虹の色を知らない
 そして、四年の月日が経過した。
 私は廻と、ほとんど家族のようになっていた。


「あ、廻。おかえりなさい」


がちゃりと部屋のドアが開いて、こつこつと革靴の音をタイルの床に響かせて廻が帰ってきた。近頃は彼はよくスーツを身に着けるようになっており、元から肌の露出が少なかったものの最近では手袋と袖の間や、首元など以外はすべて衣服で覆われるようになっていた。
ドアを閉めた廻はいつもの通り鍵をかけて、「ああ」と返事を返しながらスーツからネクタイを抜き取った。しゅる、と首元を緩める仕草に、どこか疲れのようなものを感じる。


「廻、今日のお仕事はしんどかったの?」
「相手方との交渉は難無く終わったが、そこの娘だ。話が終わるまで終始俺に纏わりついてきて、心底鬱陶しかった」


はあ、とため息を吐きながらソファへと腰掛ける。昔は私の部屋のものになんて決して触ろうとしなかったのに、人は時間が経つと変化するものだなあと感心してしまう。まあ、部屋に置かれたテーブルや椅子はすべてインテリアと、こうして訪れてくれる廻と玄野さんが使うためだけにあるものだから、私が濡れた手で触ったりすることはないからということもあるのだろうけれど。

ふふ、と笑うと廻が三白眼だけをじろりと動かして私を見た。「なんだ」


「廻も変わったなあって思って」
「お前は何年経とうが全く変わり映えしないがな。いい加減、その減らず口も直したらどうなんだ」
「ええ。でも、廻は私と話すの好きでしょ?ストレス軽減に貢献してるでしょ?」
「脳みそが沸いてるんじゃないのか」


こうして軽口を叩けるようになったのも、本当に変わった。水槽から出した手に持っていた小説を閉じながら思う。この本だって、こうして難しい内容のものも読めるようになった。昔は玄野さんが児童書を持ってきてくれていたが、最近では廻が自分が読んで面白かった本を教えてくれるようになった。今読んでいたこれも、廻から勧められたものだった。
 すい、と水槽を泳ぐ。


「最近、玄野さんあまり見ないね。忙しいの?」
「ああ、ちょっと別件で暫く組を離れてる。あと二か月もすれば、またここにも顔を出すだろう」
「二か月かぁ」


部屋のカレンダーを見上げながら思う。もう、この月も終わりだ。日が巡るのは本当に早い。そう思いながら眺めていると、廻がソファから立ち上がって黙ってそのカレンダーをぺらりと捲った。そしてまた、ソファに身体を埋めた。


(…)
「…」


存外長い睫毛がそろった瞼を、眠るように閉じた廻を見て感激する。昔じゃこんなこと自分からしてくれるなんて考えられなかったのに。う、嬉しい。
思わず水槽の中を左右にひらひらと泳いでしまう。廻は、疲れているのか目を閉じて起きる気配がない。このまま寝てしまうのだろうか。


(風邪、引かないかな…)


なんとか毛布をかけようと、ソファの脇に落ちている毛布を彼の肩にかけるべく、水槽から手を伸ばす。この水槽も、彼と話すようになってからいつの間にか距離が近くなっていた。だから、水槽からでも簡単に手にすることができた。
身体を乗り出してよいしょ、と毛布をかけて安心する。


(あれ?)


廻の身体から、ふわりと花のような匂いがした。しかしそれは、玄野さんが手土産に持ってきてくれるお花じゃなくて、もっと複雑な、なんとなく人工的な匂いだった。
潔癖な彼から、こんな匂いがするなんて。不思議に思った矢先、廻がさっき言っていた言葉を思い出す。たしか、今日の取引先でそこの娘さんに付きまとわれたというようなことを言っていたような。それが原因だろうか。

(…あれ?)

ちく、と胸の奥になにか妙な痛みが走った。
しかしその痛みは、原因を考えるよりも早く一瞬で消えてしまった。今まで感じたことのない、怪我をしたときとは違うような痛みだった。その不思議な痛みに首を傾げながら、(何だったんだろう)廻の寝顔を見る。穏やかな、こうしていると優しい感じすらする寝顔だ。普段はあんなにぶっきらぼうなのに。
廻の穏やかな様子を見ていると、なんだか胸の奥が暖かな気持ちで満たされることが最近ある。それはお風呂に使っているときのような、安心するような優しい温かさなのだ。


(よく眠れますように)


そっと心の中でそう呟いて、寝ている廻へと笑いかけた。廻は眠っているから何も答えない。だけど、こうして私の前で安心して眠っていてくれているということが嬉しかった。一緒に過ごした年月の中で、彼が私に少しは気を許してくれていると思ったから。
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