世界はいつも遠いので
かつて、自分が海の底のような場所にいたころ。
この世のどんな明るい光も眩い救いも届かないような、あらゆる汚いものを凝縮したような灰色の世界にいたころ。
覚えているのはここからの記憶だった。
私はいつも、自分について思い出すときは必ずここの記憶から紐解いていく。廻は、その時はまだ私と同じくらいの背丈だった。マスクで半分が覆われた顔に、小さなおでこの可愛らしさがなんだか不釣り合いだと感じた。触れたガラスの水槽越しに重なった廻の手は、手袋に包まれていた。

▽▽▽


「あのう」


運ばれていった先は、窓のない部屋だった。見世物小屋を出てから結構な時間が流れたから、きっとそれなりに遠い場所にあるのだろうこの部屋は、彼によると自分の家の一室ならしい。
呼べば彼は振り返った。温度のない目にちょっと怖いと思いながら、あのうと声を出す。


「えっと、…私はここで、何をすればいいのでしょうか」
「別に何もしなくていい」


少年はあっさりとそう言って、革張りのソファに腰掛けてパソコンのキーボードを打ち始めた。視線は画面に注いだまま、「そもそも観賞用なのだから何をするもなにもないだろう」と。


「お前を買ったのは俺じゃない。ウチの組長だ。まあ正確には金銭での応酬があったわけではないから、"譲り受けた"という言い方のほうが正しいかもしれないが」
「譲り受けた?」
「お前の無能な前の飼い主からな」


淡々とした言い方に言葉が詰まる。前の飼い主。そう言われてもあまりぴんとくる顔は記憶になかった。というものの、生まれたときから水槽の中で飼われていた私の持ち主たちは何度か変わっていったのだ。私を養うために必要な道具などにけっこうお金がかかるらしい。ここに来るまでにいた見世物小屋の主人は、かなり昔に一度から二度、遠目で見たことがあるだけだった気がする。

うーんとおぼろげな記憶をなんとか思い出していると、キーボードから手を離した少年が再び私を振り返った。


「今日からはお前はこの部屋で暮らすことになった。世話には別の人間が来る。明日にはここへ来るだろうから、なにかあればそいつを呼べ」
「は、はい。分かりました…あの、あなたのお名前って、」
「治崎廻だ」


なんとも業務的な言い方だった。かいさん。口の中で名前を復唱する。かいさんは、見世物小屋にいっしょにいた蛇頭の男の子とけっこう年が近そうな見た目だった。私は自分の年齢を知らないのだが、見た感じが私と近いからもしかすると同い年くらいなのかもしれない。
大人びた印象の少年は、その日はもう私には話しかけてこなかった。ちさきかい。どんな文字をあてる名前なんだろう。水槽の中でゆらゆらと泳ぎながら思う。それが、私と廻が初めて会った日だった。
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