孤独に降るのは
「…は?」
「すいやせん廻、俺前に言ってた立花組との交渉に行かないといけねぇんですわ」


廊下の向こうからやって来た玄野の言葉に、治崎はあからさまに顔を顰めた。


「ちょっと待て。それならあの人魚の世話は誰がやるんだ」
「俺、明日の夕方には帰ってきますから。それまでなまえの面倒見ててやってくだせぇ」


なまえのことは組長のほかには治崎と玄野の二人しか知らないのである。だから他の組員には任せられないということだろう。玄野の言う意味は分かったが、しかしそれでも治崎はなまえの魚の脚を思い出して、背筋がぞっとするのを感じずにいられなかった。
一瞬、文句を言うため口を開きかける。が、脳裏に組長の顔がよぎった。

「あの子の面倒、見てやってくれよ」


「…」
「この通りっす」


ぱんと手を合わせて合掌する玄野を内心頭を抱えながら見下ろす治崎。そして、はあと重たいため息を落とした。


「…………今回だけだぞ」


かくして。
玄野から「これ、なまえの飯なんで。スプーンと一緒に持って行ってやってくだせぇ」と差し出された盆を片手に、地下へと続く階段を一人降りる。盆に乗っているのは器に入ったリゾットらしきものとカットされた林檎だった。長い階段を下りて、突き当りに見えた部屋の鍵を開ける。
十畳ほどの広さの部屋はもともとの冷たいコンクリートの床や壁に、暖かな印象を与えるやさしい黄色の壁紙やカーペットなどが敷かれていた。玄野の仕業だ。二人掛けのテーブルと椅子のセット、それから壁には色々な空を撮ったポストカードがぺたぺたと貼られ、本棚にはたくさんの子供向け絵本や童話などが置かれていた。そして、部屋の中央に置かれた大きな水槽で泳ぐなまえ。玄野はすっかりこの娘の親気取りなわけである。治崎はさらに頭が痛くなるのを感じた。
こと、と盆をテーブルに置いて、「おい」と声をかける。すると、広い水槽の端の床で眠っていたなまえが目を開けた。どうやら水の中にいても声は聞こえるようだった。


「飯の時間だ」
「ち、治崎さん。え、どうして玄野さんじゃ…」
「玄野は今仕事中だ。そう言われていたんじゃないのか」


なまえのことをろくに見ることなく淡々と告げた治崎は、盆から皿を取り上げた。水槽に近づき、ひょっこりと顔を出すなまえの目の前に突き出す。


「一人で食べられるな?」
「そ、それは、はい。子供じゃないですから」
「ならさっさと食べてくれ」


そう言って、−驚くことに、治崎は椅子に腰かけた。てっきり自分を嫌っているこの男の子(男の子のような、青年のような)はさっさと部屋を出ていくものだと思っていたのだ。今までがそうだったように。
治崎は椅子に座って、テーブルに肘をついた。そして相変わらずマスクで半分覆われた顔から覗くふたつの三白眼でなまえをじっと見遣った。早く食え、とのことのようだ。
居心地の悪さを感じながらも、なまえは皿の中身をスプーンですくって口に運んだ。中身はきのこと玉ねぎが入ったまろやかなリゾットだった。


「…美味しい」


たしか、この料理は前に一度、玄野が持ってきてくれたことがあった。その時に美味しいと言ったことを覚えてくれていたのだろうか。
もぐもぐと咀嚼しはじめたなまえを、廻はじっと見つめていた。その視線に気づいたなまえが、食べていた手を止めて「あの、」と水槽の縁へと寄ってくる。


「廻さんって、いつも何をされてるんですか?玄野さんに訊いても、教えてくれなくて」
「…」
「えっと、訊いちゃだめなことだったら、大丈夫、なんですけど…」


何の反応も返さない治崎に、やっぱり止めておいたほうが良かったかもしれない、と思うなまえ。スプーンで再びリゾットを食べ始めようとしたときだった。


「お前は」
「、」
「頭が悪い」



あたまがわるい。
はっきりと告げられた言葉に、流石に動揺してしまった。生まれてこの方、水槽から出たことがないせいでコミュニケーションをあまり他人と取ったことのないなまえでも、言葉の意味は分かれる。
やっぱりこの人は自分を嫌っているのだ。そう思って、気まずくなって顔を俯かせてしまう。と、治崎は言葉を続けた。


「いや、頭が悪いというよりも無知というべきなんだろうな。お前の場合。可笑しいと思わないのか?」
「…」
「窓の無い部屋。向こう側からしか鍵が開けられない部屋にずっと閉じ込められて、会いに来る男はいつも夜になるといなくなる。どこへ行っているのか、何をしているのかもお前には言わない。それがどうしてなのか、何故なのか。さっき、訊かれたら不味いことならいいと言ったな。つまりお前は、訊くべきではないということは分かっているんだ。それなのに、こちら側へと不用意に足を踏み入れようとする。自分がやっていることが愚かなことだとどうして分からないんだ?」
「…」


部屋に落ちる静寂。なまえは暫く黙って、かちゃんとスプーンを置いた。


「…私は、ここへ来て毎日とても楽しく暮らしています。前にいた場所では、毎日いやなことばかりさせられていたから。…玄野さんや廻さんのこと、知りたくなるのって自然なことなんじゃないですか?だめなんですか?」
「知ってどうするんだ」
「どうもしないですけど、気になります。わ、私、」


なまえは水槽を横切って、ばしゃりと身体を乗り出した。濡れた髪からぽたぽたと雫が水面に落ちる。


「廻さんのことも、気になります。いつもなにしてるのかな、とか、なんでいつも変なお面つけてるのかな、とか…」
「…」
「なんとなく、玄野さんたちが良くないことをしているのは分かっています。でも、やっぱり、私にとっては、いつも会いに来てくれる優しい人たちだから…」



そこまで言って、だが自分が支離滅裂なことを言っているような気がしたなまえは言葉を失くして黙ってしまった。なまえの年齢よりも無邪気な性質や、純度の高い好奇心でいっぱいの心は、今までの人生で他人と触れ合ったことがないせいでそれらを上手く伝えるための言葉をあまり持っていなかった。なまえは、自分を毎日世話してくれる玄野のことも、前にいた場所から連れ出してくれた治崎のことも、ただ純粋に知りたかった。そう、知りたかった。子供がまだこの世界について知らないことを知りたがるように、いろいろなことを不思議がるように。それは、自分の傍にくれる人について、もっと知りたい触れたいという自然な欲求だった。


「私のことを、前にいた場所から連れ出してくれたのだって廻さんじゃないですか」
「あれは俺じゃない。ただ、オヤジ…組長の命令に従っただけだ」
「くみちょう、って」


そう問い返すと、治崎は肘をついて横目でなまえを眺めていたのを止めた。
身体を起こして、なまえと向かいあうようにして両手を自分の顔の前で組んでそこからなまえを見つめた。白い手袋に包まれた潔癖そうな手袋と、今、治崎が身に着けている黒一色の服がはっきりとしたコントラストを作っていた。


「組長は、お前を引き取ったこの組織のトップだ。俺や玄野の上にいて、他の奴らを纏める存在。俺の育ての親でもある」
「この組織っていうのは」
「"死穢八斎會"。いわゆる"極道"、…ああ、お前は知らないのか。ならず者や、この世に行き場がない人間を寄せ集めた組織で、昔は一般市民社会に今よりかは居場所があった。だが、今の世の中じゃ、いつもヒーローたちに目を付けられて肩身の狭い思いをしているんだ。不本意だがな」
「ヒーローってなんですか」
「……」


はあ、とまたため息を吐かれた。


「……ヒーローを知らない、ということは、お前、自分の"個性"のことも知らないのか」
「は、はいたぶん。個性って、この私の脚のことですか?」
「そうだ。お前の場合、魚の個性が肺と脚の部分に出現しているんだろう。だから水の中でも呼吸ができる。お前、今まで自分のその身体のこと何だと思ってたんだ?」
「あまり気にしたことがなかったです。周りにいた子たちも皆こんな感じでしたし」


治崎は頭痛がするようだった。今のこの世界に生まれた人間なら物心ついたころから知っていることを、この人魚は知らない。極道のことなどは、あの環境下から出たことが無いのならば知らないだろうと思っていたので予想の範囲内だったが、まさか個性のことまで知らないのか。

不思議そうに首を傾げるなまえに、治崎は再び向かい合った。


「"個性"というのは、仮にもそう呼ばれてはいるがとどのつまりは"病気"のことだ」
「病気?」
「ああ。世の中に生きている人間は、それぞれ"個性"を持っている。お前なら魚の個性、ある人間は馬の個性、またある人間は自分の身体を変化させ、炎を吹いたり物を浮かせたりする奴もいる。これらは、個性因子と呼ばれるものが俺たちの体内の中に入っているから出来ることだ」
「それがなんで病気なんですか?」
「こんなものがなければ、この世にある下らない争いや、そこからはみ出て落ちぶれる人間も存在しなかったはずだからだ。そもそも人間には個性なんて代物は必要なかった。なのに、世の中の連中は自らの個性を誇り、また嘆いて、争い合っている。個性は、この世の理を狂わせた病原体なんだ」
「じゃあ、」


と、なまえは指を治崎の方に伸ばした。


「廻さんがこの白いのつけてるのは、"病原体"に触れたくないから?」


なまえが指を伸ばそうとしたその一瞬。
ぱしんッ、と乾いた音をたてて、なまえの手は叩き落とされてしまった。まるで拒絶するかのように。


「…ッ触るな」
「、………ご、ごめんなさい」


そして、見る見るうちに治崎の青白い肌に斑点のようなものが浮かび上がっていった。それが何なのかなまえには分からなかったが、治崎が顔を思い切りしかめて自身の手をごしごしと強く擦り出したから、悪いことをしてしまったのだと分かった。
治崎の険しい表情に、なまえはなにも言えなくなって、暫くしてようやっと治崎の肌がもとに戻ったとき彼は椅子から立ち上がった。


「あ、あの廻さん、ごめんなさい私…!」
「…もういい。食事が済んだなら、俺は行く。明日にはまた玄野が来るから、皿はその時返せ」


すたすたと出口へと歩いて行ってしまう治崎。こちらを振り向きもしない彼の小さくなっていく背中に、なまえは思い切って声をかけた。


「か、廻さん!また、逢いに来てくださいね!」


その言葉に、ドアノブに指をかけた治崎が不可解そうに顰めた顔を少しだけなまえの方へと向けた。


「何の為に」
「えっ、…だって、せっかくお話できましたし。手に急に触ったりしたのは、本当にごめんなさい。でも、私、また廻さんに会いたいです」
「…」


正直、治崎は嫌だと思った。今日、やはり玄野の頼みなんて断ればよかったと思った。結局、菌まみれの水槽で過ごしているなまえに触られかけてしまった。だが、治崎はなまえの言葉を拒否しようとしなかった。それはなぜなのか、治崎にも分からなかった。組長にかたく言いつけられていたからかもしれないし、あるいは、治崎は自覚がないだけでなまえに対してなにか思うところがあったからかもしれない。この時、自分はどうして断らなかったのか、と。治崎は、この後数年たっても思い返すことになるのだった。


「………毎週木曜の夜は仕事がないから、もし何もすることがなければ来ないこともない。お前が今後一切、今のようなことをしないと約束できるならな」
「!!!」


そう言うと、まったく分かりやすいことになまえの顔がぱあと明るくなった。治崎はその単純さにまた小さくため息をはいて、今度こそ出ようとした。と。


「あっ、待って、待ってください!」
「…まだ何かあるのか」

「林檎、林檎、そこにあるの、取ってください」

「林檎…?」


視線の先をたどれば、テーブルに置かれたままの更に盛られた林檎があった。そういえば、こんなものも持ってきた気がする。
皿の端を持って、なまえに渡すと嬉しそうに「ありがとうございます」と言われた。林檎が好きなのだろうか。


「あの、廻さん。廻さんのことは、これから"廻"って呼んでもいい…ですか?」

「…好きにしろ」


しゃりしゃりと林檎を齧りながら、にっこりと微笑んだなまえに見上げられる。その目があまりにもきらきらとしているものだから、治崎は結局頷かざるをえないのだった。
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