四月某日。祈里が蓮のことをその名前で呼ぶのにようやく慣れてきて、あれから二か月が経とうとしている頃。
 祈里の、二年生の前期が始まる前に神社に行きたいという誘いに、蓮は二つ返事で了承してくれた。
 蓮が祈里の家まで迎えに来て、そして庭に自転車を停めたまま、いつかと同じように歩いて神社まで向かう。
 道中、白旦高校の前を通りすがって懐かしい気持ちになる。
 もうこの校舎に、祈里の知る後輩はいない。失踪した秀那についての手掛かりは依然として見つからないし、佑弥は結局、祈里たちとは違う大学に入学をすることになったようだ。
 他愛のない話をしながら、いつの間にか繋がれていた手に舌を巻く。そして今回も今回とて神社へと行くためのあの長い長い階段に祈里が気圧されていると、蓮が笑いながらその手を引いた。
「咲いてんなー、桜」
「あのね、あんたはどうか知らないけどね、わたしにはないの。花を愛でてる余裕なんて、ないの」
「大変だな」
 あまりにも他人事な返事に腹が立って、握られている手に思いきり力を込めてみたものの、祈里の貧相な握力では蓮には大したダメージは与えられていないようだった。それどころか「ん、休憩するか?」と心配までされる始末である。違う、そういうアピールではない。
 なんとか階段を上りきった頃にはすっかり体力を消耗していて、元気に笑う膝に抗えないまま、その場に崩れ落ちるように地面に両手をついた。けらけらと、頭上で蓮までもが笑う声がする。
「相変わらず体力ねーな」
 祈里の呼吸が整ってきたのを見計らって、蓮が祈里に手を差し出す。
 前にもこんなことがあったな、と思い返しながら、今回はその手を取った。ちらりと顔を覗き見た蓮は、嬉しそうに目尻を下げていた。
 落ち着いてから改めて周囲を見渡してみると、確かに見事に桜が咲いていた。文字通りの、満開。数十本の木のどれもに溢れんほどの花が咲き乱れるその光景は、思わず息を呑んで見入ってしまうくらいには美しいものだった。きっとあの子に、よく似合うだろう。祈里はそんなことを考える。
 首が痛くなるまで、時間を忘れて頭上の花々を見つめていた。さすがに飽きてきたらしい蓮に腕を引かれて、しぶしぶ鳥居をくぐる。気のせいでなければ、その瞬間、風に頬を柔く撫でられたような心地がした。
 手水舎で手と口を清めてから、祈里は尋ねる。
「お賽銭入れてくる。蓮は?」
「俺もやる。大吉の恩があるしな、礼くらいは言わなきゃな」
 蓮と揃って拝殿の前に立って、祈里は少し悩んで財布から四十五円を取り出した。そしてそれをそっと賽銭箱へと入れる。
 そして鈴を鳴らして――そういえばこれの正式名称を知らない、帰ったら調べようと思う――二礼と二拍手をした。目を閉じたところで、はたと気が付く。何を言うかを、決めていなかった。
 少々焦りつつも数秒悩んでから、幸せになります、と宣言をして目を開けた。一礼。
 これで良いのだろうか、と自分に首を傾げながらその場を離れた。蓮もいつの間にかお参りを終えていて、祈里は足早に蓮の元へと向かう。それを見ていた蓮が待っていましたと言わんばかりに無邪気に笑っている。
「なあ、おみくじ引こーぜ」
「またあ?」
 そう返しつつも、まんざらでもなかった。前回と同様に、無人の社務所に設置されている賽銭箱に初穂料を納めて、隣の箱からおみくじを抜き取る。あまり期待はせずに、ゆっくりとそれを開いた。
「どうだった?」
「……大吉」
 さっそくそう尋ねてきた蓮に端的にそう答えれば、にんまりと蓮が笑った。自分も大吉を引いたというわけでもないだろうに、これ以上なく上機嫌だと、一瞥しただけで分かる。にへら、と緩んだ顔がいっそ不気味ですらあるくらいだ。
「へえ。ふーん。そっか」
「なんであんたがわたしより嬉しそうなの?」
 盛大に顔を引き攣らせながら、祈里は改めて手元のおみくじの有難いお言葉に目を通す。
 ――待ち人、そこにあり。恋愛、安心してよし。
 悪くない結果だ。それにしても、前回から妙に心当たりのある文言だ。単なる偶然だろうか、それとも、祈里が自分に都合の良いように解釈をしてしまっているのか。
「で、蓮は?」
 今度は木には結びつけず、しばらく財布にでも仕舞っておこうと、おみくじを元通り畳みながらそう尋ねる。すると蓮は自身のおみくじをぺらり、と祈里に見せながら言った。
「ん? 中吉。普通だろ」
「……つまんないね」
「やめろ」
 正直な感想を伝えると、蓮が微妙そうな顔で祈里を見ていた。
 前回が大吉だったから、あとは下がるだけだもんね。そう言ってやろうかとは思ったが、どう考えても余計だろうと思い止まった。それに何より、その言葉はそのまま自分にも返ってくる。それにしたって凶から大吉とは、いささか振れ幅が大きすぎる気がしないでもないが。
 そういえば、最近の蓮は以前にも増して特によく笑うようになったなと。ふとそう思った。
「ねえ、あの祠……見にいっていい?」
 祈里がそう尋ねると、蓮はふっと笑って「いいぜ」と祈里の手を引いた。断られるとは思っていなかったから、祈里もその返答に満足して一緒に本殿裏の祠へと足を向ける。
 いざ再び目にしたその祠は、あの薄汚さは相変わらずだったものの、前と比べるとそれほど貧相な印象を受けなかった。というのも、桜の木々に囲まれ、かつ日当たりの良いその場所が、どこか暖かな雰囲気を纏っていたからであった。
 そういえば、あの冬の日は天気が良いとは言えなかった。花も、あの一輪の桔梗を除いて何も咲いていなかったし、どうにも寂しい空間だったのだ。それが今はどうだ。いっそこの場が神聖なところである気さえしてくる。否、境内であるという時点で神聖であることには間違いないのだが。
 無造作に伸びている雑草たちに紛れて、いくらか生えている背の高い草のようなあれが桔梗なのだろうか。祈里はしばらく目の前の光景を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……やっぱり、咲いてないね。桔梗」
 枯れている、というわけでもなく、咲いていた形跡もない。当然だ、今は四月で、余りにも季節外れだ。あの冬、咲いていたのも一輪だけだった。あれも異常だったのに、今日のこの日もまた都合良く咲いているわけがなかった。
「まあな。あれ、秋とか夏とかの花? 草? だもんな」
 そう言った蓮に、「草?」と祈里は首を傾げた。しかしすぐに思い至る。そういえば、学校で習った記憶がある。
「あ、そうか。秋の七草……夏?」
「開花時期が六月から九月なんだよ」
「へえ。詳しいね」
 わけが分からず混乱しかけていた祈里に、蓮がそう言った。それにしても、蓮が意外に博識で驚く。それとも世間では常識なのだろうか。自分が知らなかったということを棚に上げて、祈里はそんなことを考える。
 漠然と九月頃に咲く、というイメージを持ってはいたが、六月にはもう咲くのか。全く知らなかった、と当然今は咲く気配のない桔梗を見つめる。
「また、来てもいいかもね。桔梗が咲く頃に。……前期が終わったら、かな」
「だな。それまでにちょっとは体力つけとけよ」
 余計なお世話だ、と言う代わりにその肩口を思いきり平手で叩いた。「いった!」と痛がる蓮に、祈里はふんと鼻を鳴らす。少し気持ちが晴れた。
 そよそよと風が吹いてきて、草木と一緒に祈里の髪や着ている服を揺らした。「ねえ」と、ふと蓮の横顔を覗き見る。
「あんまり深く考えずに答えてほしいんだけどさ。幸せって、なんだと思う?」
「……好きな人が、ずっと隣にいてくれることじゃねえの?」
 どうして蓮はそんなことを真面目な顔で、恥ずかしげもなく堂々と口にすることができるのだろう。祈里がほんのりと顔を赤くしながら口をもごもごとさせていると、不思議そうに蓮が首を傾げる。
「なんで急にそんなこと聞くんだよ」
「いや、だから、特に深い意味はなくて。ただ、幸せって、人によって全然違うんだよなって。当たり前なんだけど」
 ふーん、と蓮が分かったのか分かっていないのか微妙な相槌を打って、「じゃあさ」と尋ねる。
「祈里は? 祈里にとっての幸せは、なんなんだよ」
 聞き返されることを想定していなかった祈里が「えっ」と戸惑った声をあげる。蓮は逃がさないぞ、と言わんばかりに祈里をじっと見つめていて、祈里は観念したように溜息を吐いた。
「自分も悪くないなって、そう思って生きられること」
 口にするまでの間、祈里は少々気恥ずかしそうにしていたが、意を決したように、しかしぼそりと小さな声でそう言った。祈里の答えを聞いて、なるほどなあ、と蓮は頷く。
「祈里らしいな」
「……でしょ?」
 ああ、と蓮が笑ってまた頷く。
「で、祈里はいま幸せか?」
 その問いに、祈里は微笑んだ。
「うん。なんとか」
 あれはきっと恋だった。紛れもなく、わたしの初恋だった。ただし、それを恋と呼ぶには、わたしには少々幼すぎた。
 今のこれを恋と呼べるのかどうかは分からないけど、きっとそれまで、蓮はわたしのことを待っていてくれる。
 祈里がそう感傷に浸っていると、蓮が言った。
「そういえばさ、桔梗の花言葉、調べたんだ」
「……やっぱり蓮ってロマンチストなところあるね?」
「うっせーよ。悪いか」
 一般的に考えて、花のことに詳しいのは男よりも女の方が多い気がするのだが。
 しかし少なくとも祈里は花に特別に興味は持っていないし、蓮にその趣味があったところでそれを否定するつもりも毛頭ない。そもそもこのご時世にこのようなことを話題にするのも時代遅れなのかもしれない。
 そう一通り考えて、祈里は口の端だけで笑った。
「いや、別に? で、なんなの。聞いてあげる」
 そう促すと、蓮はちらりと一度祈里の方を見てから、目を泳がせた。何か迷うように口を開いて、また閉じる。
 それに首を傾げていると、突然蓮の右手が祈里の右肩に乗せられて、そしてぐいと引き寄せられた。バランスを崩して、思わず蓮に寄り掛かるような体勢になる。それに驚いている間に左手を耳に添えられて、囁かれた。
「……“永遠の愛”」 
 それを聞いて、咄嗟には言葉が出てこなかった。周囲には祈里たちのほかに誰もいないからこの会話を聞かれる心配はないのに、どうして内緒話のようにしてそれを伝える必要があったのか。照れ隠しにそんなことを思う。
 祈里が蓮に半身を預けたような格好のまま、それを誤魔化すためにふうん、と呟いた声が風に乗って溶けて消えていった。
「そっか。……いいね」
 そう言った祈里に、蓮が照れたように視線を逸らした。
 きっと未来は悪くないと、そんな予感がした。