一月二十九日。その日は朝からちらほらと雪が降っていた。
一昨日から寒波の影響がなんとやらで随分と冷え込むようになっていたが、雪が降るほどではない。それは土地の問題だろうか。気にしたこともなかったが。
今日も今日とて時間を持て余していた祈里は、外気温と室温との温度差のせいで曇った窓ガラスの結露を指で拭って、その向こうの雪を見つめていた。窓を開ける勇気は、さすがになかった。
ちなみに、今日の蓮はアルバイトがあるらしい。何も聞いていないのに、『バイトだるい』と愚痴めいたメッセージが届いていた。全く興味がない。それにはスタンプだけを適当に返して、それきりだ。
この雪が積もることはないのだろう。きっとすぐに溶けてなくなってしまう。数年見ていない雪景色を思い返しながら、そう考える。例え積もったところで、それを喜ぶような年頃でもないのだが。
今日は何をしようか。落ちてはまた降ってくる雪をぼんやりと見つめながら、考える。数年前に読んだきりの本を、シリーズ一作目から読み返そうか。やはりそれくらいしか思い浮かばない。
本は好きだ。特に、フィクションがいい。ホラーもSFも嫌いじゃない。空想の世界だと割り切った上で、時間を忘れて本の中の世界に飛び込む感覚は気持ちがいい。
反対に、ノンフィクションやドキュメンタリーはあまり好んでは読まない。ついつまらない自分と比較してしまうから。どうしようもない劣等感に、押し潰されそうになるから。
これをしよう、と決めたところで、まず体を動かさなければ話にならない。祈里はベッドに無造作に転がったまま、件のシリーズのあらすじを思い返していた。そのとき、祈里のスマートフォンが何事か通知音を鳴らした。
また塩谷だろうか。もしかすると、今の時間はアルバイトの休憩中なのかもしれない。あいつも飽きないな、と半ば呆れ気味に祈里はメッセージの送信者を確認する。意外なことに、それは蓮からのものではなかった。
『先輩!』
蓮は間違っても祈里のことを先輩、とは呼ばない。
それは、あの神社の一件以来の秀那からのメッセージだった。また何かあったのだろうか。可愛い後輩の頼みならなんでも聞いてやろうと、ニュースサイトを眺めながら次のメッセージを待つ。
『浅岸、先輩と同じ隣県の大学受けるみたいですよ!』
「えっ」
それを見た瞬間、思わずスマートフォンを握る手に力が入った。うそ、と小さいながらに声が漏れる。そんなことがあるのだろうか。
浅岸がどこの大学に行くのだろうと、気になってはいた。あるいは就職という可能性もあったが、それを聞くのは野暮だろうととても本人に尋ねることができなかったのだ。
本当に、秀那は祈里に色んな情報をもたらしてくれる。
『きょう本人に聞きました!』
そのメッセージに感情のままに返信して、返事を待たずに祈里は履歴から蓮とのトークルームを探した。この喜びを共有して、理解してくれるのも共感してくれるのも、蓮しかいないと思ったからだった。
突然の発信だったが、やはり休憩中だったのか、蓮は数コールで通話に応じた。タイミングが良い。
回線が繋がった瞬間に、祈里は抑えきれないと言わんばかりに口を開いた。
「ねえねえねえ」
「おうおうどうした」
いつになくテンションの高い祈里に、蓮が苦笑混じりな声で応える。
きっと蓮は良かったなと言ってくれる。祈里の喜びを、同じように受け取ってくれる。そんな確信が、祈里にはあった。だから、心の準備ができていなかった。
「浅岸くんが! わたしたちと同じ大学受けるって!」
「……」
「ねえ聞いてる? もしもーし、塩谷さーん。あのね、浅岸くんがね」
「あのさあ」
それは今までの蓮からは想像もつかない、刺々しい声だった。瞬間、きりきりと胃が痛くなる。
まるで、祈里が何かとてつもなく悪いことをしてしまったような。それを糾弾する、指導者のような。
こんな蓮は、初めてだった。想像もしていなかった状況に、一瞬息を吸うことを忘れてしまう。待てども待てども続きを言おうとしない蓮に、心臓が痛くなる。
例えるなら、鋭く冷たい氷柱(つらら)の先を喉元に突き付けられているかのような気分だった。いっそのこと、早くそれを突き刺してほしい。そうして、楽にさせてほしい。
「……え?」
この状況から解放されたくてやっとの思いで絞り出した声は、みっともなく震えていた。しかし、相手から声が返ってくる気配はない。ただただ、通話時間のカウントだけが静かに増えていく。
「ねえ、何? どうかした?」
祈里がそう問いかけても、返事はない。だんだんと苛立ちが募ってきて、それを声に出さないように意識するのにまたイライラとする。
「なんなの、塩谷。なんか変だよ。……調子でも、悪いの?」
祈里が勇気を出してそう尋ねてみても、やはり蓮は何も言わなかった。何か怒らせてしまうようなことを言っただろうか。まさか、心当たりが一切ない。
増え続ける通話時間のカウントを見つめながら、嫌悪感と不安で腕の中のぬいぐるみを潰していると、やっと蓮が口を開いた。
「それさ、誰に聞いたんだ?」
「……ヒナちゃんだけど」
しばらくの間を置いてから、鷲宮秀那か、と蓮が小さな声で言うのが端末越しの祈里にも聞こえた。それが一体何なのだ。
十数秒の間。蓮との間で、こんなに会話が途切れたままなのは今までだって一度もなかった。出会いたての頃ですら、蓮は祈里に向かって一方的に話し続けていた。だというのに、今はどうだ。それに祈里は耐えきれそうになかった。
「ねえ」
「俺だって」
どういうつもりなの。そう言ってやりたかった。しかしタイミングが悪かった。被ってきた蓮の声に、祈里は咄嗟に口を噤む。蓮の声は相変わらず、ちくちくとして痛かった。
「俺だって、ずっと祈里が好きだった!」
「……は?」
その声は、果たして蓮に聞こえただろうか。それくらいに掠れた、小さな声だった。時が止まってしまったような錯覚に陥る。暖房を効かせているはずなのに、身体の芯から冷えていくような心地がする。
急に何。馬鹿じゃないの。冗談だよね? ねえ、ちょっとそれはタチ悪いよ。今日エイプリルフールじゃないんだけど。さすがに怒るよ。
言いたいことが浮かんでは消えて、また浮かんだ。ぐるぐると回る頭で、何を言うべきかを考える。彼は本気か? まさか、そんなはずはない。
だって、ずっと応援してくれてた。わたしと、浅岸くんのこと。上手くいくといいなって。何度も言ってくれた。それなのに。
「……それ、は」
「冗談じゃないぞ」
「……」
皆まで言わずとも、蓮には祈里の言いたいことが分かるらしかった。
裏切られた気分だった。怖かった。祈里は蓮のことを、ただの友達だと思っていたのだ。そしてそれは、蓮も同じだと思っていた。でも、違ったのだ。
蓮は悪くない。分かっている。でも、この気持ちを。この感情を、どうしたらいいのだろう。あまりに突然のことに、頭も気持ちも追いつかない。
「いつか言おうと思ってた。だってお前、全然あいつと付き合おうとしねーから。本当は、直接言いたかったけどな。こんな、通話でじゃなくて」
「……あの」
蓮はそう言うが、祈里は今が通話中で良かったと心底思った。対面だったら、どんな顔をしたらいいか分からなかった。
「わたし……」
「別に、今じゃなくてもいい。返事、いつまででも待つぜ、俺は」
いつの間にか通話は切れていた。開きっぱなしだったスマートフォンの画面を閉じて、机の上に伏せて置く。
痛い。涙が出そうなわけではないけど、泣きたい。心臓が嫌にうるさい。氷水の中に体を落としたように、身を切られる心地だった。
まだ午前中だというのに、カーテンを閉じて部屋の電気を落とす。頭から布団を被って、枕に顔を押し付けた。痛い。
何がこんなに痛いのかは、自分でもさっぱり分からなかった。
いつの間にか眠ってしまっていた。正午をとうに過ぎ、昼食のために今日はパートが休みらしい母親に起こされた祈里は、まともに食事の味を感じないままにそれを終えた。
眠っていたのはほんの数時間のことだったが、その時間で頭だけは多少すっきりとしていた。少なくとも、冷静ではある。
さて。祈里は考えなければならなかった。
蓮に、どう返事をするか。いかに相手を傷つけず、今後の関係に影響を与えないように言葉を伝えるか。要はどんな風にお断りの文句を突き付けるか、をだ。
温風を吐き出しながら稼働音を響かせるエアコンの口をぼうっと眺めて、祈里は深く息を吐いた。
どうすれば。回らない頭で考えようとはするものの、やはりまだ冷静になりきれていないのか、思考を前進させるのは難しそうだった。
誰かに、話を聞いてもらおうか。どうせ、一人では答えが出せないのなら。それに、とても祈里一人には抱え込めそうにない。そしてそんなことを相談できる相手なんて、祈里には、たった一人しかいなかった。
何度も、トークアプリを開いては閉じる。どんな文面で送ろうかと、考えてはベッドの上で寝返りを打つ。
時間にして十分にも満たないほどだったが、悩んだ末のその文字を相手に──秀那に送信した。
『ヒナちゃん』『相談したいことがあるんだけど、時間もらえますか?』
スタンプでも送ろうかと思っていたものの、それを選別する間もなく既読はすぐに付く。それに驚いている内に返信があった。
『今日ですか?』
『できるだけ早い方が嬉しいけど、ヒナちゃんが忙しいのは重々承知なので、明日以降でももちろん大丈夫だよ』
『じゃあ今日にしましょう』『電話とかですか? 直接の方がいいですか? 私はどっちでも大丈夫ですよ』
ぽんぽんと、電子上で息をつく間もなく会話がされる。ただ秀那のその質問に、祈里の指が止まった。
通話で話すか、直接会って話すか。もちろん祈里は後者が良い。しかし、秀那は?
彼女は今、とても大切な時期なのに。ただでさえ時間を取らせてしまうのに。秀那は、脚が悪いのに。
しかし、秀那本人がどっちでも、と言ってくれているのだ。秀那は嫌なことは嫌としっかりと断る。それが例え、祈里相手であったとしても。
『直接がいいかもしれない』
けどもちろん通話でも大丈夫だよ。そう追加でメッセージを打ちきる前に、秀那からの返信が届いた。
『分かりました。今夜でいいですか?』『申し訳ないんですが、織古まで来れますか?』
続けてメッセージが送られてくる。祈里が思っていた以上に、話はスムーズに進んでいっていた。秀那に断られることも覚悟していた祈里としては、少々拍子抜けだった。
『駅から少し歩くんですが、そこのコンビニで待ち合わせましょう。マップ送ります』『私は十九時以降なら大丈夫です。明日も特に予定はないので、遅くなっても大丈夫です。祈里先輩が決めてください』
それらのメッセージに続いて、コンビニの場所を示すURLが送られてきた。後で確認しようと思いながら、祈里は考える。予定がないと言っても、秀那は受験生なのだ。できるだけ早い方がいいだろう。
『十九時頃に着く電車に乗ってそっちに行くよ。それで大丈夫かな?』
『分かりました』
次いで秀那からスタンプが送られてきて、祈里はトークルームを閉じた。
てっきりこの場で相談内容を尋ねられるかと思っていたが、そんなことはなかった。とはいえ、祈里がわざわざ秀那に相談することなんて、佑弥関連のことしかない。それも、秀那から件の報告を受けたばかりだ。頭の良い秀那にはきっとお見通しなのだろう。
それにしても、本当に今日、それも夜で秀那は平気なのだろうか。
「……」
違和感を覚えて、カレンダーを見る。一月の第五週、金曜日。
今日、秀那は学校に行かなかったのだろうか。それとも補習を受けずに帰ってきたのだろうか。
秀那からメッセージの届いたあの時間は、本来なら授業中であるはずだった。しかし今はおそらく自由登校の期間だろう。ただし祈里の記憶が確かなら、秀那の属する進学クラスはそんなのお構いなしに毎日の登校を強制されていたはずだった。
秀那は今日聞いた、とあのメッセージに書いていたし、学校で会った佑弥に直接受験校を聞いたと考えるのが妥当だろう。しかしあの佑弥が、自由登校期間にわざわざ学校に足を運ぶだろうか。
あの二人は幼馴染みで互いの連絡先も知っているだろうから、そこで聞いたと考えてもおかしくはない。ともかく、体調不良による早退でなければ良いのだが。
明日にしてもそうだ。秀那たちの学校は、私立ということにかこつけて土曜授業があるはずなのだが、明日に限っては違うのだろうか。
まさかあの秀那がズル休みというのも考え難いし、きっとその辺りは事情があるのだろう。少なくとも、祈里が口を出すようなことではない。
「……何、着てこうかな」
はあ、と何度目か分からない溜息を吐いた。今晩の気温はどうなるのだろう。電車の時間も調べないといけないし、話したいこともまとめておかなければならない。
祈里はベッドから起き上がりながら、憂鬱な表情でクローゼットを開けた。