愛に気づけないのは誰だ


その日も終電で帰ってきた彼は、ひどく疲れ切っていた。目の下の濃い隈が十分に睡眠をとれていないことを物語っていて、どうにも可哀想な気持ちになってしまう。ご飯はどうする?と聞くと、疲れてしまって食べられないと言い、そのまま風呂に直行してしまった。
普段の日は、忙しいだろうし夕飯は用意しなくていい、と日頃から言われていたが、その日も私は夕飯を用意していた。
彼の為に用意した夕飯は私の翌日の朝食になる。今までがそうだったので、きっと今日作った夕飯も私が食べることになるのだろう。
すべては私の勝手だった。ご飯を用意するのも、遅く帰ってくる彼を待つのも。
そもそも休日も合わないことの方が多かった。私は仕事柄土日休みではないし、彼も平日休みではなかった。そうなるとどちらかが有給を取得して相手に合わせるしかない。私は人手不足で実質有給は取得できないし、彼も根が真面目だった為か、仕事に追われすぎていたのか、有給をとった回数は1年に2回程度だった。
借りていたアパートの部屋でも彼と過ごす時間は短く、一緒に暮らしていたと言うのに会える時間は限られていた。
セックスだって、長く付き合ってきて両手で足りてしまうくらいしかしてこなかった。最近は何もなかった。キスですらないのだから、この関係は終わっているのではないかと毎日のように私を悩ませていた。
私はもう既に彼からの愛情を感じる術を失っていた。
私の中で感情の波がピークに達していたのだ。
まだ彼は風呂に入っていて出てきてはいない。そんなことは分かっているが、熱くなった感情は止まることを知らなかった。いてもたってもいられなくなった私は風呂場の前まで早歩きで向かい、何も言わないまま戸を開けた。
彼は立って頭を洗っていた。シャワーの音で浴室内がうるさい。

「うわ寒いな」

シャワーの音がいくらうるさくとも戸を開けるときの音のほうが大きく、独歩はこちらを振り向いた。
裸の独歩は久しぶりに見た気がした。もうどれくらい見ていなかったことか。

「独歩、私寂しいんだけど」
「おま…服着たまま入ってくるなよ」
「服脱いだら……どうなるの」
「風邪をひかない」
「そういうことじゃなくて、私が服を脱いだら…」
「ごめん、名前。ゆっくり風呂浸かりたいし、お前も風邪ひくから一旦出てって」
「なんで、なんでダメなの」
「今言っただろ?」
「違う。私が、なんで、寂しいの分かってくれないの」

そう言って後ろから抱きしめると腕をほどかれる。ぬれちゃうから早く出て、とだけ言われる。既にもう濡れているし、私はそんなこと気にしてないのに。どうせ浴室から出ても寝るだけのくせに。私のことはお構いなしなくせに。
私はただ彼に愛されたいだけだった。愛されたいだけ、かまってもらいたいだけ、それだけなのに。

「もう別れる」

ただ一言が口からこぼれた。シャワーの音が消える。振り向いた独歩がびっくりした顔で私を真正面から見る。
ここまでしないと見てももらえないのか。

「……名前、俺は…」

嫌な予感がした。言葉のつづきが聞きたくなくて、咄嗟に浴室から出て戸を閉めた。勢いよく締めた為に大きな音が響き渡る。
私は戸越しに「独歩の馬鹿!」とだけ言って、大事なものだけをバッグに詰め込んでアパートから逃げ出した。
追ってきて欲しいと心のどこかで思いながらも後ろは振り返らなかった。

どれだけ走っただろうか。
見知った街並みは姿を変えた。ただ夜だから知っている場所がまるで知らない場所のように見えるのだろうか。
息苦しくて足を止める。川のせせらぎ、虫の鳴き声、遠くを走る電車の音。都会の中にこんな辺鄙な場所があったことに驚く。
すぐ側には橋がかかっていた。こんなに高い橋があったなんて知らなかった、そう思いながら私は橋を中腹まで渡る。

彼と一緒に過ごす日々は苦しかった。近いのに遠くて、寂しかった。あんな風に飛び出してきてしまった今、もう私に残っている希望なんてひとつもない。
橋の手摺りに手をかけ、次に足をかける。このまま真っ逆さまに落ちれば、死ねるだろうか。もし死ぬことが出来て、それを彼が知ったら悲しむだろうか。無下に扱わなければ良かったと思ってくれるだろうか。もっと愛してやればよかったと、思ってくれるだろうか。
深呼吸をする。私にはもう死ぬしかない。

「なぁ、落ちんのか?」

背後に誰かがいると気づいたのは、声がしてからだった。私は慌てずにゆっくりと後ろを振り返る。そこには青と紺の丁度間くらいの髪色をした高身長の男が立っていた。片目が隠れていてどことなくミステリアスな雰囲気が出ている。

「なぁ、お前落ちんのか?」
「ええ」
「どうせ死ぬってんなら賭けないか?」

男はそう持ちかけた。
一体全体どういうつもりなのだ。他人が死のうとしてるのを止めるつもりなのか。黙っていれば男は私の腰に腕を回した。そのまま俵のような担ぎ方で手摺から降ろされ、私を担いだまま男は橋の終わりへと歩を進める。

「ちょっと待ってよ!なにすんの!」
「危ないからに決まってんだろ!不満なんかよ?」
「不満に決まってるでしょ!人の邪魔して!」

私は死ぬのだ。彼がいない私なんてもう生きる価値はない。そう考えると涙か溢れ出てきた。ボロボロこぼれる涙は止まる様子がない。

「泣いてんのに変な女だなぁ」

男の角度からじゃ私の顔なんて見られるはずないのに、そう言い当てる男はなんだか不思議だった。どこに連れていかれるのかも分からなかったが、人生を諦めた私にはそんなことはどうでもよく、ただ男に身を任せるだけだった。