織古に着いたのは、十九時になる数分前だった。
祈里が家を出る頃にはすっかり雪は止んでいて、ただしんとした空気と、湿った地面がそこにあるだけだった。やはり、雪は積もっていなかった。
改札を通り抜けながら、秀那から送られてきたマップを改めて開く。どうやらその場所は、繁華街からは外れた場所にある、住宅街の中のコンビニのようだった。秀那の家がこの辺りにあるのだろうか。
学校や仕事帰りなのだろう人々の間を抜けながら三分ほど歩く。この寒い時期に大変だ、と他人事に思いながら歩いていると、それらしき建物が見えてきた。
駐車場には数台の車が停まっていて、コンビニの軒の一番端に、車椅子に乗った少女がいた。言わずもがな、秀那であった。
祈里は秀那の姿を認めると、足を滑らせない程度にその歩みを早める。秀那はすぐにこちらに気が付いて、控えめにその手を振った。
「こんばんは。走らなくても良かったのに」
「いや、だってこの寒い中待たせてたんだし……」
「それを言うなら、私こそ寒い中わざわざ来てもらったんですから。ありがとうございます」
そう言う秀那は淡い色のチェック柄のマフラーを巻いて、キャメルのコートを着ていた。彼女にしたいくらいの可愛さだが、それでも寒いものは寒いのだろう、鼻の先が赤い。
「な、な、生足」
「ちょっと、どこ見てるんですか」
「寒くないの」
「下はあんまり。たぶん私、脚に神経通ってないんですよ」
「冗談になってないですよ秀那さん……」
ちなみに祈里はマフラーにコートはもちろん、裏起毛のインナーを着ているし、高デニールのタイツを履いて、さらにその上にロングスカートを履いている。手袋は悩んだ末、あまりに過剰装備かと思って置いてきた。老いに寒さは敵なのだ、とは祈里談である。
秀那は祈里の気持ちなど知らずにけらけらと楽しそうに笑っていた。
「じゃあ、行きましょう。お気に入りだった公園があるんです。この時間だし、誰もいませんよ。灯りが少なくて、この辺りにしては星がよく見えるんです」
秀那はそう言ったかと思えば「あっ……」と顔を曇らせた。
「すみません、やっぱりどこかお店に入った方が良いですよね」
「いや、いい、いい、大丈夫! 公園行こう! 最近ちゃんと星とか見てなかったからちょっと見たいし!」
しゅんとした様子の秀那を見て、祈里は必死にそう言った。でも、と食い下がる秀那の車椅子を押す。「いいの! ほら、道教えて」そうしてしまえば、こちらの勝ちだった。
てっきり飲食店にでも入るのかと思っていた。しかしよく考えずとも、秀那は車椅子だ。車椅子のまま店に入れば、間違いなく店員は客である秀那に気を遣うだろう。
それが仕事だろうとか、そんなことは秀那には関係ない。秀那はきっと他人の手をできるだけ煩わせたくないのだ。なんなら、祈里すらその対象に入っていそうなくらいである。
秀那は気を取り直したのか、「しばらくは道なりです」と素直にその手を膝の上に置いていた。
ふと見上げた空に、散りばめられたラメパウダーのように星が光っていた。いつの間にか、あれだけ厚く空を覆っていた雪雲はどこかへ行ってしまっていたようだ。空にははっきりと月が浮かんで見える。
祈里が秀那の車椅子を押して歩く間、祈里も秀那も互いに一言だって無駄な口を開かなかった。
時期が時期だけに、虫の鳴く声すらもしない。ただただ冷たい風に、祈里はカイロを持ってきて良かったと何度も思った。
こっそりと確認したスマートフォンの時刻は、十九時十七分を示していた。できるだけ早く帰してやりたい。遅くまで付き合わせることになるだろうという自覚があるながらに、そう考える。
秀那の親まで祈里の親のように放任主義だとは限らない。ましてや秀那は愛らしい顔立ちをしているし、車椅子のせいで何かあればと不安になっても仕方ないだろう。きっと愛されて育ってきたのだろうと、容易に想像できる。
祈里がそんなことを考えている中で、当の秀那はぼうっと空を見つめていた。
不思議とこの沈黙は嫌ではなかった。状況の違いこそあれ、蓮とのそれは、あんなにも苦痛だったというのに。
「次の角を右です」
き、と車椅子の車輪が音を立てる。ぽつぽつと等間隔に並ぶ、多くはない街灯たちに照らされながら祈里は瞬きをした。なるほど、小さな公園が見える。秀那が言っていたのはあれだろうと納得して、その公園を目指して祈里はまた車椅子を押す手に力を込めた。
「それで……浅岸のことですか?」
「まあ、うん。……ごめん、大変な時期なのに」
「大丈夫ですってば、それは。そうですね、肉まんで手を打ちます」
それくらいお安い御用だと、祈里は薄く笑った。ついでに抹茶ラテも付けてやろうと密かに思いながら、「あのね」と口を開く。
「……塩谷に、告白、された」
我ながら辿々しい口調で、少々わざとらしいかもしれないと思ったそれに、秀那が僅かに息を呑んだ気配がした。「えっ、ついに」
「待ってついにって何」
思っていた反応と違ったことに、祈里は裏返りそうな声でそう言った。少々声が大きくなってしまったが、周りに人の気配はないから許されるはずだ。それに秀那は真面目な声で返す。
「いや、塩谷先輩が祈里先輩を好きなのは誰の目から見ても明らかでしたよ。いつまで猫被ってんだって思ってたんですけど、はあ……なるほど、今か。最悪ですね」
なにそれ、と叫び出しそうになるのを堪えながら、祈里ははくはくと口を動かした。言葉が出ない。さらりと毒を吐く秀那に突っ込みを入れる余裕もなかった。
「まさか、浅岸くんも」
「知ってるでしょうね。むしろあからさまに牽制してましたよ、浅岸のこと」
あっさりと肯定してみせた秀那に祈里はいよいよ唸らずにはいられなかった。なにそれ、なにそれ。知らない、聞いていない。
「なんで教えてくれなかったの……」
「いえ、他人の恋路に無闇に首突っ込んで蹴られるのはさすがに嫌だったので……なんか、すみません」
それもそうだ、と納得する一方で、やはり何故、という気持ちが拭いきれない。
外野である秀那が気付いていて、当事者である自身が気づいていなかっただなんて、そんな滑稽な話があるだろうか。そこまで他人の機微に疎いつもりではなかったのに。
「祈里先輩って、ほんとに自分に興味ないですよね……」
秀那がそう苦笑している。否定は、できそうになかった。なんとも言いようのない感情に唇を尖らせる祈里に、外野で冷静な秀那な問いかける。
「要は、祈里先輩は。塩谷先輩を拒否するか、受け入れるか。悩んでるんですよね」
その公園は入口の脇に外灯が一つあるだけで、暗く寂しい印象だった。先客もいないようだ。当たり前だ、こんな季節のそれも夜に、好き好んで公園にやって来るやつはそうそういない。
遊具の類は見当たらず、ただグラウンドの広がるこの公園の敷地の隅、テーブルとベンチの設置されたそのスペースに、車椅子を並べて祈里も腰を落ち着ける。
その場所のすぐ先は土手になっていて、水が音もなく流れていた。反射した月がゆらゆらと鈍く揺れている。それを所在なさげに眺めながら、祈里は頷いた。
「……まあ、はい」
というよりは、拒否の方法に悩んでいる、と言った方が正しいような気がしないでもない。しかし秀那はそのことを察しているのかいないのか、続けて問いを投げた。
「祈里先輩は、現状維持がしたいんですよね?」
その言葉に、祈里ははっきりと言葉を返すことができなかった。
その通りだ。現状維持──塩谷と付き合うつもりはない。しかしその気持ちを無下にして、今の関係を悪くしたくない。このままただの友達として、卒業までを過ごしたい。
「無理ですよ、そんなこと」
秀那の声が鋭く祈里の胸を突いた。どっと心臓の動きが速まる。考えが甘い、と言われているようだった。
冷え冷えとする空気のせいで耳が痛い。祈里はすっかり暗闇に慣れてしまった目で、横髪の隙間から秀那の顔を覗き見た。
「先輩。私はさっき、現状維持と言いましたね」
秀那はこちらを見る様子がない。中空を見つめながら淡々と、時折白い吐息を逃がしながら言葉を吐き出していく。
「……言った、ね」
秀那が何を言おうとしているのか、まるで分からない。それがどうしたの、祈里がそう尋ねるより前に、秀那は言う。
「言葉の通りです。……先輩、報われる気、ないでしょう」
浅岸とさえ、付き合うつもりがないんでしょう。言葉の裏で、そんな秀那の声が聞こえる。
そこで秀那が言葉を区切った。彼女の端正な顔がこちらを向く。そんなはずがないのに、その睫毛の一本一本までが見えるようだった。それくらいに、祈里は目の前の後輩に目を奪われていた。
「ねえ、先輩。幸せに、なりたくないんでしょう?」
何も答えようとしない祈里を見て、秀那は笑った。仕方ないですね、とでも言いたげだった。
「前に、神隠しの話をしたのを覚えていますか」
不意に、秀那がそんなことを言った。それにぎこちなく祈里は頷く。覚えている、あれは確か三週間ほど前のことだったはずだ。
祈里の返答に満足したのか、それとも単に相槌を求めているだけなのか、秀那はそのまま続ける。
「あの神様、どうも星と一緒に降ってきたみたいですよ」
秀那の黒い瞳、髪。きれいでうつくしいそれは、いっそ温度を感じさせない。まるでお人形のように、作り物であるかのように、ただただそこに在るように。
そんな秀那に惹かれたことも、また事実ではあるのだが。今日の秀那は、どこかそれが色濃いように思われた。ともすれば、このまま透けて消えてしまいそうな。じわりと溶けて、いなくなってしまいそうな。
「だから、ここの地名には星にまつわるものが多いし、昔は星を信仰してた人も結構いたみたいです」
秀那の薄い唇から紡がれる現実離れした内容のそれに、祈里はどう返事をしたものかと考えあぐねていた。それに気付いているのだろう、秀那はふとこちらを見て緩く口の端を上げた。
「私、興味あるんですよね、こういうの。神話とか? 夢があるじゃないですか」
そう言う秀那に、祈里は暫し考える。彼女が何を意図しているのか、まるで分からない。しかし秀那は少なくとも祈里よりは頭が良い。察しも良い。こんな状況で、ただ無駄話をするような性格でもなかった。
「……意外かも。ヒナちゃんは、リアリストなイメージだった。否定をするわけじゃないんだけど」
最後にそう付け加えた祈里に、秀那はおかしそうに笑った。いよいよ秀那が何を考えているのか分からなくて、祈里はその瞳を不安げに揺らす。この話が、どこへ帰結するのだろう。
「要はこの土地においては、星に願うことは、神様にお願いをするにも等しいってことです」
秀那はそう言って、一つ深呼吸をした。ねえ、先輩。彼女のまるい瞳が、こちらを覗いている。
「私の話を、してもいいですか」
頷けば、秀那の笑う気配がした。俯く秀那の視線の先──車椅子の足掛けの上、ちょこんと乗せられた彼女のそれ。もう二度と地面を踏めない、それ。
「私、小学校に上がったばかりの頃は、まだ自分で歩けたんですよ」
秀那から、彼女の脚についての詳細を聞くのは初めてだった。こちらから聞くには勇気が出なかったし、佑弥や秀那もその話をしようとしなかったから──避けている、いう様子でもなかったが──どうにも緊張する。
「正直、覚えてないんです。そのときのこと。失ってから初めて気が付く、ってやつですかね? ただ、事故とかではなくて、本当に突然、使い物にならなくなったんです、これ。原因も分からなくて、医者にも匙を投げられて」
気持ちの籠らない声だった。ぽつぽつと、独白のようなそれが紡がれていく。
夢を見るんですよ。
その夢が指すのが、将来のものではなく、眠るときに見るそれだとすぐに思い当たってしまって、切なくなった。
「夢の中で、私、歩いてるんです。楽に坂を登って、階段を上がって、水溜まりを跳んで避けてるんです」
そう言う秀那の声は笑っていた。さっきから祈里は何も返事を、相槌すらも返せていない。それでも秀那は話す。
「笑っちゃいませんか? 所詮は夢なんですよ」
秀那の声は決して大きなものではないのに、叫び声のように聞こえて仕方ない。そんな秀那を、誰が笑えるというのか。
そこまで言った秀那ははあ、と溜息を吐くように大きく息を吐き出した。数秒の間。秀那がゆっくりと顔を上げて、その目を細めた。
「もうすぐ星が降ってきますね」
言われて、思い出す。そういえば、そんなことを蓮が言っていた気がした。今朝もローカルテレビのアナウンサーが、流星群がどうのこうのと言っていた気がしないでもない。
確か、そうだ。今日はキキョウ座流星群、その極大の日。
やはり返す言葉を見付けられないまま、ゆるりとこちらを向いた秀那と目が合った。
「先輩は、何をお願いするんですか?」
そう言って薄く笑う秀那がどうにも儚くて、美しくて、祈里は返事をすることも忘れて瞬きを繰り返した。
「ふふ、すみません。困らせたいわけではなかったんです」
秀那が笑ってそう言った。今の話を、なかったことにしようとしている。うやむやにされる。そうは思ったが、祈里にはどうすることもできなかった。ヒナちゃんは、何をお願いするの。そう訊きたいのに、訊けない。
「さっきの話の続きですが。現状維持なんて無理です。塩谷先輩は、この状況を変えるために祈里先輩に告白したんです。それをなかったことにするのは、あまりに可哀想だし、無茶です。いつか綻んで、自分の首を絞めますよ」
「……じゃあ」
「断るも受け容れるも、祈里先輩の自由ですよ、もちろん。ただ、受け容れたら……浅岸との未来はないですね」
秀那のその言葉に、祈里は黙り込んだ。佑弥との未来。そんなこと、初めから考えたこともなかった。
「でも祈里先輩は、浅岸とも特に付き合いたいわけではないんですもんね」
そんな祈里の内心を見透かしたように、秀那はそう言った。なんだか後ろめたい気分になって、俯く。
「恋愛に、興味がないわけじゃないの」
まるで幼子のちゃちな言い訳のようだ。言えば言うほど、自分の恋愛観がおかしいと主張しているようだった。
「ただ、相手が自分に好意を持ってるって、それがもう駄目なの」
要は、片想いをしていたいのだ。秀那は少し考える素振りを見せながら、言った。
「……カエルの王子様、ですか?」
「なにそれ」
全く聞き覚えのない言葉に祈里がきょとんとしていると、秀那は「うろ覚えなんですけど」と前置きしてから話しはじめた。
「とある国に、お姫様がいました。お姫様が泉に落し物をして困っていると、カエルが現れて、落し物を取ってきてあげる代わりに、一緒に寝てほしいと頼みます。お姫様は了承して、でも約束を破って落し物だけ回収してお城に帰ってしまいます」
「突っ込みどころが多いね」
秀那が一度話を区切って呼吸を整えるタイミングで、祈里は思わず口を挟んだ。それに秀那は口の端を持ち上げて、「確かに」と頷く。
「まあ、古今東西、どこでも昔話とかおとぎ話ってそんなものですよね。……それで、カエルはそのことに不満を持って、お城まで抗議に来ます。すると王様はそれはいけないとお姫様を諭して、お姫様はカエルと寝ることになるんです。お姫様はカエルをベッドに入れてあげました」
「ひえ……」
勝手にそのシーンを想像した祈里が小さく悲鳴をあげる。シーツがべたべたしそうだし、とても集中して眠りにつけなさそうだ。
「でもやっぱり気持ち悪い。お姫様は耐えきれなくて、カエルを壁に叩き付けました」
「壁に叩き付けました」
オウムのように復唱した祈里に、秀那はこくりと頷いた。
壁に叩き付けられたカエルは無事なのだろうか。というか、約束を破ったうえにカエルにそんな仕打ちをしたお姫様はただで済むのだろうか。罰の一つや二つ、当たりそうなものだが。
「するとたちまちカエルはかっこいい王子様に変身しました。かけられていた呪いが解けたのです。そうしてお姫様は王子様に一目惚れして、二人は結婚することになりました。めでたしめでたし」
一体何がめでたいのだろうか。というかカエルはそれでいいのか。思うことは色々とあったが、これ以上話を脱線させるのも忍びなく、祈里はその諸々の感想を呑み込んだ。
「……それが、カエルの王子様」
「そうです。そして、好きに思っていた異性がいざ自分に気があるとなると一気に冷めてしまう。この現象を、蛙化現象と言います」
秀那のその言葉に、祈里はいよいよ首を傾げた。蛙化現象。今の話を聞く限りでは、王子様化現象の方が正しい気もするが。
そんな考えが顔に出ていたのだろう、秀那が苦笑した。
「分かります。逆ですもんね。まあ、好きだったかっこいい王子様が急にカエルに見えて気持ち悪くなってしまう、ってことです」
「……へえ」
いくらなんでもカエルとまでは言い過ぎかな、なんて呑気に考えていれば、どこか真剣な顔をしている秀那と目が合った。
「……うーん、違うみたいですね」
首を傾げる祈里を見て、秀那が続けた。
「浅岸とか、塩谷先輩のこと。気持ち悪いとは、思わないんですね」
佑弥と蓮が、気持ち悪い。確かに、そうは思わなかったが。否、どちらかと言えば、その想像すらも上手くできなかった、という方が正しい。
それに、祈里は佑弥と、あるいは蓮と、付き合えない理由を自分でちゃんと分かっている。だから、正直に答えた。
「……あのね、違うの。わたしは、浅岸くんに、幸せになってほしくて」
秀那が眉を寄せながら首を傾げた。祈里も困ったように苦笑しながら、えっと、と言葉を探しながら口を開く。
「わたし、浅岸くんと付き合うのが想像できない、ていうか、幸せにできる自信がなくて。ほら、付き合うってなったら、相手の時間とかお金とか、色んなものを奪うことになるでしょ。でも、わたしにそんな価値はないし。それに、わたしも、浅岸くんにそうやって尽くせる自信がないの。きっと、困らせて、迷惑かけてばっかりになると思う。それが、嫌」
上手く伝えられているかどうか不安ではあったものの、祈里はなんとかそう言いきって細く息を吐いた。
秀那はというと、祈里のその言葉を聞いて、苦虫を嚙み潰したかのような、その顔に似合わない表情をしている。しばらくそうして顔を顰めていたものの、ぽつり、と言った。
「恋なんて、そんなものですよ。自分勝手で、身勝手なものなんですよ。きっと」
秀那が顔を上げる。必死な顔だと思った。
「私だって、知らないけど。恋なんて、今までできなかったけど。きっとそう。祈里先輩は、もっと自分勝手に生きてもいいんですよ」
そう言って、泣きそうに笑っている。秀那の泣く姿なんて想像できないけれど、不思議とそんな気がして、ついその目尻に指を伸ばしそうになった。
「……そう、かな」
「そうですよ」
ぐるぐると思考を彷徨わせ続けていると、そんな祈里を見かねたのか、秀那はごく軽い口調でそう言った。一転、にこにこと、祈里を安心させるためか柔い笑みを浮かべて祈里を見ている。いつの間にか、泣きそうだった秀那はいなくなっていた。
どうも秀那には色々と見透かされているようだ。これではどちらが年上だか分からない。
「じゃあ、塩谷先輩はどうですか?」
次いで秀那が真面目な顔でそう言って、祈里はぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「塩谷先輩が、祈里先輩に気があるって気がついて。どう思いましたか? 嫌な気持ちに、なりましたか?」
尋ねられて、その問いには首を横に振る。しかし、そういえば。もしも蓮と付き合ったら、という仮定を、今まで想像をしようともしていなかったことに気が付いた。
佑弥のことは、何度か勝手に想像してはその度に違うな、と思ったことがあるのに――全く失礼で身勝手な話だ――、そう言われてみると、蓮とのことは告白をされてからも、考えようともしたことがない。
蓮に、その想いを伝えられたとき。わたしは何を思ったのだったか。そう思い返してみたものの、とにかく驚いたということ、それに勝る恥ずかしいという感情しか思い出せない。
照れた表情を出さないようにと、それだけを意識しながら祈里は首を横に振った。ふうん、と秀那が頷く。
「案外、それが答えかもしれませんね」
秀那は落ちてきた横髪を耳に掛けながら目を伏せた。
「あの先輩、性格は悪いですけど祈里先輩には甘いから、きっと待てと言ったら待ちますよ。ゆっくりでいいんです。先輩には、時間がありますから」
「それは、どうかな」
「後悔だけはしちゃ駄目です。絶対に」
秀那にしては強い口調だった。何かを訴えかけるように、静かなのに、迫るものがあった。
祈里が言葉を返せずにいると、へら、と秀那が眉を下げて笑った。
「なんて、長い付き合いでもないのに、私が一番気持ち悪いですね。すみません」
ガサ、と音がして、秀那の乗る車椅子が地面の草や砂を踏んでいるのだと気がついた。
秀那がどこか名残惜しそうに言った。薄く、儚い笑み。
「そろそろ帰りましょうか。寒くなってきました」
静かな声も、僅かに傾いた首も肩の上を滑る髪も、何もかもが美術品のようだった。