4.


 その日は月曜日で、祈里と蓮の通う大学の期末試験の最終日でもあった。つまり、今日で大学の後期は終わりである。
 待ちに待った春休みに浮き足立つ祈里は、自分へのご褒美にと織古駅前のケーキ屋でフルーツタルトとシュークリームを一つずつ購入してきた。今の祈里は、すこぶる機嫌が良かった。
 期限も間近の定期券を通し、改札を抜ける。鼻歌でも歌い出しそうな様子の祈里は駅の改札階からの階段を下りようとして、ふと過った予感と共にその下を覗き込んだ。そして、彼女の姿を見つけた。
「ヒナちゃん!」
 その声に、下にいた秀那が顔を上げる。そして祈里の姿を認めると、ふわりと花が綻ぶように笑って手を振った。
 祈里は箱の中のケーキが傾かないように気を遣いながらも勢いよく階段を駆け下りる。それを羨ましそうに見つめる秀那の視線には、残念ながら気が付かなかった。
「ヒナちゃん、今日は早いんだね?」
「共テも終わったばっかりですからね。今日はお昼までなんです」
 あっという間に秀那の隣に立った祈里は、にこにこと嬉しそうな顔を隠そうともせずに秀那に話しかける。それに「明日からはまたいつも通りですよ」と秀那が苦笑で返した。
 あ、そっか、と祈里は目を瞬かせる。次いで「おつかれさま」と秀那を労った。結果を尋ねるだなんて野暮なことはしない。それにしてもここ最近、秀那に会う頻度が高い。
 祈里はその背後に回って車椅子を押してやりながら、エレベーターの呼び出しボタンに手を伸ばした。
「ありがとうございます。本当に、疲れました」と秀那が溜息混じりに言う。気持ちはよく分かる。
「先輩は、また散財ですか?」
「違いますー。今日でテスト終わりだったからご褒美ですー」
 冗談ぽく祈里がそう言えば、ああ、と合点がいったように秀那が頷く。
「先輩も、おつかれさまでした」
「ありがとう。ヒナちゃん、コンポタ飲む?」
「飲みません。先輩、お金はもっと大事にしてください」
 秀那は困ったように笑ってそう言った。そっか、と祈里は寂しげに眉を下げる。可愛い後輩にはいくら貢いだところで何も痛くないのだが、本人が望まないのなら仕方ない。
「今日も下まで送ってくよ。次の電車?」
「あー、いえ。ちょっと早く着きすぎちゃって、次の次のやつなんです」
「そうなんだ。じゃあ待合室にでも入っとこ」
 そう提案した祈里に、はい、と秀那が微笑んだ。
 ホームにある待合室に入って、祈里はその中のベンチに腰を落ち着ける。風がない分、外よりかは幾分暖かい、気がしないでもない。
「あのね、この前浅岸くんに会ったよ」
「えっ、聞いてませんよ。何があったんですか」
 秀那は大きな目をさらに見開いた。普段はあれだけ自身の恋に受け身な祈里からその言葉が出たのが心底意外だったらしい。身を乗り出しながら祈里に向かってそう尋ねる。
 祈里がはにかんで、「いや、ほんとに偶然ね」と視線を泳がせながらもにょもにょと口を開いた。
「ほら、高校の近所だから、うち。コンビニの帰りに、偶然会ったんだ」
「……へえ。そんな偶然、あるんですか」
「ね。なんか寝坊したって言ってたよ」
 どちらかが声をかけて落ち合ったのではないかと、じっとりと疑り深い目をする秀那に気付かず、祈里はそう答える。寝坊、という単語に、秀那が反応した。
「この時期に寝坊とは、いい度胸してますね、あいつ……」
「それはわたしもちょっと思ったよ」
 同調してみせた祈里に、はあと秀那が溜息を吐いた。腕を組みながら、上目遣いで祈里を見上げる。
「本当に、祈里先輩はあんなやつのどこがいいんですか?」
 えっと思わず祈里が間抜けな声をあげた。
「あいつ、可愛い顔してますし、確かに運動はできますよ。でも性格はとにかく雑だし、勉強はなかなか自分からやろうとしないし……本当、だからモテないんだよな……祈里先輩を逃したらあいつ、どうなるか……」
 最後の方はもはや独り言かのように小さくぼそぼそとした声だった。やはり幼馴染みに容赦がないし、互いに恋人の心配まで始める始末だ。本当に、この幼馴染みたちはよく似ている。そんなところがまた可愛らしくて、思わず祈里は笑った。
「ライバルが少ないってこと? やったね」
「笑い事じゃないですよ、もう……いやまあ、私は祈里先輩が幸せならそれで……」
 その言葉にありがとう、と返しながら、祈里は薄い笑みを浮かべた。
 目の前で電車が停まって、発車する。人が集まっていたホームが、一瞬にして祈里と秀那を残すのみになった。
 次の電車までは十五分ほどだろうか。そんな中でふと、一週間前に蓮が話していたことを思い出して、祈里が言った。
「そうだ、もうすぐ流星群の時期じゃない? ヒナちゃんはやっぱり、受験のことお願いするの?」
「……あ、そうですね。そっか、流れ星……」
 すっかり忘れていた、と言いたげな顔で秀那が呟くように言う。さすが秀那だ、流星群のことを知っていたらしい。きっと佑弥は知らないだろう、興味もなさそうだ。
 祈里がそんなことを考えている間、しばらく何かを思案するように黙り込んでいた秀那だったが、ふと祈里の顔を覗き込むようにして言った。
「あの、祈里先輩」
 どうしたの、と祈里が首を傾げる。反対側のホームに電車が到着したのを見ながら、その車輪の音やアナウンスの音に秀那の声がかき消されないように、じっと祈里は耳を澄ませていた。
「先輩って、オカルトには興味ありますか? もしくは、民俗学的なこととか」
 突然そう言いはじめた秀那に、祈里は「ん?」と首を傾げた。あまりに脈略のない話題だと思ったし、秀那がそんなことを口にするだなんて、想像したこともなかった。
「ど、どうしたの急に」
 祈里からやや訝しげな視線を寄越された秀那は、「いえ」と目を伏せた。あくまで軽い、なんでもないような声音で続ける。
「深い意味はないんですよ。そうですね、例えば……神隠しとか」
 そう言った秀那に、祈里は「神隠し!?」とオウムのように返した。思ったよりも大きな声が出てしまったことを誤魔化すように、やや早口で続ける。
「何それ。いつの時代の話なの? ここ数年で誰か行方不明になった人とかいたっけ?」
 神隠し。日常からは縁遠いワードで、そしてあまりにオカルトじみた話だ。しかしその正体は、一昔前の子供の間引きだとか、現代においては遭難だとか誘拐だとか、そんなものではなかったか。
 秀那は祈里のその反応を予想していたのか、困ったように眉を下げて続けた。
「だから、例えばの話ですよ。それに、オカルト話に実在性とか、そういうのは野暮ってものです」
 まあ、確かに。そういったコンテンツとして受け容れるならば、神隠しというものは興味深い話であり、事例であるのだろう。それでも返す言葉が見つからずに祈里が黙り込んでいると、秀那が薄氷のような笑みを浮かべながら尋ねた。
「先輩って、神様とか信じてますか?」
 その質問もまた想定外のもので、え、と祈里は無意識に小さく呟く。そして考える。
 祈里は、自分で自分のことを現実主義者だと思っている。己の目で見たものしか信じない。非科学的なことは、受け入れ難い。しかし、他人の信じるものを否定するような真似もしたくなかった。秀那が相手であるなら、なおさら。
 それに、初詣の際や何か叶えたいことがあったときにだけ、その不確かな存在である神に頼り、縋ることは祈里にだって覚えがある。それも一度や二度じゃない。
 この世に神様は、いるのか、いないのか。
「いや、信じてるかと訊かれると……難しいな、ヒナちゃんは?」
 たっぷりと間を置いて考えた祈里とは対照的に、秀那は即答した。「信じてますよ」
 その瞳に嘘や偽りがあるようには見えない。秀那は本心からそう言っていた。そしてこう続けた。
「そうじゃないと、やってられません」
 祈里は秀那の方をじっと見つめていたが、秀那はどことも知れぬ虚空を眺めていた。その顔から、感情は読めない。
 祈里はそっと息を呑む。今日の秀那は、どこか淡い雪のように掴みどころがない。彼女のことを、初めて恐いと感じた。
「この世の嫌なこと、身の回りの気に入らないこと……神様がいなかったら、誰のせいにするんですか」
 遠くに暗い色をした雲が見える。これは下手をすれば雨が降るな、と祈里はどこかぼんやりと思う。これ以上冷え込むようなら、それこそ雪が降ったっておかしくはない。
 関祈里はいつだって、暖かで平穏な日向にいたかった。
 ――否。別に、周りが幸せなら、それで。自身は日陰の隅っこに追いやられるのだとしても、日向を眺めていられるなら、それで。
 それで、良いのだ。