4.


 それは駅からの帰り道だった。
「祈里!」
駅から祈里の家までは徒歩圏内で、その道中には小さな公園がある。そしていつもは目もくれず通り過ぎるその公園から祈里を呼ぶ声が聞こえて、祈里は足を止めた。
 祈里の背丈よりもほんの数十センチ高いだけの滑り台、小さな砂場、地面までの距離の短いブランコ。
 お粗末な公園の、そのブランコの一つに蓮が座って、こちらに手を振っていた。
「え、塩谷? は? 何してんの」
「待ってたんだよ、祈里のこと」
 そう言う蓮の長い脚が余っていて、どうにも窮屈そうでちぐはぐな印象を受ける。ただでさえ小さなブランコがさらに小さく見えてしまって、その似合わなさに祈里は顔を顰めた。
 それにしたって似合わない。幼児用の遊具に成年間近の男が座っているのだから、当然といえば当然なのだが。そんな祈里を見て何を勘違いしたのか、蓮の顔が曇った。
「悪い、自分でもちょっとキモいなって自覚はあるんだぜ」
「え? ……ああ」
 そこでようやく祈里も思い至る。確かにこの状況──待ち伏せというのは、一歩間違えれば警察の世話になりかねない、事案だろう。
 公園の外で立ち尽くす祈里を、蓮は手招きしていた。別にこの後に用事があるわけでもないし、今日は風もなく大して寒さはない。
 ほんの少し躊躇いながら、祈里はその誘いに乗って公園の中に足を踏み入れた。
「大学生がそんなブランコに乗ってるのって、確かにアンバランスっていうか、ミスマッチっていうか……まあ、キモいね」
「あ、そっち?」
 そう話しかけると、蓮は困ったように苦笑した。「まあ座れよ」と隣のブランコを指さして言われたものの、その誘いは丁重にお断りして、祈里はブランコの周りを囲う柵に腰をかける。ひやりとした温度が両手とお尻に伝わって、肩を竦めた。
 断られたことに蓮は面白くなさそうに「つまんね」と顔を背ける。まるで図体がでかいだけの子供だ。
「……で? なんの用?」
 一体何分前から待っていたのかは分からないが、わざわざこうして祈里が必ず通るであろう場所で待っていたというからには、それなりの理由があるのだろう。
 蓮は「んー、と」と曖昧に言葉を濁しながら脚を組み替える。
「浅岸が俺たちの大学を受けるってさ、それを聞いたときは、正直嫉妬したんだよ。また浅岸の話かよ、って。わざわざ電話かけてきてさ、話すことがそれかよ、って」
 突然なんの話を始めるのか。すぐにはその内容を呑み込めず面食らったような顔をする祈里にお構いなしに、蓮は続ける。
「……嬉しかったんだ。祈里からかけてきてくれたの、初めてだっただろ」
 終始笑いながらそう言う蓮に、祈里は言葉を詰まらせる。恥ずかしい。そうは思うが、何を言えばいいのか分からない。
 祈里の勘違いでなければ――勘違いであるはずがないのだが――有り体に言って、祈里は今、蓮に愛を囁かれている。祈里が内心混乱している間にも、蓮は淀むことなく話し続ける。
「でもさ、よく考えたら。祈里が嬉しいと感じたことを、俺に一番に教えようとしてくれたこと。これって、特別なことだなって……思ったんだよ」
 そこでようやく、蓮は一度言葉を区切った。祈里の様子を窺うように、僅かに首を傾ける。
 しばらく待っても何も言おうとしない祈里に、蓮はまた苦笑した。そして、爆弾を落とした。
「祈里は可愛いよ」
「は?」
 我ながら低い声が出た、と祈里は思った。こんな状況で、蓮が冗談を言っているとは思えなかった。思いたくなかった。しかし、何をどう考えたって、冗談だとしか考えられなかった。加えて言うならば、脈略がなさすぎた。
 先ほどまでとは打って変わって何も言おうとしない蓮に、祈里はもう一度「は?」とほんの数メートル先の顔を睨み付ける。
 かち合った蓮の瞳は真剣そのもので、祈里は内心怯んだ。だが、それを顔には出さなかった。
「何言ってんの、ふざけてんの? 馬鹿にしないでよ、わたしのどこが」
「そうやってすぐ照れて口が悪くなるところ」
「は!? 照れてないから!」
 図星だった。意図せず大きな声で返してしまって、そんな自分が嫌で祈里は無意識に俯いた。
「言う相手を間違えてるんじゃないの。ヒナちゃんみたいな可愛い子に言うならまだ分かるけど……わたしなんて」
「鷲宮より祈里の方が可愛いだろ」 
「は? 頭大丈夫? 病院行きなよ」
「世間一般は知らねえけど、俺からしたら、祈里の方が可愛いよ。本当だぜ? 今から祈里の好きなところ、一つ一つ挙げていってもいい」
「や、めてよ、やめてよ」
 ぶるぶると、祈里は震えながら言った。怒りなのか寒さなのか、それともほかの何かなのか。自分でも分かっていなかった。
 やめてと祈里が言った通り、蓮はそれ以上は何も言わなかった。ただ互いに喋らず話さず、沈黙だけが下りていた。
「……いつから?」
「高二の春」
 数分は経っていたかもしれない。そんな中で祈里がやっと口を開くと、蓮は少し躊躇ったようではあるものの、そう答えた。そしてその言葉に、祈里は心当たりがあった。
「……塩谷が」
 恐る恐る、といった様子の祈里が上目がちに蓮を見つめる。間違っていたらどうしようなんてそんな消極的な感情も、蓮のその真面目な表情を見ていたら、いまさら引き下がれないような気さえしてくる。
 意を決して、祈里はその続きを口にした。
「わたしのことを、名前で呼びはじめた頃……?」
 祈里がそう言った瞬間に、蓮が驚いたように目を見張った。しかしそれも一瞬で、すぐに「ああ」と微笑んで頷いた。
 まさか、本当に? 半ば確信を持って訊いたはずだったのに、祈里は蓮の言葉を信じきることができなかった。二年以上前からだなんて、全く気が付かなかった。
 ただ蓮は人より少しパーソナルスペースが狭くて、クラスで孤立しがちだった祈里のことが放っておけないお人好しで。例えば関、というその名字の発音が少し難しいからとか、その程度の理由だろうとしか思っていなかったのだ。それなのに。
「祈里が、浅岸のことが好きなんだって、そんなの分かってた。嫌になるほど聞いたし、見た。その度に、その顔を、感情を俺に向けてほしいって思った」
 そうだ、だって、蓮は今までに何度も祈里の恋愛相談に乗っていた。敵に塩を送るような真似をしておいて、蓮自身がそんな状況を作ってきておいて、だからこそ、祈里には今の状況が信じ難かった。
 そんな祈里の考えを見透かすかのように、蓮が笑った。
「大学の、学科まで被ったの。偶然だと思ったか?」
 そう言った蓮が、ブランコから立ち上がった。こちらに歩いてくるその背後で、乗り手を失ったそれが空しくぐらぐらと揺れている。黙って頷いた祈里に、相変わらず蓮は微笑んだままだ。
「なあ、恋ってどんな気持ちだと思う?」
 目の前に立った蓮が、ズボンのポケットに両手を突っ込んで祈里を見下ろしていた。かと思えば、その腰を屈めて、祈里と目線を合わせる。思ったよりも、距離が近い。
「好きなやつと話してるだけで楽しいし、二人きりだと本当に満たされる。でもほかの男の話をしてるときは、腹が立って仕方なくて……吐きそうになる」
 すっと、蓮の表情が抜け落ちた。それまで笑っていたのが嘘かのように、まるで人が変わったかのように、鋭い目で祈里を射止める。
 祈里が僅かに身を引いた。とはいえ柵の上に座っているせいで全くと言っていいほど距離は開かない。今の祈里には、数十分前の自分を恨むことしかできない。
「なあ、分かるか? ずっと隣にいてほしいって、独占したいって、そうなったら幸せだろうなって、暇さえあれば考えてる。分かるか、この気持ち」
「わ……かんない、よ」
 震えそうな、か細い声でそう言うのが精一杯だった。呼吸をするのにさえ緊張して、ばくばくと心臓の音がうるさい。
「だろうな」
 諦念の滲んだ声。最初から、肯定の言葉なんて期待していなかったような、そんな声だった。どこか責められているような気分で居心地が悪い。
「祈里は違うわけ?」
 なにが。そう声に出したつもりだったのに、それは掠れて声にならなかった。口の形を読んだのか、蓮は「だから」と強い口調で言う。
「ずっとそこで立ち止まって、それで満足か? 幸せになりたいって思わねえわけ?」
 俯いた視界に蓮の足が映って、それがまた悔しかった。
「最初の方はさ、本当に応援してたんだぜ? 二人が上手くいくように。さっさとくっついちまえば、俺だって諦められてたかもしれねえのに」
 蓮の顔が切なげに歪む。やりきれない、ままならない、そう言いたげな顔で、祈里に訴える。
「なあ、責任取ってくれよ」
 弱々しい、懇願するような声だった。蓮は普段から明るく饒舌だが、今日の蓮はいつもとは比にならないくらいに特に感情が豊かだしよく喋る。
 責任って、なんだ。そんなの、それを言うなら。「わたしだって」意味もなく泣きそうになって、祈里は勢いよく顔を上げる。
「わたしだって本当は、幸せになりたかった!」
 そう言った瞬間、ぺち、と頬を叩かれた。温かい手だった。叩かれた、と言っても当然強い力ではなく、添えられるように頬に置かれたままの手にぽかんとしていると、強い瞳をした蓮と目が合った。
「なればいいんだよ」
 蓮の大きな手がす、と動いて、その親指が目の下の薄い皮膚を慈しむように優しくゆっくりと撫でる。
「なあ、俺にしとけって」
 ぽろりと、涙が一筋零れた。悲しいわけではなく、では嬉しいのかと聞かれたら、よく分からない。ただ勝手に、涙が出た。そして無意識に、それを口にしていた。
「……幸せに、なれる?」
「なれる」
「幸せに、なってもいいの?」
「いいに決まってるだろ?」
 例えば秀那が、流星だったとしたら。その他のやつらはきっと、ただの星屑だ。きらきらと、大なり小なり自己主張をしているだけの、没個性の、ただの星屑だ。
 目の前の、蓮だってそうだ。そして自分自身だって、その数多の中の一つだ。
 きっとわたしには、流星に願いを叶えてもらう権利なんてなかった。だから秀那は消えた。それならば。
「……幸せ、教えて。わたしに」
 屑は屑なりに、足掻いて生きてみせようじゃないか。
 祈里の両手を、蓮が取って引き寄せた。何を考えるのも億劫で、祈里はただ身を委ねる。涙が止まらなくてどうしようもなくて、蓮の服を濡らすのも気にせずにただ歯を食いしばった。
 屑に願いを、星に祈りを。
 崩れる世界に、祝福を。
 嗚咽を堪えようとする祈里をその腕に閉じ込めて、蓮だけが幸せそうにほくそ笑んでいた。