幕間


 高校に入学したその初日に、浅岸佑弥はとても驚かされた。入学式の直前に配られた、学年の名簿がクラス別に記された紙に、覚えのある懐かしい名前を見つけたのだ。
 鷲宮秀那。小学二年生になったばかりのとき、脚を悪くして学校を変わっていった幼馴染みの名前だった。
 およそ八年ぶりにその顔を見たとき、佑弥は躊躇した。なんと声を掛ければ良いのか分からなくて、なんと呼べば良いのかが分からなくて、少し、躊躇ってしまった。
 秀那はどうやらその足のせいか、周囲に馴染むことができていないようだった。と言うよりも、周囲と深く関わることを本人が望んでいない様子だった。
 車椅子に乗って、周りからの不躾な視線を集めながらも、それを気にした素振りも見せずに彼女はそこにいる。
 それを放っておけないと思ったのは、きっと幼馴染みのその姿がただの強がりに見えたからだ。
「鷲宮!」
 高校生にもなって幼い頃に呼んでいたあだ名を口にするのは、酷く気恥ずかしかった。だから初めて名字で彼女を呼んだとき、秀那がそれに反応して、そして名字を呼び返してくれたことに、とても安堵したのだ。
 そしてこのとき、秀那がとても安心したような、柔らかい表情で笑っていたことを、きっと佑弥は一生忘れないだろう。
 八年の間にできた隔たりは、思ったよりも短い時間で埋まった。
 佑弥は頻繁に秀那のクラスに顔を出した。主に、教科書を借りるという建前で――残念ながら本当に忘れることも多々あった――本音は、秀那のことが気がかりだったのだ。だからと言って、何ができるというわけでもなかったのだが。
 秀那は車椅子で生活をしているせいで、席が教室後方入口近くに固定されているようだった。声を掛けるのが便利で大変良かった。その度に秀那は心底迷惑そうな顔をしていたものの、佑弥の知ったところではない。
 やはり秀那はクラスに馴染めていないらしかった。もう少し愛想を良くすれば友達くらいできそうなものだが、秀那はなぜわざわざひとりでいようとするのか。
 それを佑弥は勝手に寂しく思う。そう口にしたら間違いなく秀那は余計なお世話だと怒るだろうから、それに関して佑弥は何も言わないようにしていたが。結局、秀那が何を考えているのかが分からなかったから、というのもある。
 一度、教科書を返すのをすっかり忘れていたせいで、秀那の手を――否、足を煩わせたことがあった。
 佑弥の教室の前までカチコミにやって来た秀那から延々と小言を受けていると、ふと、秀那が佑弥から目線を外して、訝しげに言った。
「……知り合い? すごいこっち見てるけど」
 その目の先を追うと、確かに移動教室の途中と思しき男女がじっと佑弥たちのことを見ていた。胸元のタイの色はイエロー、つまり一学年上の先輩だ。そしてその女子生徒の方に、佑弥は見覚えがあった。
「あ、関先輩だ。中学が同じで、委員会でお世話になったんだよ」
 そう言いながら会釈をする。ふうん、と秀那が適当に返事をするのが聞こえた。「それはさぞ迷惑をかけたんだろうね」という言葉は、聞こえないフリをする。
 祈里の隣にいる男子生徒には見覚えがない。祈里の友人か、それとも。
「先輩、彼氏いたんだ。知らなかった。仲良いなあ」
「いや、彼氏って感じではないでしょ、あれは……」
 呆れたような声音で言う秀那に、佑弥は首を傾げる。
 そうは言っても、男女でああしてわざわざ移動をするなんて、付き合ってでもいないと――そこまで考えて、その理論でいくと自分たちがこうして廊下で立ち話をしているのも、何も知らない人たちから見ればカップルのようにも見えているのかもしれない、と思い当たる。
 なるほど、確かに佑弥の考えは尚早だったかもしれない。「あれは男の方の牽制が過ぎるなあ」そんな秀那の小さな呟きは、佑弥の耳には入らなかった。
「むしろあっちが私たちのことをカップルだって勘違いしてそうじゃない? 後で訂正しておいてね」
「はあ? さすがにないだろ」
 慌ててそう言ってから、数秒前の自身の思考を思い出してだんだんと言葉尻が弱くなる。
 それに秀那は気付いているのかいないのか、はいはい、と面倒そうに言うと、祈里たちの方に向かって軽く会釈をした。
 そして器用に車椅子を方向転換させて、自分の教室がある方へと向き直りながら言う。
「言わないよりマシだから。あとそろそろ教室戻る。じゃあね」
「あ、送ってくって」
 佑弥も慌てて祈里たちの方へと会釈をして、秀那の車椅子を押した。
 秀那と廊下を歩いていると、やはり視線を集める。それは佑弥たちがこうして男女で一緒にいるからではなく、秀那が車椅子に乗っているからというその物珍しさゆえだろう。病気や怪我ではないはずだが、秀那の足はもう元には戻らないのだろうか。
「ねえ、そういえばさ、体育の授業ってどうやってるの?」
「毎回レポート提出。上半身だけでできるやつは車椅子のまま参加することもある。先生も成績つけるの大変そうだし、可哀想だなあって思うよ」
 可哀想。本当に、そう思っているのだろうか。まるで他人事のような秀那の抑揚のないそれに、やはり平淡な声でへえ、そうなんだ、とだけ返事をした。
 その日の夜、秀那から着信があった。曰く、「ちゃんと私たちはただの幼馴染みですって連絡してくれた?」とのことだった。
 わざわざ通話をしてまで確認することでもないだろうに、そんなに信用がないのだろうか。そう思いながら、佑弥は「したよ」とぶっきらぼうな言い方で返す。
「ならいいんだよ。ところでさ、関先輩だっけ? どんな人なの。気になるなあ」
 からかうような、面白がっているような、そんな声音だった。機械越しではその表情を見ることは叶わないが、きっと楽しそうな顔をしていることだろう。
「なに、鷲宮が他人に興味持つなんて珍しいじゃん。明日は槍でも降ってくるんじゃないの」
「失礼だな。幼馴染みが女の、それも先輩と仲が良いって聞いたら気にもなるでしょ」
 そういうものだろうか。考えて、確かに秀那が誰か男と仲良さげにしていたら確かに気になるだろうな、と思った。伊達に幼い頃からの付き合いではない――その間に空白の期間があったとはいえ。
「うーん、いい人だよ。会ったら挨拶してくれるし。相談乗ってもらったりとか」
 棚から表紙の隅に折れた痕のついた単語帳を出して、カバンに入れる。明日の小テストは諦めた。暗記は苦手だ。
「へえ。浅岸が白高に入ったのは、その先輩は関係ないの?」
「被ったのはたまたまだけど。先輩が白高に行こうとしてたのは知ってた」
「ふーん。あっそう。つまんない」
 つまんないってなんだよ、と佑弥が笑えば、「だって」と秀那が言う。
「先輩と同じ高校に入りたくて白高を目指したー、とかだったら夢があるなって思って」
 夢ってなんだ。そうは思うが、口にはしなかった。漫画のような展開だ、と言いたいのかもしれない。女子の発想は、よく分からない。
「まあ知ってる先輩がいるっていうのは安心感あったけど。そもそも星斗の人が白高に行くのは珍しいことじゃないからね」
「ああ、それもそうか。近いもんね」
 そう言う秀那も、小学二年の初めまでは星斗町に住んでいたのだ。高校から少し足を伸ばせば懐かしい風景が見られるだろうに、それが気軽にできないのは勿体ないな、と佑弥は思う。
 時間があれば、自分が車椅子を押して散歩でもしてやってもいいかもしれない。うっかり同級生に会わないように、例えば休日の午前の間にでも。とは言っても佑弥は週七で部活動があるから、予定を合わせるのはなかなか難しいかもしれないが。
「あー、眠い。もう私寝るね。明日もゼロ限あるし」
「いやゼロ限って何」
「八時から補習あるの。気合い入ってるよね。じゃあおやすみ」
 そう言って、秀那は本当に通話を切った。ツー、と佑弥の手の中で無機質な機械音が鳴る。
 電話をかけてきたのが突然なら切るときも突然だなんて、本当に自由なやつだ。そう思って苦笑してから、進学クラスは大変だなあ、と手を合わせた。勉強が好きなやつの気が知れない、と佑弥は首を傾げる。
 もしも、秀那がその足のせいで勉強しかすることがなくなってしまっていたのだとしたら。それはきっと寂しいことなのだろうなと、やはり勝手に佑弥はそう考えて、浅く息を吐いた。