を傾げた。
「もし良かったら、読み終わったら貸そうか? わたしも試験近いから、まだ先にはなると思うけど」
 その言葉は、本心からのものではなかった。別に貸すのが嫌なわけではない。問題があるとするなら、それは秀那の方だった。
 きっと断られるだろう、と半ば諦めにも似た気持ちで、祈里は背の低い自身の肩よりも、さらに少し下にある秀那の顔を見る。
 俯きがちではあるものの、案の定どこか憂いを帯びたような、なんとも形容し難い表情をしているのが見えた。
「……いえ、そのときは、自分で買いますよ。正直、私も本読んでる場合じゃないので!」
 一転して、秀那はぱっと明るく笑ってみせる。一見すると恥ずかしそうにしている様子に、祈里は何も気にしていないフリをして「確かにね」と返した。
 ほら、やっぱりね。内心で呟いて、溜息を吐いた。
 これは、祈里もここ数か月の間に気が付いたことだった。──鷲宮秀那はどうやら、不確定な約束を嫌っているらしい。
 いつになるか分からない、本当に叶えられるかわからない、そういった約束に、秀那は決して頷こうとしない。過去に何かトラウマでもあるのだろうか。なんて、そんなことを本人に尋ねるつもりは毛頭ないのだが。
「ヒナちゃん、下まで送るよ」
「良いんですか? へへ、嬉しいです」
 定期券を再び改札に通して──これを持っている者の特権だ──、同じくICカードを使って改札を通過してくる秀那を待ってから祈里は車椅子を押した。その手つきも今となっては随分と手慣れたものだ。
 秀那の乗る予定の電車がやって来るまではあと数分あるらしい。
「そうだ。浅岸、今日も日本史の先生に呼び出されてましたよ」
 構内のガラス越しに映る秀那の横顔は、化粧をせずともそれだけで綺麗だと思う。艶のあるストレートの黒髪、寒さのせいか上気したように染まった頬は愛らしい。赤い唇は色付きのリップクリームを塗っているのだろうか、彼女の白い肌によく映えている。
 来世があるなら、秀那のような顔に生まれたい。とても楽しい人生になりそうだ。
 秀那自身、性格もさっぱりしているし、勉強だってよくできる。脚さえこんな状態でなければ、なんて不躾なことをつい考えてしまうのは、きっと祈里だけではないはずだ。もちろん、一番悔しい思いをしているのは秀那だろうが──「先輩?」
 は、と顔を上げると同時に、ポーン、と軽快な音が鳴って目の前の扉が開いた。どうやら祈里たちの乗っているエレベーターがホーム階へと到着したらしかった。
 いつの間にエレベーターに乗り込んでいたのだろう、と驚いていると、こちらを振り向いて心配そうな顔をしている秀那と目が合った。
「大丈夫ですか、やっぱり今日はまっすぐ帰った方が」
「いや、ごめん。ちょっと考えごとしてた」
「……浅岸のことですか?」
 慌てて車椅子を押してエレベーターから出る。秀那の目が細められて、に、と悪戯っぽく口角が上がっていた。冗談めいた口調だ。
 否定するのも面倒で、祈里は「そう、だよ」と下手な笑みを浮かべた。ヒナちゃんのことを考えてたんだよ、なんて、本人を目の前にしてとてもではないが言いたくなかった。
「浅岸、どこの大学目指してるって教えてくれないんですよね。県内か、隣県のどこかだとは思うんですけど」
 溜息混じりに言う秀那に、そうなんだ、と祈里は硬い声で返す。肩にまで力が入ってしまいそうになるのは、きっと寒さのせいだ。秀那がかしゅ、と音を立ててコーンポタージュの缶を開ける音がする。
「先輩も、連絡くらいすればいいのに。後悔してからじゃ遅いですよ」
 秀那も、蓮と同じことを言う。それに祈里は曖昧に微笑んだ。彼女も、祈里の恋を応援してくれている一人だった。
 ちなみに、五月の佑弥の試合のタレコミをしてくれたのもこの秀那である。
 秀那と佑弥は幼稚園からの幼馴染みらしい。高校が同じになったのは偶然らしいが、クラスが違う現在も、たまに廊下で顔を合わせては軽く話をする程度の仲なのだそうだ。
 内緒ですよ、と幼稚園の卒園アルバムを見せてもらったこともある。幼い佑弥も、もちろん秀那もとびきり可愛かった。
「でも、いま忙しいでしょ? 共通テストとか目の前じゃん」
「まあ、そうなんですけど……」
 祈里は電車の一両目、一番扉が来るであろう位置で車椅子を押す手を止めた。いつも通りならこのポジションに乗務員がいて、秀那のためにスロープを設置してくれるはずだった。秀那も何も言ってこないから、今回もそれで合っているのだろう。
「じゃあ、受験が終わったら誘うんですね? どうせあいつ私立しか受けませんよ、部活バカで今まで勉強なんてしてなかったので。一緒に夢の国でも行ってきたらどうですか?」
「……気が向いたら、ね」
 幼馴染みだからか遠慮がないなと、笑いながら祈里は言った。そこは向けてくださいよ、と秀那も苦笑する。
 夢の国は少々ハードルが高いが、映画くらいなら誘ってみても良いかもしれない。自分のことでもないのにどこか楽しげな秀那を見ながら祈里はそう思う。
 そんな話をしているうちに、アナウンスが電車の到着が間もないことを知らせた。秀那は片目を閉じて、缶の底に残ってしまったらしいコーンの粒を見ていた。
 近くの踏切の遮断機が降りる音がする。いつの間にか、ホームには秀那と同じ電車に乗るのであろう人が集まってきていた。
「祈里先輩、今日はありがとうございました。お家に帰ったらちゃんと暖まってくださいね。試験、頑張ってください」
「ヒナちゃんも、大変だろうけど……頑張ってね。気を付けて帰るんだよ」
 はい、と笑って、秀那が電車に乗り込んでいく。あ、缶のごみを受け取ればよかった。そうは思うがもう遅い。きっと秀那の降りる駅にもごみ箱は設置されているだろうから、祈里の気にするところではないはずだ。それなのにどうしてもお節介を焼きたくなってしまう。
 駅係員と目が合って、祈里はそれに会釈をした。閉じていく扉の向こうで秀那が手を振って、祈里もそれに振り返す。
 電車が走り去っていって、強い風が吹く。くしゅん、と誰もいないホームに、祈里のくしゃみの音が小さく響いた。