関祈里は、本当に自分に無関心な人間だ。――そんなところが、また愛おしいのだが。そう思って、塩谷蓮はうっそりと笑った。
祈里を改札の向こうまで見送った後の、駅から駐輪場までの道。空は今にも雨が降りだしそうにどんよりと薄暗い。
しかしそんな空模様とは裏腹に、蓮は今とても上機嫌だった。本当に、運が良かった。
もしもあのとき佑弥からの連絡がなかったら、間違いなく自分はあの場で振られていたから。
振られる覚悟はできていた。そうなったところで、これからもただの友人を称して傍にいて、そして少しずつ砂糖をまぶして塗り込むように好意を伝えていく算段だった。そうすれば祈里は簡単に、かつ確実に絆されてくれる。
この三年足らずの間、祈里が蓮からの気持ちに一切勘付いていなかったのも想定通りだ。
今までずっと、耐え忍んできたのだ。この先のほんの数か月くらい、わけない。おかげさまで長期戦には慣れている。
しかしそんなに待つ必要もなくなりそうだ。本当に、運が良い。
祈里への恋心を自覚したきっかけを、蓮はよく覚えている。あれは高校二年の春のことだ。
塩谷蓮は、自他共に認める社交的なタイプの性格だった。
浅くもなく、深くもなく、そういった絶妙な距離感のコミュニケーションを取るのが得意で、友人も少なくないし、クラスの輪の中には大抵いるくらいの人望もあった。
一方で関祈里は、いつも教室の隅にいるような、誰とも関わりたがらないような、内向的な性格をしていた。
一年の頃からいつも教室に一人でいた祈里は、誰の目から見たって人付き合いが得意そうではなかった。
休み時間の度に本を読んでいる。授業中、時折何かを思い出したように窓の外を見つめている。
なんでもないときに、手持ち無沙汰に自分の髪を触っていること。クラスの大半が眠ってしまうような退屈な授業でさえ、真面目に最後まで聞いていること。
決して目立つわけではない、むしろいつだって誰からも一歩引いているような、そんな存在だったのに、何故だかそんな祈里のことがよく目に入った。理由も分からないまま、蓮は気が付けば祈里のことを目で追って、視界に収めていた。
そう、それは二年に上がってすぐの、いつかの昼休みのことだった。
各々が好きに机を動かして、あるいは席を移動して、仲の良いグループで集まって食事を取っていた。
そんな時間まで祈里を一人でいさせるほどクラスの女子たちは薄情じゃなかったし、祈里もその誘いを断るほど空気が読めないわけではなかった。
彼女を形式上仲間に入れたそのグループは、そのときこんな話をしていた。
「今度ね、彼氏と遊園地行くんだ」
グループの誰かがそう言った瞬間、ほんの僅かに女子たちの熱が上がる。女子はいつだって恋愛話が好きだ。
祈里も口こそ開かないものの、量産品の能面のような顔をして今日も形式上楽しそうにその話を聞いていた。──否。そのときに限っては、形式上ではなかった。
ずっと見ていた。だから分かった。祈里はきっと、本心から笑っていた。目を細めて、緩く口角を上げていた。そして蓮の第六感というやつが告げていた。──あいつには、好きなやつがいるのだ。
同時に蓮は悟った。俺は、あいつのことが好きなのかもしれない。好きの二文字が、すとんと抵抗なく胸に落ちてくる感覚がする。
一目惚れ、というには大袈裟だ。それでもきっと、直感に近かった。恋というのはいつの間にか落ちているものなのだ。
祈里が誰かを想って笑うその顔が、可愛いと思った。あわよくばその感情を、こちらに向けてほしいとも思った。誰か、ではなく、俺を見てくれと。
幸い、祈里にはまともに友達がいない。祈里のことを理解している人間なんて、きっとこの世に片手の指の数もいない。
祈里と接していて気付いたのは、祈里のその内向的な性格は、祈里が自分に対して否定的であるというところに起因しているようだ、ということだった。
自分はつまらない人間で、だから自分に興味がない。もちろん他人もそんな自分に興味を持つはずがない。イコール、自分も他人に興味を持つことはない。
自覚があるかないかは別として、そのような形で祈里の中では図式が出来上がっているようだった。
どうしてそのような思考に至るのか。そこに、自分という存在が入ったらどんな表情や感情を見せてくれるのか。興味があったのだ。
祈里。その名前を初めて呼んだときの、驚きと懐疑とが入り混じった顔を、蓮はよく覚えている。自分が柄にもなく、緊張していたことも。
そして祈里が突然名前を呼ばれたことを深く追及してこなかったことから、確信したのだ。関祈里は押しに弱い。――いける。
まずは外堀を埋めようと思った。じわじわとゆっくり囲ってしまって、逃げられないようにしようとした。
端的に言うと、関祈里はクラスから浮いていた。それでも彼女が教室という小さな世界の中で嫌がらせの類を一切受けなかったのは、それでいてついぞ友人ができなかったのは、蓮が裏で手を回していたからだ。
下手に男が近寄ろうとしなかったのもそうだ。蓮が牽制していたから、わざわざ祈里に手を出すような男はいなかった。
祈里はそうとは知らず、何も起こりっこない平和な毎日をぼうっと教室で過ごしていたのだ。
関祈里のどこが好きなのかと、当時のクラスメイトに尋ねられたことがある。どこが、と聞かれたら、全て、と答えるほかないのだが――もしも、あえて言うのなら。
褒められるのに慣れていないところ。自分に否定的なところ。それから、普段はつんとしたクールな態度をとるくせに、自分がお気に入りの可愛いものには全力で傾倒するところ。ざっとこんなものだろうか。当時は笑って誤魔化したが。
クラス替えや席替えの前に、健気に神社に行って手を合わせてみたりもした。その甲斐があったのかただの偶然なのか、祈里とクラスが離れることはなかった。
そんな蓮の恋が、大学まで追いかけて、そうして数年がかりでようやく手に入りそうなのだ。
この数年、祈里が佑弥の話を笑顔でする度に、足踏みばかりで進む気のないその態度に、蓮がどんな思いをしていたか。どんな気持ちで、その恋を応援するフリをしていたのか。祈里は一生理解できないのだろう。
無感情でコンクリートの歩道の上に転がっていた小石を蹴とばす。ざり、とスニーカーの裏が擦れる音がして、小石は遠くへと跳ねていった。それを横目に、蓮は契約している月極の駐輪場の敷地内へと立ち入りながら、カバンに手を突っ込んで自転車の鍵を探す。
俺は充分待った。何度もチャンスをあげた。それでも先に行こうとしなかったのは、祈里の意志そのものだろう?
かちゃん、と軽い音を立てて、蓮の手元で鍵の開く音がした。