夢を見ていた。そこで祈里は中学の制服を着ていた。
当時祈里が在籍していたクラスの教室からは、テニスコートが見えた。放課後、祈里は受験勉強を口実に教室に一人居残っては、閉めきられた窓越しに彼を──想い人である、浅岸佑弥を見つめていた。
佑弥を意識しはじめたきっかけを、祈里はよく覚えている。あれは祈里が中学三年、佑弥が二年の、五月の終わりのことだった。
その年、祈里は委員会に所属していた。保健委員、その活動内容がなんだったか、今となっては具体的に思い出せない。
ただ一つだけ記憶にあるのは、二週間に一度、保健室から発行する広報──あくまで作成するのは委員の生徒たちで、先生はただの監修だ──の作成だ。
二クラスずつ、合わせて四人での分担で行うことになっているそれに、二年七組だった佑弥と三年一組だった祈里とで担当が被った。学年差があるだけにその場は気まずいものだったが、決して会話がないわけではなかった。
「……あれ、浅岸くんだけ?」
「先輩こそ、一人ですか?」
放課後、三十分だけと決めて保健室の机の上で参考図書と筆記用具、原本とするための藁半紙を広げる。その日、祈里のクラスの男子と佑弥のクラスの女子がどうやら遅刻をしているようだった。
テーマは既に決まっていたため、特にメンバーが揃わずとも困ることはない。先に始めてしまおう、と祈里はペンを手に取った。その間、無言なのも如何なものかと、一応先輩として気を遣った祈里が口を開く。
「ねえ、浅岸くんって、テニス上手いんだね」
「……知ってたんですか?」
むしろ全校生徒で知らない人の方が稀だろう。学校の、正門前に貼られた横断幕。そこにはでかでかと太字で祝・関東大会出場と、そしてテニス部の文字とともに、佑弥の名前が書かれていたのであった。
まだ二年生でこれなのだから、末恐ろしい。将来有望だなと、通学中にそれが目に入る度に祈里は思っていた。
「すごいなあと思って見てたよ」
本心からそう言うと、佑弥は「いや、そんなこと」と声を上ずらせながら応える。照れからか顔が赤い。
「ペアのやつのおかげです。……悔しいんですけど」
そういえばあれはダブルスだったか、と佑弥の名前の隣に並んでいるのであろう誰かの名前を、今朝の記憶を辿りながら思い返す。しかし思い出せない。興味のないものに対しては、そんなものだろう。
「そう? でも、半分は間違いなく浅岸くんの実力でしょ」
祈里は自分のことを、あまりに特筆するべきことのない平凡な、むしろそれ以下な人間だと評価している。だから、こうして何か一芸に秀でている人というものが祈里にはどうしても眩しく、羨ましく思えるのだった。
「本当に、すごいと思うよ。今までたくさん努力してきたんだろうね。……あ、いや、わたしが軽く言えることでもないね。ごめん」
祈里は無意識にそう言って、それから何を偉そうなことを、と思って慌てて謝罪の言葉を口にした。
しかし佑弥は気分を害した様子は見せずに、はにかみながら「いや、ありがとうございます」と笑ってみせた。可愛いなあと、祈里が思ってしまったのはきっと不可抗力だった。
とにかく、祈里はそのようにして浅岸佑弥という男を強く意識するようになったのだった。もう少し補足をするならば、佑弥の可愛らしい顔立ちと弟のような性格が、俗に言う祈里のタイプというやつでもあった。
あくまでこのときのことはきっかけに過ぎない。その日から祈里と佑弥の距離は、有り体に言うなら縮まった。
校舎内ですれ違えば会釈をする。たまに世間話をすることもあった。お世辞にも男子に慣れているとは言えない祈里は、それだけでも毎回のように心臓をうるさく鳴らしていたのだが、遠くから眺めるだけとなるとさすがにそこまでではない。
ぼんやりと佑弥への気持ちを認めながら、しかしそれを口に出すつもりは一切ないまま。祈里はただ毎日、彼がラケットを振る姿を一枚のガラス越しに見つめていた。
「先輩って、高校どこ目指してるとか、聞いてもいい感じっすか?」
ある冬の日の放課後の下駄箱前で、部活終わりらしい佑弥と偶然、本当に偶然居合わせた。途中まで一緒に帰りましょう、と誘われたのは、自然な流れの中でだった。その頃には佑弥の口調は随分と砕けたものになっていた。
「……白高(しろこう)かなあ。やっぱり近いし、制服可愛いし」
白旦高校──地元の人たちからはその発音の難しさゆえ、白高と呼ばれている──は、祈里の家から徒歩十分と少しの距離にある。
そこの黒を基調としたシンプルながらに洗練されたデザインの制服は、生徒たちからもかなりの人気だ。ちなみに一部の生徒からは喪服とも呼ばれている。縁起でもないが、自虐のジョークとしては面白いと思う。
私立の高校ではあるが、祈里はそのことについて親にも特に反対されていない。ほかに行きたいと思える公立高校もないし、あそこに通うことになるのだろうと、なんとなく考えていた。
「あー、やっぱ近いのっていいっすよね! あそこテニスも結構強いし、俺も行くならそこかなーって思ってて」
それを聞いて、喜ぶなという方が酷ではないか。
白旦高校の学力レベルは、はっきり言ってピンキリだ。進学クラスにはそれなりに賢い生徒たちが集まっているものの、普通クラスならば祈里の学力でも入れる。祈里と佑弥がまた同じ学校へ通えることになるであろう確率は、低くはなかった。
「もしまた同じだったら、よろしくお願いしますね、先輩」
顔を合わせる度に、佑弥は背が伸び続けているようだった。成長期なのだろうか、この数か月で随分と変わった目線に祈里は嫌でも男を意識する。しかしできるだけそれを表に出さないようにしながら、あくまで先輩として、祈里は笑った。
「もちろん。歓迎するよ」
──窓から差し込む明かりで目が覚めた。嫌味なくらいに良い天気だ。試験勉強をせねば、と上手く開かない瞼をこじ開けながら、祈里は寝返りを打つ。悪くはない目覚めだった。
そういえば、わたしの身長の伸びもあの頃に止まったんだよな。恋愛思考から逃れるように、そんなどうでも良いことをぼんやりと考えた。
*
どうにも試験勉強の進みが悪くて、エアコンの稼働音を聞きながらスマートフォンを開いては閉じてを繰り返す。
祈里はその心情とは裏腹に青い空を半開きの眼で眺めながら、誰にともなく決意した。──そうだ、コンビニ行こう。
そう決めてからの行動は早かった。朝食はしっかり食べたはずなのだが、そんなことは関係ない。菓子は別腹だ。
部屋着からラフな服装に着替えながら、あそこの新作のスイーツが食べたい、いやあの恒常のお菓子も好きなんだよな、と考えを巡らせる。なお、昨日軽くしたばかりの財布の中身のことはすっかり頭にない。ついでにこの後用意されるであろう昼食のことも考えていない。
どうせすぐ戻るだろうとエアコンはそのままに、リビングにいた母親に少し外に出るという旨を伝えてから祈里は家を出た。その瞬間に強い風が吹いてきて、祈里の心を砕いていく。
「……」
乱れた前髪を整えてから、祈里はポケットに手を突っ込んだ。絶対にココアを買おう。そう改めて心に決めた。
そしてそれから数十分後、ありがとうございましたの声を背に祈里はコンビニを出た。
手にはそれなりの重さのレジ袋、それからホットチョコレート。満足だ。ドリンクの入ったカップで両手の暖を取りながら、マフラーの下で上機嫌ににこにこと笑う。
心変わりの原因は実に単純で、新発売と書かれたポップにいとも簡単に興味を惹かれたからというだけである。要は、温かくて甘いものならなんでも良かったのだ。
財布の中身のことは考えないようにしながら、暖房の効いている自室に思いを馳せていた。と、そのときだ。
ふと自転車のベルを鳴らす音が聞こえて、祈里はそちらの方を向いた。辺りに通行人や車の姿はない。まさか自分に鳴らされているのかと、祈里はやや不機嫌そうに顔を顰めて──そして破顔させた。
「浅岸くんじゃん!」
「お久しぶりです。後ろ姿で先輩じゃないかなって思って、よかった、合ってた」
ベルを鳴らしたのは佑弥だった。
五月ぶりに見る佑弥は制服を着込み、手袋をはめた手で懐っこく祈里に向かって手を振る。
にこにこの笑顔と子犬のような仕草に、きゅう、と心臓が鳴るのを自覚しながら、祈里もそれに振り返した。しかし気が付く。彼は制服を着ている。そして今はあと一時間ほどで正午になるかという時間だった。つまり。
「ねえ……遅刻?」
「あ、バレました? へへ、寝坊しちゃいました」
ふわふわの癖毛を風に揺らしながら、なんでもないと言わんばかりの笑みで佑弥はそう言った。丸い垂れ目がさらに垂れて、その無垢な笑顔に絆されそうにさえなる。
「いや、いやいや……何やってんの、はやく学校行きなよ……」
「もう三限間に合いませんし、自習室寄ってこうかなって。だから大丈夫っす」
何も大丈夫ではない。全く、彼の幼馴染みである秀那は真面目に通っているというのに。内心でそう思いながら、その実こうして佑弥と言葉を交わせているこの状況を喜んでしまっているのだから、祈里だって何も言えない。
今日のような土曜日であっても授業があるのは私立の強みであり嫌なところでもあるな、と祈里は思った。下手に学校と家までの距離が近いせいで気が緩むのかもしれない。
佑弥は自転車を降り、それを押しながら祈里の隣に並ぶ。中学の頃は十センチもなかったはずの身長差が、いつの間にかその二倍ほどになっていた。知らない間に変わっていく佑弥に、祈里は一抹の寂しさを覚える。
「ヒナちゃんに勉強教えてもらったり、しないの?」
「……ああ、鷲宮ですか? あいつケチなんで」
幼稚園の頃からの付き合いだというのに、彼らは互いを名字で呼び合う。世の幼馴染みというのはそういうものなのだろうか、と以前にそのことを佑弥に尋ねてみたところ、『なんか、今更な感じして』と困ったような笑みで返されたことをよく覚えている。
というのも、佑弥と秀那は幼稚園こそ同じであり、親同士も知り合いであったらしいが、小学校に入ってすぐの頃に秀那が別の学校に転校をしたそうなのだ。
それからも連絡は定期的に取り合っていたものの、顔を合わせて再会をしたのは高校に入ってからだった、とのことだった。運命じみているなと、その話を聞いた当時はそんな感想を抱いたものだ。
「ふーん。忙しいのかな、やっぱり」
「なんすかね。あいつ、友達もいないし、勉強ばっかしかしてなかったですからねー……」
それには少々同意をしかねる。やはりこの幼馴染みたちは互いに容赦がない。返答に困っている祈里に気付かずに、佑弥はぼやくように続けた。
「彼氏くらい作ればいいのに。あ、だから、あいつに先輩がいて良かったなって思ってるんです。これからも仲良くしてやってくださいね」
空白の期間が長かったとはいえ、幼馴染みゆえに思うところがあるのだろう。軽い口調ながらもしみじみとした様子でそう言う佑弥に、祈里は何度も頷いた。
祈里にとって、秀那は間違いなく無二の存在だ。佑弥に頼まれずとも、秀那から距離を取られない限りは仲良くし続けたいと思っている。「それにしても、世間って狭いっすよね」それにもまた頷いた。
「ねえ、ヒナちゃんのこと、好きになったりしないの? わたしだったら絶対好きになっちゃう。あんなに可愛くていい子なのに」
できるだけなんでもない風を装ってそう言った。話の流れもあったから、きっと不自然ではないだろう。佑弥の顔を見ることはできずに、足元のアスファルトを眺める。
「いい子? あいつがっすか?」
佑弥はその質問に少なからず驚いたようで、そして心外だ、とでも言いたげだった。顔を見ずとも、声の調子だけでも分かる。
うん、と頷けば、「ないっすね」とあっさり返された。
「あいつ年上好きだから、先輩には猫被ってんすよ。気を付けてください」
「え、そうなんだ……」
なんでそんなことを知っているのだろう。祈里は内心でそう呟いた。やはりこの二人は仲が良いのか悪いのか分からない。
「大学でもテニス、続けるの?」
「そのつもりです。もう俺、テニスしか取り柄ないんで」
何気なく尋ねると、佑弥は照れ臭そうにそう答えた。そんなことはないだろうに、とは思うが、無責任な慰めの言葉は佑弥には不要だろう。それくらいのことは、この数年来の付き合いで祈里も察している。
浅岸佑弥という男の、そういういっそ青臭いようなところが可愛らしくて応援したくなるのだ。
祈里は、自身の好きな異性のタイプを”可愛い人”だと認識している。
例えば恋愛小説を読んでいて、ヒロインを奪い合う男キャラの中でついつい応援してしまうのは当て馬役の可愛い男の子枠だし、たまに見るテレビでも、ふと目にしたCMで可愛らしい顔立ちの俳優が出ているとつい目で追ってしまう。
祈里に兄弟がいないことも関係しているのかもしれない。とにかく、自分を慕ってくれる存在というのはやはり可愛く思えてしまう。そして浅岸佑弥という後輩は、祈里から見てまさしく”可愛い”後輩なのであった。
眩しいな、と祈里は目を細めた。佑弥が少なくとも中学の頃からテニスを続けているのは知っている。一つのことをそれだけの間やり通すというのは、どれくらいの情熱が必要なのだろう。祈里には想像すらできない。
「推薦とか、来なかったの?」
「一校だけ話来たんですけど、断りました。ここを離れるとか、ちょっと考えられなくて」
やはり推薦の話はあったのだ。すごい、と素直に口に出せば、「いや、だって一人暮らしって厳しくないっすか?」と佑弥は大真面目な顔で言う。違う、そっちじゃない。そうは思ったが、口にはしなかった。ちなみに、一人暮らしより実家暮らしの方が楽だろうというのには、祈里も同意だった。
「そういえばさ、テニスを始めたきっかけとかってある?」
純粋に気になっただけだった。他意の一つもない質問だったのに、しかしどうやら変なことを口走ってしまったようだ。明らかに佑弥の顔付きが変わった。心做しか、その場の空気が数段重くなったような。そんな感覚さえした。
「えっと、ほら、わたしは趣味とか特技とか、ないからさ」
もしかすると、この話題は佑弥にとっての地雷だったのかもしれない。弁解をするように慌ててそう付け足すと、いつになく神妙な面持ちをした佑弥と目が合った。
佑弥はそれを口にするかどうか、しばし悩んでいたようだった。しかし祈里が不安そうに首を傾げるのを見て、意を決したように口を開いた。
「憧れの、人がいて」
躊躇いがちに、ゆっくりと。祈里の気のせいでなければ、佑弥の歩く速度も僅かに遅くなったようだった。自転車のハンドルを握る手にも力が入る。
「その人がテニスをやってたんです、元々。で、俺らも真似してテニスを始めたんです」
「……俺ら?」
口を挟むのは本意ではなかったが、どうしても気になってしまった。佑弥はそれに気分を害した様子は見せず、あっさりと教えてくれた。
「あ、俺がダブルス組んでるの、従兄弟なんです。その人とは、共通の知り合いみたいな感じで。まあ、その人はシングルスだったんですけどね」
それどころか、憧れの人のことを話す佑弥がいつになく生き生きとしていて、つられてこちらまで笑顔になった。その人のことが本当に好きなのだと、想像するのは容易い。
「へえ、すごかったんだね、その人」
そう相槌を打つと、佑弥がさらに食い気味に頷いた。きらきらと、瞳が輝いている。
「そうなんすよ! すごかったんです。色んな大会に出てて」
本当にその人のことが好きなのだろうというのは、その熱の籠った様子からも説得力があった。かと思えば、ふっとその瞳に影が差す。
「でも、もうテニスできなくなっちゃって、その人。だから、俺たちが代わりに、インターハイ出ようって」
「……そう、だったんだ」
どう返事をすれば良いのかが分からなかった。佑弥はそれ以上の詳細は語らなかったが、その人の身にあまり良くないことが起こったのだろうことは、佑弥の様子から見て明白だった。
佑弥が力なく笑う。
「もう、意地みたいな感じっす、テニス続けてるの。好きなんですよ、もちろん。本当に、好きで……」
「……うん」
結局、祈里と佑弥は祈里の家のすぐ近くまでを並んで歩いた。
自転車に跨り、学校のある方向へと走り去っていく佑弥の背中を見つめながら、若いな、と祈里は小さく呟く。手の中のホットチョコレートがぬるくなっているのは、不可抗力だ。
佑弥の苦しそうな表情を思い出しながら、祈里は俯いた。
秀那にしても、佑弥にしてもそうだ。なかなか、相手の懐に入ることができない。踏み込み方の見当もつかない。傷つけたくないし、その痛みを少しでも軽くしてやりたいのに、その方法がさっぱり分からない。
友達がもう少しいれば、その付き合い方に慣れていれば、ここまで不器用ではなかっただろうに。
これだから、わたしは。
自己嫌悪でぐるぐると胸の奥が気持ち悪い。しかしこんなことを思うのも、おこがましいような気がして何がなんなんだか分からない。
もう少し、頭を冷やしてから帰ろう。祈里は微妙な量の残されていた、甘ったるいホットチョコレートを一気飲みすると、家へと続く道をそのまま通り過ぎた。