ダウルニクルの楽園論
「あんたが廻の言っていたなまえか」


次の日。
壁にかかった時計の針が一周ほどしたくらいに、部屋に一人の男の子が入ってきた。この子も私やかいさんと同じくらいの見た目だ。なんとなく親近感を覚えて、水槽のガラスまで近づく。ぱしゃりと顔を水の中から出すと、彼と目が合う。


「はい、なまえです。あなたは、昨日かいさんが言っていた"私を世話する人"?」
「そうだ。私は玄野。廻の幼馴染みたいなもので、ここの組に一緒に所属している」
「くみ?」


聞きなれない言葉に首を傾げると、「本当になにも知らないのか。廻の予想の通りだな」と何やら独り言ちた。
そして手にしていた紙の束ーたしか、本といったような、それを幾つか机の上に置いた。そしてそれを水槽の前まで動かして、私に近づける。


「どうだ、この距離で文字が読めるか」
「見えることは見えますが、読めるかといわれると…」
「ああ、だから私がいるんだ」


くろのさんはそう言って、ぺらりと本のページを捲った。私と対面になるように椅子にこしかけ、私の目線までそれを近づける。私もそれが読みやすいようにぺたりとガラスに引っ付いた。


「なまえが文字を読めないのは、長い間あんな環境にいたからだろう。暫くの間、文字を教えるように廻から言われている」
「文字」
「そう。まずは平仮名からだ」


くろのさん、はそれから時計の長い針がふたつ先の数字に進むまで、熱心に私に文字を教えてくれた。なぜ私にそんなことをしてくれるの、と訊いたら「廻と、組長に頼まれているからだよ。特に組長の方は、お前にちゃんと人間らしい知識を与えてやるべきだって考えだからな」と言っていた。くみちょうさん、には会ったことがないが、なんとなく私はその人に感謝するべきなんだろうなと思う。"あいうえお"なるものをくろのさんに教わっている間、彼はふと私の身体に目をやってぽつりと呟いた。


「人間っていうよりか、まるで人魚そのものみたいだが」


にんぎょ。
私はそれが何かは分からなかったが、今度また訊いてみようと思った。ぶくぶくと、吐息代わりの水泡を口から出しながら。


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