5.


 秀那と別れて、祈里が家に着いたときには時刻は二十二時を過ぎようとしていた。
 家を出る前に夕飯は食べておいたから、あとは風呂に入って寝るだけだ。就寝はいつも通りの時間になるだろう。
 ただ、もう一つ。今日の祈里には、するべきことがあった。
 妙に緊張しながら、蓮とのトークルームを開く。
 今回はいきなり電話をかけるということはせずに、『ちょっと話したいんだけど、今いい?』とだけメッセージを送った。既読はすぐに付いて、その直後に着信があった。四コール目で、祈里は応答ボタンを押す。
 回線が繋がってからも祈里は何も口にできず、蓮も蓮で、何も話そうとはしなかった。
「あの、ごめん、いきなり」
「……いや。どうした?」
 緊張の隠せていない声音でなんとかそう切り出すと、数秒の間を置いてから蓮もそう言う。やはり、硬い声だ。どうした、だなんて、きっと祈里が何を言いたいか気付いているはずなのに、そう惚けてみせる。
「返事が、したいの。今日の」
「……」
 返答がないのを良いことに、祈里はまとまらないながらに続ける。
「一日、ずっと考えてた。いつ、会える? 会って、話したい」
「今じゃ、駄目なんだな?」
「うん、まあ……できれば、直接」
 思えば、祈里からこうして蓮に何かを頼むことは初めてのことかもしれなかった。否、そういえばあの神社の一件のことがあったか。
 一呼吸分の間を置いて、蓮が「分かった」と頷いた。
「明日、十六時までバイトがある。だから、半からなら。それでいいか?」
「それで大丈夫。ありがとう……じゃあ」
 確か、蓮のバイト先は織古のどこかの飲食店だった気がする。何度か食べに来いと誘われたが、一緒に外食をするような友人のいない祈里はその誘いを断り続けていた。つまり、集合場所は自ずと織古駅前になるだろう。時間までに、そこに着いていればいい。
 スマートフォンの画面をオフにしながらそう考える。そのままベッドに倒れ込んで、目を閉じた。風呂に行かなければならないのに、もう一週間分の体力を使ったような心地で、とても動けそうになかった。
「……」
 のそりと、緩慢な動作でなんとか身体を起こす。乱れた髪をそのままに着替えを掴んで、スイッチの位置を確認しないまま電気だけを落として部屋を出た。
 いざ廊下に出ると、エアコンの効いていないその空間は随分と冷え込んでいた。部屋の暖かな温度に慣れすぎてしまっていたのだろうか、それにしたって寒い。
 一階にある風呂場に向かうために下りる階段の、その小窓の向こうから咆哮のような風音が聞こえた。
 まさかね、と内心でそう呟く。さっきまでは、あんなに晴れていたのに。
 星が流れたと喜んでいた、秀那の顔を思い出す。山の中でもあるまいし、こんなにころころと天候が変わって堪るものか。そう思って小窓を数センチほど開けて、その瞬間に後悔した。
 一気に吹き込む冷気、どう見たって吹雪いている景色。なんだこれ。そう思いながら、ぴしゃりと窓を閉める。
「……」
 難しいことを考えるのはやめて、ただタイミングが良かったな、と思うことにした。
 外がこんな状態だったら、まともに秀那と話なんてできなかっただろう。帰り道もきっと大変だったに違いない。明日はまた晴れていると良いのだが。
「ねえ、お風呂空いてる?」
 空調の効いたリビングに入った祈里は、ソファに座ってアイスを食べていた父親にそう尋ねた。父親が祈里の声に振り向いて、「ああ、空いてるぞ」と返事をする。
 既に寝間着に着替え、髪もすっかり乾いた様子の父親のその声を聞きながらキッチンの方を見ると、そこで作業をしている母親の姿が目に留まった。
「お母さん、お風呂入ってきていい? それとも先に行く?」
 祈里は授業のないこの期間、特に朝が早いわけでもない。もし母親が先に行きたいようならその順番を快く譲るつもりだった。しかし母親は「先に入ってきていいわよ」と笑みを湛えて祈里に言う。
「そう? 分かった。あんまり長くならないようにするね」
 母のその言葉に甘えて祈里がそのまま風呂場へ向かおうとしたところで、「あ、ちょっと」と母親が祈里を呼び止めた。祈里はその足を止めて振り返り、首を傾げる。
 テレビの点いていない、微かに風鳴りが聞こえるその部屋で、母親の声はよく祈里の耳に届いた。
「さっき外に出てたとき、誰と会ってたのかと思って。食事のときに、聞きそびれたから」
「……言わなきゃだめ?」
 祈里が顔を僅かに顰めながらそう言うと、母親は困ったように笑う。
「別に、言いたくないならいいわ。ただ、珍しかったから。祈里が遅くから出かけるなんて……お友達か、それとも」
 その続きは言おうとせず、母親は優しく微笑んでいる。やはり親としては娘の交友関係は気になるのだろう。それもそうか。
 実はわたし、ろくに友達がいないんだ。なんて教えたら、両親は悲しんでくれるだろうか。否、それはそれで居心地が悪い。親だからとあまり干渉してこない両親のことを、祈里は好ましく思っている。
 祈里はこそばゆいような気持ちになって、「ご想像にお任せします」と母親に背を向けた。
 寝る前に、天気予報を見ておかなければならない。相変わらず唸りを上げる窓から逃げるように、祈里はリビングを出た。

 次の日、祈里は約束の時間の十五分前に織古駅の改札前にいた。
 集合時間がはっきりしない以上、蓮が十六時半よりも早い時間に来る可能性がある。それなら早めに来ておこうという、それだけの理由だった。
 果たして、蓮はその七分後に祈里の前に現れた。
「……祈里?」
「あ、バイトおつかれ。早かったね」
 手持ち無沙汰に見ていたニュースサイトから顔を上げると、驚いた様子の蓮がいた。祈里は画面だけを落として、スマートフォンを握ったままその手をコートのポケットに突っ込む。
「いや、祈里こそ……」
「塩谷を待たせたくなかっただけ。バイト終わって、まっすぐ来てくれるんだろうなと思ったから」
 祈里がなんの気なしにそう言うと、蓮が「あ、そ」と目を逸らした。いつもならもう一言か二言か言ってきそうなものだが、今日の蓮は口数が少ない。とは言っても、まだ顔を合わせて数分ではあるのだが。
「……どこで話そうか。どっかカフェでも入る?」
「ん、そうだな」
 とりあえずビルの中に入ろうと、一歩足を踏み出す。と同時に、右手に振動があって、祈里はその足を止めた。
「あ、ごめん、ちょっと待って」
 ポケットの中で、握ったままのスマートフォンが震えていた。着信だなんて珍しいこともあるものだ、とポケットから手を出して確認すれば、それは佑弥からのものだった。
 ただでさえ人と通話をする機会の少ない祈里のスマートフォンだったが、その相手が佑弥というのは初めてのことで、驚いて祈里は顔を上げる。
 その画面を覗き込んだ蓮がその目線を上げて、小さく溜息を吐いた。
「……出るのかよ」
 その言葉に、祈里は息を詰まらせる。
 そうだ、はっきりと言葉にはしていないものの、祈里は蓮の告白の返事をするために今日こうして蓮を呼び出したのだ。それなのに、別の男――それも、言うならば蓮の恋敵――からの電話に出るというのは、少し、後ろめたいものがある。
 スマートフォンを持ったまま、硬い表情で俯く祈里に罪悪感でも抱いたのだろうか。「あー」と蓮が声をあげた。何かを諦めたような声音だった。
「冗談だよ。出れば? 緊急かもしんねえし」
「……うん」
 蛇に睨まれる蛙のような気持ちだった。それでもなんとか気まずい気持ちのまま応答ボタンを押して、「もしもし」と呼びかける。
 小さく掠れ気味な祈里の声に対して、佑弥のそれは早口で、どこか焦りの感じられるものだった。
「先輩? 鷲宮を、知りませんか。今一緒にいませんか」
 もしもし、の挨拶すらなく告げられた言葉に、嫌な予感がした。
「……ヒナちゃん? し、知らない。ヒナちゃんが、どうかしたの」
 がんがんと、頭が痛い。息がしづらい。嫌な予感がする。だって、昨日会ったときには元気そうだった。笑ってた。
「落ち着いて、聞いてください」
 聞きたくない、でも、聞かないといけない。
 そう言った佑弥の声は、今までに聞いたどのときよりも静かで、冬風のように痛々しかった。それが余計に、祈里の不安を加速させる。
「……鷲宮が、行方不明だって」
 機械越しのその言葉に、え、とも、は、とも知れない声が漏れて、力の抜けそうな手で必死にスマートフォンを支える。
 まだ何も知らない蓮が隣でぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、顔を青く染める祈里を心配そうに見つめていた。
 祈里の瞳がゆらゆらと揺れる。まっすぐ前を見つめているはずのその瞳に、蓮は映らない。
 それを不審に思った蓮が祈里が持つスマートフォンに耳を寄せるも、聞こえるのはただ通話が終了したことを示す、規則的な機械音だった。
 蓮がそれだけ近付いても、祈里は何も反応を見せない。何かがおかしいと、蓮でなくても気付いただろう。
 通話の切れたスマートフォンを蓮が取る。それを操作して画面をオフにしながら、「祈里?」とその顔を覗き込んだ。
「どうしたんだよ、顔色悪いぞ。……とりあえずどっか座るか?」
「……ヒナちゃんが」
「ん?」
 蓮に取られた腕が、中途半端に浮いている。それを視界の端に入れながら、祈里は顔を上げられないでいた。声が震える。
「ヒナちゃんが、いなくなった」
「……はあ?」
 意味が分からない、と言いたげに僅かに眉を寄せた蓮だったが、祈里は俯いたまま、何も言おうとしない。かたかたと、その指先が震えている。
「……ヒナちゃんって、あの車椅子のあいつだろ? いなくなったって、家出か? ……まさか、誘拐?」
「わかんない、わかんない! わかんない……」
「おい祈里、落ち着け、大丈夫だから。祈里、な? 落ち着け」
 立っていられずにその場に座り込んだ祈里の背を、一緒になって屈んだ蓮が何度も優しく撫でる。
 鷲宮が、行方不明だって。
 そう言った佑弥の声が、何度も何度も頭の中で繰り返される。上手く呼吸ができている自信がない。雪崩に襲われるように、圧倒的な感情に呑み込まれるように、祈里の頭が真っ白になる。
 あの後、祈里は秀那を彼女の自宅まで送り届けた。そのはずだった。
 ――「また結果、教えてくださいね。落ち着いたらで大丈夫なので」
 覚えている。それが、秀那との最後の会話だった。
「どうして」
 花吹雪に呑まれた。そんな最期で、きっと彼女は笑っていた。
 祈里の知る鷲宮秀那という少女は、少なくともそんな人間だった。